オオナムチノカミ

(大穴牟遅神・大己貴)

古事記に出てくる日本神話の神様『オオナムチ』について、わかりやすく解説します。

オオナムチ

オオナムチについて

有名な『因幡の白兎』の主役。八十神という沢山お兄さんがおり、オオナムチはいじめられっ子でした。その後、因幡の白兎を助けたり、お兄さん達から強烈な愛を貰ったり、スサノオから愛の鞭を与えられて、たくましく成長します。

成長後はスサノオから
・名前
・お嫁さん
・3つのレアアイテム
を貰いました。

その後、お兄さん達をやっつけて、オオクニヌシとして国土を治めていきます。

古事記ではオオクニヌシの子供の頃の名前として扱われていますが、日本書紀ではオオナムチでほぼ統一されています。

 

名前の意味や由来について

大穴牟遅神/オオナムチノカミ

オオ⇒大いなる
 ナ⇒己・汝。あなた。土地。
ムチ⇒神様や人の尊称。「~様」
   高貴な人という意味もある。

オオナムチは『大いなる土地の神様』という意味です。

オオナムチはスクナヒコナと共に、国内の平定や国土を経営し、修理をしました。
また、全国を巡り歩いたり、農業や国土の保護、さらに禁厭(まじない)の法も定めました。他にも医薬や温泉の神様ともされ、なんやかんやと沢山の事業を神話の上で残しています。

オオナムチの別名

○大己貴・大汝命/オオナムチノミコト
○大穴持・大名持神/オオアナモチノカミ
○大穴六道尊/オオアナムヂノミコト
○国作大己貴命/クニツクリ オオナムチノミコト
○国作坐志大穴持命/ クニツクリマシシ オオナムチノミコト
○天下治めし大穴持神/アメノシタオサメシ オオアナモチノカミ
○五百津鉏々なお取り取らして所造天下大穴持命/イオツスキスキ ナオトリトラシテ アメノシタツクリシシ オオカミ
○大国主命/ オオクニヌシノミコト
○葦原醜男・葦原志許乎命/アシハラシコヲノミコト
○葦原許色男/アシハラシコオ
○大物主葦原許色/オオモノヌシアシハラシコ
○八千矛神/ヤチホコノカミ
○廣矛魂神/ヒロホコノカミ
○大物主神/オオモノヌシノカミ
○倭大物主櫛甕玉神/ヤマトオオモノヌシ クシミカタマノカミ
○大物主櫛甕玉命/オオモノヌシ クシミカタマノミコト
○三諸神/ミモロノカミ
○三輪大神/ミワノオオカミ
○大國玉・大國魂大神/オオクニタマノカミ
○顕国玉・宇都志国玉神/ ウツシクニタマノカミ
○兵頭大神/ヒョウズノオオカミ
○農耕祖神/タヅクリノオヤノカミ
○伊和大神/イワノオオカミ
○八戸掛須御諸神/ヤトカカスミモロノカミ
○八戸挂須御命/ヤトカカスミモロノミコト
○所造天下大神/ アメノシタツクラシシ オオカミ
○幽冥主宰大神・幽冥事知食大神/カクリゴトシメス オオカミ
○杵築大神/キヅキノオオカミ
○出雲大神/イズモノオオカミ
○出雲御蔭大神/イズモミカゲノオオカミ
○国造之大神/クニツクラシノオオカミ
○国堅大神/クニカタメマシシ オオカミ
○国占神/クニシメシタマイ カミ
○大地主大神/オオトコヌシノカミ
○天下地主神/アメノシタ トコヌシノカミ
○大国作神/オオクニツクラシシカミ
○縁結神/エンムスビノカミ
○福神/フクノカミ
○大黒様/ダイコクサマ

など

 

オオナムチが出てくる神話

古事記

系譜(天照大御神と須佐之男命)

スサノオのずーっと後の6代目くらいにオオクニヌシが生まれる。
オオクニヌシの別名は5つある。

兎とワニ(大国主神) >>

お兄さん達の荷物持ちをしながら、因幡のヤカミヒメの所に行くことになったオオナムチ。
途中で皮を剥がれ苦しんでいるウサギと出会い、ウサギを助けた。喜んだウサギは予言をする。

