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ゆかりの地巡り

大隅半島に残る神武天皇御通過伝承・国分から肝属平野進出までの足跡を辿る~神武東征シリーズ③~

投稿日:2025/02/26 最終編集日:2025/02/27

はじめに

こんにちは!神武天皇最推し、古代史大好き、げぴこです。

日本の初代天皇・神武天皇の足跡を辿って行くシリーズ第3弾です。よろしければお付き合い下さい。

前回の記事では鹿児島県霧島市にある高千穂宮伝承地・鹿児島神宮摂社の石體神社を東征のスタート地点として、その際に立ち寄った周辺のゆかりの地を紹介しました。

篠田の矢竹と神武天皇 前回記事のイメージイラスト
篠田の矢竹と神武天皇 前回記事のイメージイラスト

(前回の記事です!未読でしたらぜひ!)

更に大隅地方の史料を照らし合わせてみると、神武天皇は高千穂宮を出発して肝属平野に進出、波見→柏原→大崎→志布志→宮崎→美々津を通られたとあります。

今回は、高千穂宮から肝属平野に行くまでの伝承地を、地方誌に乗っている「考察」も含めて紹介したいと思います。

あくまでも地方誌を編纂されている著者の考察なのですが、神武天皇が肝付平野に進出するまでの伝承を補完する役割があるのではないかと思ったので今回の記事で紹介したいと思います。

高千穂宮を出発した神武天皇が立ち寄られた岬

桜島の御神火を拝する大穴持神の所在地

垂水市史より引用

国分石体神社あたりより出発されたと言い伝える神武天皇は出港の湊がどの辺であったかはっきりしないが、恐らく小村小川海岸から出港されたと思われる。それは小村の地が古代は入江になって居り遠く桜島の御神火を拝する大穴持神の所在地でもあった。

小村より出港した一行は後世言い伝える若尊の鼻(わかみこのはな)をまわり、廻り(今の福山川の河畔)に船を繋いだ。

天皇は此処の海岸に上陸されて桜島の御神火を拝された、今日福山町の宮浦神社は神武天皇を奉祀し、平安時代の延喜式の記録にも正一位大隈廻宮浦神社とある。

小村の地に鎮座する大穴持神社
小村の地に鎮座する大穴持神社 鹿児島県霧島市国分広瀬3-1089

御祭神は大己貴命、 少彦名命、大歳神

垂水市史にある内容はあくまでも考察で、神武天皇がこの地を訪れたと言う伝承は確認出来ていないのですが、高千穂宮から出発して、御船出の港をどこにするかと考えたら今は大穴持(おおあなもち)神社が鎮座するこの場所は妥当と言えるかもしれません。

大穴持神社は式内社で大隈五社の一つに数えられ、続日本紀の天平宝字8年(764年)12月の記事に「噴火により三つの島ができた」とあり、宝亀9年(778年)12月の記事に「神造島に大穴持神を祀った」とあります。

大穴持神は大己貴(おおなむち)神が変化したものですね。土地を支配する神、すなわち噴火と結びつく大己貴神の怒りを鎮める為に神社を造営したものと思われます。

神武天皇も桜島の御神火を拝されながら、この先の東征の無事を祈られたかもしれませんね。

御神火を拝する桜島
御神火を拝する桜島

若尊鼻

霧島錦江湾国立公園 この先に海岸沿いに1km程遊歩道が続いている
霧島錦江湾国立公園 この先に海岸沿いに1km程遊歩道が続いている

錦江湾奥の福山沖には、若尊カルデラと呼ばれている海底火山があります。火山性のガス噴気や熱水の噴出が見られ、地元の漁師の間では海がたぎっている様に見える事から「たぎり」と呼ばれています。

この若尊カルデラの近くの、現在の国分と福山の間に若尊鼻(わかみこのはな)と呼ばれる岬があります。この地に伝わる伝説によると神武天皇がこの岬の千畳岩から船出したと言われています。