𧏛貝比売と蛤貝比売(きさかいひめとうむかいひめ) >>

ヤカミヒメにフラれて怒りMaxの八十神達は、オオナムチ暗殺計画を企てる。
お兄さんたちの愛情があまりにも行き過ぎたので、助けを求めてスサノオの元へ行くオオナムチ。そこでスサノオから愛の鞭をたっぷりと貰い、お嫁さんと『大国主(オオクニヌシ)』という名前も貰ってめっちゃ強くなった。あと琴と弓と剣の三種類のレアアイテムもゲットしたので、国も治めた。

少名毘古那神との国作り >>

出雲の美保岬にいた時、ミクロサイズの神様・スクナヒコナと出会う。
スクナヒコナと一緒に国造りをする。

日本書紀

一書では「私たちの造った国はよく出来ているだろうか」とスクナヒコナに聞く話があります。オオナムチの問いに対しスクナヒコナは「あるいはよく出来ている所もあるが、あるいは不出来の所もある」と答えています。

また、国譲りの話では、オオナムチはフツヌシとタケミカヅチが国譲りに来た時に不信感を露わにし、国譲りを拒む話もあります。オオナムチが国を治めるために使った矛をフツヌシとタケミカヅチの二柱に奉り、オオナムチは幽界に隠れたとも記されています。

風土記

(名前が多くてややこしいので、全てオオクニヌシとオオナムチで統一しています)

拝志郷(はやしさと)

オオクニヌシが越の八口(こしのやぐち。新潟県岩船郡・関川村八つ口とされる)を治めようとして出かけた時に、林がとても勢いよく茂っていました。
その時オオクニヌシが「私の心をはやす林だ」と言いました。だからこの地を『林(はやし)』というそうです。『はやす』は囃し立てるというように、『テンションが上がるぜ!』という意味。拝志郷で勢いよく茂る林を見たオオクニヌシは、テンションが上がったのです。
拝志郷は、島根県八束郡玉湯町林村・大谷、宍道町の来待を含む地域が比定地と考えられています。

宍道郷(しじちさと)

宍道の由来について。
オオクニヌシが、狩りの時に追いかけた猪の像が南の山に二つあります。その形は石となっていますが、猪と犬にそっくりな石です。その石は今でも存在します。
なので、この2つの意思がある地を『宍道(しじち。猪石が由来とされる)』というそうです。宍道郷は、八束郡宍道町の西半あたりが比定地と考えられています。

○宍道駅(しじちえき)

宍道湖の郷と内容は同じ。

 
手染郷(たしみごう)

オオクニヌシが「この国は丁寧(たし。心を込めて)に造った国である」と言ったので『丁寧(たし)』という土地の名前になりました。手染は本来、丁寧(たし)と呼んでいたそうです。手染郷は、島根県松江市本庄町から八束郡美保関町下宇部を含む地域が比定地とされています。

三処郷(みところごう)

オオクニヌシが「この土地の田は良い。だから私の住んでいる所として昔から治めてきた」と言いました。だから『三処(みた)』という地名になったそうです。

三処郷の比定地は
・奥出雲町上三所
・三所
・郡
・高田
・亀嵩
・安来市広瀬町西比田辺り

とされています。

出雲神戸(いずもかんべ)

イザナギの最愛の子である熊野加武呂乃命(くまのかむろのみこと。熊野大社の祭神)とオオクニヌシとの二柱の神様のために神社に付属した民戸がある土地があります。その土地を『神戸』というそうです。

出雲神戸は島根県松江市・大庭町神魂神社周辺と考えれれています。
なお、出雲神戸は意宇郡の他に
・秋鹿
・楯縫
・出雲
・神門郡

にも所在するといいます。

オオナムチ伝承の地

琴引山(ことひきやま)

琴引山(ことひきやま)の由来について。
琴引山の所在地は、島根県飯南町・頓原の南東部と考えれられています。
この山の峰に、大神岩(おおかみいわ)と呼ばれる組み合わさった岩があり、その中に琴の形をした石があるといいます。その石は、昔は土に覆われていたそうです。古老の言い伝えによると、この岩がオオクニヌシの琴であるそうな。だから『琴引山(ことひきやま)』というそうです。また琴引山には、石神が存在しています。

城名樋山(きなひやま)

島根県雲南市・木次町里方の城名樋山(きなひやま)が所在地とされます。
オオクニヌシが八十神を討とうとして城を造った。だからこの地を『城名樋(きなひ)』というそうです。

「きなびやま」には
き⇒城(に)
なび⇒隠れる
やま⇒山

という意味が込められています。

来次郡(きすきのごう)

オオクニヌシが「青く茂った山々の裏に八十神は絶対に住まわせないぞ」と言って追い払った時に、ここで追って追いついた。なので『来次(きすき)』というそうです。
この木次(きすき)は『追いつく』という意味だとされています。

来次は、雲南市の一部(大東町各町・加茂町各町および木次町下熊谷・木次町上熊谷・木次町湯村・木次町平田・木次町北原を除く木次町各町)が比定地とされています。

那智の滝(なちのたき)

熊野那智大社の社伝より一部抜擢。 西暦紀元前662年、神日本磐余彦命(かんやまといわれびこ。神武天皇)の一行は
丹敷浦(にしきうら。現在の和歌山県那智勝浦町にある那智の浜)に上陸しました。

神武天皇一行が、光り輝く山を見つけ、その山を目指し進んで行ったところ、那智の瀧を探りあてます。その瀧をオオナムチの現れる御神体としてお祀りしました。
那智の瀧は熊野那智大社の別宮、飛瀧神社の御神体としてお祀りされています。

埴岡の里(はにおかのさと)

オオクニヌシとスクナヒコナは大変仲の良い神様です。
ある日のこと。仲の良い二柱が、埴(赤土の粘土)の荷物を背負って歩いて行くのと、ウンチを我慢して歩くのとどちらが遠くまで行けるか、という我慢比べをすることにしました。
オオクニヌシは
「私はウンチを我慢しよう」
と言い、スクナヒコナは
「だったら、私は埴を背負おう」
と言い我慢比べをしました。互いに我慢比べをして何日か経ったある日。
「もう限界!ダメだぁ」
限界を突破してしまったオオナムチがその場でウンチをしました。
そのウンチが、笹の葉にはじかれて、オオクニヌシの着物に付きました。その場所を『波自賀の村(はじかのむら)』と名付けました。初鹿野山(はじかのやま)とその周辺がオオクニヌシのウンチが笹にはじかれて飛び散った場所だと伝えられています。
それを見て、スクナヒコナも
「実は私も苦しかったんだぁ」
と笑いながら話して、埴を道端に投げ出しました。この埴が投げ出された岡を『埴岡(はにおか)』と名付けたといいます。ちなみに投げ出された埴と便は、固まって石に姿を変えたそうです。
現在、兵庫県神崎郡神河町比延(ひえ)に鎮座している日吉神社の辺りは、『埴岡の里』の伝承地といわれています。そして、スクナヒコナが投げた埴から変わったと言われる大きな岩が、社殿の裏山の中腹に注連縄をかけて祀られています。この物語の後に、応神天皇がこの地を訪れて「この土は土器作りに使える」と言ったので『埴岡(はにおか)』という名前になったとも記されています。

道後温泉(どうごおんせん)

オオクニヌシとスクナヒコナが伊予国(いよのくに。愛媛県)に来た時、重い病にかかったスクナヒコナを、オオクニヌシが手のひらに乗せて道後温泉の湯で温めました。
すると、スクナヒコナはたちまち元気になりました。大喜びしたスクナヒコナは石の上で踊ったという説話があります。その石は『玉の石』と呼ばれ、道後温泉本館の北側に祀られています。
愛媛県松山市道後湯之町にある道後温泉は、日本書紀にも登場する日本で最古といわれる温泉とされています。古くから大勢の偉人や書画を書く風流人に愛され、神話の時代のオオクニヌシ、斉明天皇や聖徳太子をはじめとした皇室の方々、万葉歌人の山部赤人、正岡子規、夏目漱石といった文化人など、多くの来訪記録が残っています。

稲種山(いねだねやま)

兵庫県姫路市伊勢にある峰相山(みねあいさん)のお話。
オオナムチとスクナヒコナが、埴岡の里にある『生野の峰』からこの山を見て、
「あの山に稲種(いなだね)を置こう」
と話しあい、ここに稲種を積み上げました。なので、山の姿も稲積に似ているそうです。この山を『稲種山(いねだねやま)』と名付けました。『稲積』は『刈り取ったままの穂がついた稲』という意味だとされています。

枚野の里(ひらののさと)

オオクニヌシとスクナヒコナが、姫路城が建つ姫山の女神様である日女道丘の神(ヒメジオカノカミ)と約束をして会った時、ヒメジオカノカミは丘に食べ物、また、筥器(はこ)などの器物を準備しました。それで『筥丘(はこおか)』というそうです。

生石神社(おうしこじんじゃ)

生石神社の社伝より一部抜擢。
神様が日本を治めていたという時代の頃のお話。
むかしむかしオオクニヌシとスクナヒコナの二柱が天津神の言いつけを受け、国土経営のために出雲の国からこの地にやって来ました。二柱は
「一緒に国土を治めるの相応しい石の宮殿を造ろう!」
と言いました。早速、一晩の内に工事を進めようとしました。
が、工事の途中の時に、阿賀の神様達の反乱を受けます。そのため二柱は山を下り、沢山の神様を兵庫県高砂市米田町神爪(当時の神詰)に集めて、なんとか反乱を治めました。ですが、その反乱により夜明けになってしまいました。なので、石の宮殿を正面に起こすことが出来ませんでした。石の宮殿は未完成のままになってしまったのです。
その時に二柱はこう言いました。
「たとえこの宮殿が未完成でも、私達二柱の霊は、この石に宿り、永遠に国土を治めよう」
とはっきりと言いました。それ以来、この宮殿を『石乃寶殿(石の宝殿)・鎮の石室』と言うようになったと伝えられています。
また別のお話もあります。
崇神天皇の時代、国内に疫病が流行していた時のお話。
石の宝殿に鎮まる二柱が崇神天皇の夢に現れ
「私達を祀れば世の中は平和に治まるようになる」
とオオナムチとスクナヒコナが告げたことから、兵庫県高砂市阿弥陀町生石に生石神社が創建されたそうです。
播磨国風土記の伝承では、聖徳太子の時代に物部守屋が作った石とされているそうです。

凡海(おおしあま)

昔天下を治めたオオクニヌシとスクナヒコナがこの地に来た時に、海中に散らばっていた大きな島と小さな島を引き寄せて集め、大地を作りました。小島を10個合わせたものを大島としたといいます。凡海という名前の由来がこの説話とされています。

湯泉神社(おんせんじんじゃ)

神様が日本を治めていたとされる頃。
オオクニヌシとスクナヒコナの二柱が人々を病気から守るために日本を旅し、薬草を探しに歩かれた時のお話。
ある時、二柱が有馬を訪れた時に、傷ついた三羽のカラスが赤い水たまりを浴びていました。数日後、カラスの傷は治っていました。なんと、カラスは温泉で傷を治療していたのです。カラスが水たまりに入り、傷を治していた様子を見た二柱は、その水たまりが温泉であることを知りました。その温泉が『有馬温泉(ありまおんせん)』だと伝えられています。
有馬温泉の中心に鎮座する『湯泉神社(おんせんじんじゃ。兵庫県北区有馬町に鎮座)』は、大己貴命(大黒様。オオクニヌシ)・少彦名命(医薬の神神様)・熊野久須美命の三神をお祀りしている。有馬の氏神・温泉の守護神として崇敬されています。

登々川(ととがわ)

登々川の由来について。
愛知県に轟川(とどめきがわ。木曽川支流の川)という川があります。
オオクニヌシとスクナヒコナが国造りで全国を回った時に、歩いて行った足跡が川になったから跡々(とと)という名前をつけた。また、土地の人はこう言いました。
「足跡をトトと言うんだよ」
と。このお話はダイダラボッチ伝説とも言われているそうです。

温泉(おんせん)

天孫降臨より前の国造りの時代のお話。
オオクニヌシとスクナヒコナが人が生活をするための環境を作ろうと国を造っていました。
二柱は日本国民が若く死ぬことをとても可哀そうに思い、初めて薬になる物と効果のある温泉を定めます。伊豆国(いずこく。静岡県南部の半島および東京都下の伊豆諸島)の神の湯もその一つで、箱根の元湯(もとゆ。神奈川県足柄郡箱根町)もこれに入るそうです。
ですが、伊豆の走湯(はしりゆ。静岡県熱海市伊豆山温泉)はそれに入りません。元正天皇の養老年間に発見されました。ただし、普通の温泉ではなく、一日に二度、山の麓の窟の中から炎を盛んに吹き出しながら温泉を噴出します。とても怪しい火が光ります。湧き出す湯はぬるく、水を送る為に掛け渡した管から温泉を湯船に入れます。その温泉に入ると霊力により色々な病気が全て治るそうです。

飯梨郷(いいなしのごう)

オオクニヌシが天上界から降りて来た時に、この場所で御膳(いい。ご飯)を食べたから『飯成(いいなし)』というそうです。飯梨郷は、島根県安来市飯梨町・利弘町・飯生町・実松町辺りと広瀬町のほぼ全域が比定地とされています。

御橋山(みはしやま)

御橋山の由来について。 オオクニヌシが俵を積んで天に登る梯子(はしご)をたてました。
山に積み重ねた石が橋に似ていました。なので『御橋山(みはしやま)』というそうです。
御橋山は、兵庫県たつの市新宮町觜崎(はしさき)にある屏風岩(びょうぶいわ)に比定されています。

阿豆村(あつのむら)

阿豆の村の由来について。
オオクニヌシがあちこちと巡り歩いていた時
「ああ、心の中が熱い」
と言い、恋の苦しみから逃れるために衣服のつけ紐を引きちぎりました。だから『阿豆(あつ。胸が熱いが由来とされる)』という名前がついたそうです。以下省略
なお、阿豆の村の所在は不明

林田里(はやしだのさと)

元は談奈志という名前だそうです。土は中の下。談奈志という理由は、伊和(オオクニヌシの別名とされる)が国を治めた時に御志(みしるし。印を敬って言う言葉)としてここに植えたところ、やがて楡の樹が生えました。だから『談奈志』というそうです。

波加の村(はかのむら)

神々が国占めをした時に、アメノヒボコが先にここにやってきて、オオクニヌシは後で来ました。そこで、オオクニヌシは大変不思議に思って、
「知らないうちに先に来たのだなぁ」
と言いました。なので『波加(はか。図らずが由来とされる)』という名前が付いたそうです。ここにやって来た者は、手足を洗わないと、必ず雨が降るといわれています。記載されている「ハカの村」は現在の兵庫県宍粟市波賀町の町名になっています。

吉川(えかわ)

元の名前は玉落川というそうです。オオクニヌシが身に着けていた玉が、この川に落ちました。なので『玉落川』という名前になりました。以下省略

伊加麻河(いかまがわ)

オオクニヌシが国を占有された時、烏賊(いか)がこの川に居ました。だから烏賊間河(いかまがわ)という名前がついたそうです。現在地の場所は不明。

比良美の村(ひらみのむら)

オオクニヌシの摺(ひらび。帯の一種。平帯)がこの村に落ちました。なので『摺の村(ひらびのむら)』と名前がついたそうです。

佐用(さよ)

オオクニヌシとその妹の玉津日女命(タマツヒメノミコト)の二柱の神が、競争して国占めをしたとき、タマツヒメノミコトは鹿を取り押さえ、その腹を裂いて稲種を蒔きました。
すると、一夜にして苗が生えたので、直ちにこれを取って、田に植えさせました。
オオクニヌシは
「お前は、五月夜(さよ。夜のこと)に植えたのだなぁ。夜に仕事をしてはいけないのに・・・」
と言って、他の土地へ去っていきました。
そこで、五月夜(さよ。佐用)という地名がつき、妹神は賛用都比売命(さよつひめのみこと)という名前がつきました。現在、佐用郡佐用町本位田には、サヨツヒメノミコトを御祭神とする式内社の『佐用都比売神社』が鎮座しています。

伊和の村(いわのむら)

伊和の村について。
兵庫県穴粟市一宮町のあたりに所在します。
神酒(みわ)が本当の名前だそうです。オオカミが酒(みわ)をこの村で醸造しました。だから『神酒(みわ)の村』という名前になったそうです。また於和(おわ)の村ともいいます。大神が国を造り終えた後に言われたことは「於和(おわ)等我美木於岐」
「於和(おわ)等我美木於岐」の意味はよくわかっていません。

飯盛嵩(いいもりたけ)

飯盛岳の由来について。
オオナムチのご飯を、この山に盛りました。なので『飯盛岳(いいもりたけ)』というそうです。兵庫県加西市豊倉町には兵庫県立フラワーセンターがあり、その裏山の『飯盛山』が比定地とされています。
飯盛山という名前には、神様をもてなすために地域の人々が捧げた御飯などのご馳走を、神様と一緒におなか一杯食べられる機会。いわゆる、『地域をあげての村祭を思い出させる山』という意味も込められているそうです。
『盛る』という言葉については、『ものを高く積み上げる』という意味と『神様や貴い人にお酒や食事を出してもてなす』という意味があります。後者の使い方は、今も『酒盛り』などの使い方で残っています。

糠岡(ぬかおか)

糠岡の由来について。
オオナムチが、下鴨の村で稲をついたところ、糠が散って、この岡に飛んできた。
なので『糠岡(ぬかおか)』という。
その他の説では、オオクニヌシとアメノヒボコと二柱の神様がお互いに軍を興して戦いました。その時にオオクニヌシの軍が集まって稲をついた。その糠が集まって丘となったそうです。
兵庫県姫路市神南町八幡の『糠塚(ぬかつか)の地』が粳岡)の比定地とされています。

稲舂の岑(いなつきのみね)

オオクニヌシがこの峰で稲をつきました。稲をついた土地を『稲舂の前(いねつきのさき)』と名付けたそうです。
その糠が飛んで行った所を『糠前(ぬかさき)』と名付けました。所在地は不明。

火明命(ホアカリノミコト)

兵庫県姫路市が海だった昔々のお話。
オオナムチの子である火明命(ホアカリノミコト)は、心も行いも非常に荒っぽい神様でした。そのため、父神は思い悩んで、ホアカリを置き去りにしようと思いました。
そこで、因達神山(いだてのかみやま)まで来て、ホアカリに水を汲みに行かせました。
その間に、すぐ船を出して逃げてしまいます。
この時、水を汲んで帰ってきたホアカリは、自分を置き去りにして船を出した父に対して、大いに怒ります。怒り狂ったホアカリは波風を起こして父の船を沈めてしまいました。そのため積み荷が流れ出し、それぞれ小島に漂着しました。その時オオナムチが妻の弩都比売(ノツヒメ)に
「悪い子から逃れようとして、かえって波風に遭い、酷く辛く苦しい目に遭ったなぁ」
と言いました。だから『瞋塩(いかしお)』といい『告の斉(のりのわたり)』といい、それぞれ名付けました。

その小島が今、兵庫県姫路市街地に点在する小さな丘であり、この丘の名前が、流れ着いた品物の名に由来するといわれています。

*冑丘・・・冑が落ちた所
*鹿丘・・・鹿が落ちた所
*犬丘・・・犬が落ちた所
*甕丘・・・甕(みか)が落ちた所
*藤丘・・・藤蔓で作った網が落ちた所
*匣丘・・・匣(くしげ)の落ちた所
*箱丘・・・積み荷の箱が落ちた所
*船丘・・・船が難破した所
*波丘・・・波が打ち寄せた所
*沈石丘・・・沈石(いかり)の落ちた所
*箕方丘・・・箕(み)が落ちた所
*琴神丘・・・琴が落ちた所
*日女道丘・・・蚕(ひめこ。蚕の幼虫)が落ちた所
*稲牟礼丘・・・稲が落ちた所

と名付けたといいます。これらの丘の名前については諸説あります。
*船丘・・・景福寺山
*匣丘・・・船越山またはビングシ山 
*冑丘・・・冑山 
*箱丘・・・男山
*甕丘・・・神子岡
  *箕方丘・・・秩父山
*琴神丘・・・薬師山
*稲牟礼丘・・・稲岡山
*日女道丘・・・姫山

が比定地とされています。波丘・沈石丘・藤丘・鹿丘・犬丘については、現在地不明らしいです。

高岸郷(たかぎしのさと)

オオクニヌシの子、阿遅須枳高日子命(アジスキタカヒコネ)は朝も夜も酷く泣いていました。それでそこに高く構えた家を造り、アジスキタカヒコネを住まわせました。
そして、高い梯子を掛けて登り降りさせて育てました。だから、『高崖(たかぎし)』という名前が付いたそうです。

高岸郷は島根県出雲市今市町周辺に比定されるのではないかと考えられています。

三澤郷(みさわのさと)

オオナムチの子、阿遅須枳高日子命(アジスキタカヒコノミコト)は、顎のヒゲが物凄く長く伸びるほどの大人になっても朝も夜もずっと泣いており、言葉が話せません。
その時にオオナムチが息子を船に乗せて沢山の島を巡り、心を和ませようとしましたが、それでも泣き止むことはありませんでした。

途方に暮れたオオナムチが「私の子供が泣く理由を教えてください」と夢のお告げを祈願しました。その夜、オオナムチは夢で自分の子供と話せるようになった様子を垣間見ました。
オオクニヌシは目を覚ますとアジスキタカヒコに話しかけました。

息子は「御澤(みさわ)」と言った。オオクニヌシは「そこはどこなの?」と尋ねます。
すると、アジスキタカヒコネはオオナムチの前から立ち去り、石の多い川を渡り板の上まで行き立ち止まり「ここです」と言いました。その時、澤の水が湧き出したので、その水でアジスキタカヒコは体を洗い清めました。

そのようなことがあり、出雲国造(いずもこくそう)が神吉事(かんよごと)を奏上するために朝廷に参向するときに、その水を清めの水として使うようになったといいます。
また、このような説話から今も妊婦はアジスキタカヒコが体を洗い清めた水で育った稲を食べない。もし食べると、生まれて間もない子供が言葉を話すといわれているからだそうです。なのでこの土地を『三澤(みさわ)』というそうです。
三澤は島根県仁多郡奥出雲町三沢が比定地とされています。

庭田神社(にわたじんじゃ)

伊和大神(オオクニヌシの別名とされる)に供えられた米飯が濡れたため、カビが生えてしまいました。そこでその米を播磨の庭田神社(兵庫県宍粟市一宮町能倉)の裏にある、ぬくい川で醸したところ、お酒が出来上がり、伊和大神に献上して宴をおこなったと播磨国風土記に記されています。他にも、伊和大神が慰労のため酒を醸して宴をひらいたという由緒があるなど、庭田神社はお酒にとても縁の深い神社です。日本酒発祥の地とされています。

その他 補足

意多伎神社(おたきじんじゃ)

意多伎神社の社伝より一部抜擢。創祀年代は不詳。式内社・意多伎神社に比定されている古社。出雲国風土記に『意陀支社』が二社ありますが、その一社目。
風土記にこの地はオオクニヌシが降臨したところであると記載されています。そのときオオクニヌシは自ら鋤をとり、農耕を教え、医薬を授け、産業を拓きました。オオクニヌシを祀ったのが『意多伎神社』だそうです。意多伎神社は島根県安来市飯生町に鎮座しています。

 

オオナムチの御利益

❀縁結び ❀子授け ❀夫婦和合 ❀五穀豊穣 ❀養蚕守護 ❀医薬 ❀病気平癒 ❀産業開発 ❀交通・航海守護 ❀商売繁盛 ❀方除 ❀造酒 ❀製薬 ❀人間生活の守護 ❀禁厭(まじない) ❀農業守護 ❀安産

など

 

オオナムチの祀られている神社

砥鹿神社
越前大野篠座神社
湯泉神社
大洗磯崎神社
大神山神社
気多大社
養父神社
熊野那智大社別宮飛瀧神社

○その他
甲子碑・全国各地の出雲・伊豆毛(いずも)・出雲伊波比(いずもいわい)・出雲大神宮・大己貴・大穴牟遅・大穴持・大名持・大御和・兵主・子(ねの)神社と呼ばれる神社

など

ラノベ古事記がついに書籍化決定!!
サイトで読んでくださった方に楽しんでいただけるように、さらなる愛をモリモリ詰め込みました〜!!
日本神話だけでめっちゃ分厚くなっちゃいましたが、ポチっと応援していただけたら泣いて喜びます。゚(゚^ω^゚)゚。

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日本の神話「古事記」 おすすめ本

古事記(池澤 夏樹)

古事記(池澤 夏樹)

現代語訳がとにかく丁寧で美しくて読みやすい作品です。上段に現代語訳、下段に解説が書かれています。現代語訳だけであれば、1日でサラッと読めます。

現代語古事記(竹田 恒泰)

現代語古事記(竹田 恒泰)

明治天皇の曾孫にあたる、竹田 恒泰さんの作品です。現代語訳は少し固い印象ですが、解説が面白いのでスラスラ読めてしまいます。日本が好きになります。

まんがで読む 古事記(竹田 恒泰)

まんがで読む 古事記(竹田 恒泰)

文章が苦手な方におすすめ。「現代語古事記」の竹田さんが監修されています。天皇記は無く、日本神話とヤマトタケルだけですが、子供でも簡単に読めます。