また、第十二代景行天皇の皇子である日本武尊(やまとたけるのみこと)が熊襲の族長・川上梟帥(かわかみたける)を討伐する為にこの岬に上陸したと言う伝説も残っています。

2人の若い尊が船出・上陸した事から「若尊」と呼ばれる様になったと言われています。

また神武天皇が幼少期をこの地で過ごされた故事から名付けられたとも言われています。

遊歩道にいた猫。観光客慣れしています。
遊歩道にいた猫。観光客慣れしています。

若尊神社

若尊鼻の北側から海岸沿いに遊歩道が続いているのですが、その最奥端に神武天皇と日本武尊の2人の皇子を祀る若尊神社があります。

若尊神社へ行く遊歩道案内板
若尊神社へ行く遊歩道案内板

整備されていない1km程の遊歩道を歩いて行きます(片道15分位)

動きやすい格好で行くのがオススメです。

遊歩道 頭上注意
遊歩道 頭上注意
遊歩道
遊歩道

鹿児島県神社庁サイトより引用

神社伝記によれば、宝暦二年二月の氏子中よりの願出により、同年十二月正一位の神位を宣下された。

鎮座地の若尊岬とは、日本武命即ち小碓命の年若くして尊き日の御児なるが故に、初め若日児岬と呼称されたが、後年若尊岬と変化したものである。熊襲征伐の折、日本武命が敵前上陸の第一歩をしるされた霊地であり、その鼻先は西に向かい約五町許り海中に突し、茲の巌窟に一小岩窟があってその中に若尊大明神を奉祀する聖地がある。

麓漁業者等が氏神と崇敬し、海上安全並びに豊漁の神として信仰が篤い。

若尊神社
若尊神社 鹿児島県霧島市国分敷根2575

御祭神は神武天皇・日本武尊です。

神社明細帳によると昔は二体の木像が安置されていたと記されています。

日本武尊より以前に神武天皇が福山の宮之浦を船出されてこの岬に立ち寄られ、国分の高千穂宮に向かわれたとも、また高千穂宮を出発されてこの岬から乗船されて大和地方へ東征に出られたと言う伝説も伝えられています。

この地は岬から眺める海の風景が美しく浜には数万年の年月に渡って波浪の侵食によって出来上がった奇岩怪石が多く、昔から築山、泉水を好む人々が遠く船に乗って採取し、「若尊石」と称して愛玩していたと言います。

桜島を眺め海沿いの遊歩道を歩いて辿り着く古代日本の伝説的英雄、神武天皇&日本武尊ゆかりの神社です。非常にオススメのスポットです。夕暮れ時に来るのも良いかもしれません。

神武天皇もこの絶景を眺めながらこの地を離れる事に対して色んな想いがよぎったのでは無いでしょうか。

日本武尊
日本武尊 
釣り人と桜島
釣り人と桜島

宮浦宮

宮浦宮の社標
宮浦宮の社標
宮浦宮
宮浦宮 鹿児島県霧島市福山町福山2437

御祭神は神代七代、地神五代、神武天皇

創建は不祥ですが延長5年(927年)延喜式神明帳に管社「宮浦神社」として記載されている式内社です。

神武天皇の東征前の仮の宮居と言われていて、その御霊跡に社殿を造営され、東征の御船出の地・建国・海軍発祥の地と伝えられています。

江戸時代には宮浦大明神と称し、福山郷の鎮守として崇敬を集めていました。宝暦2年(1752年)には正一位の宣下を受けています。1月25日の大祭には源三位頼政が鵺を射た故事に因み、神的を射る行事が行われました。これは古くは廻氏の勧請した産土神厳島大明神で行われていましたが、同社が廃された後に当社で執行される様になったと言います。

また島津義久の代以来毎年福山野馬牧より青毛の駒一匹が奉納される習わしでしたが、享保11年(1726年)以後は金銭で納める事になったそうです。

イチョウの木 また秋に来たいですね
イチョウの木 また秋に来たいですね

樹齢1000年を超える夫婦イチョウの木は、神武天皇が東征前に旅立たれる前にお手植えになられたものに、後世に植え継いだものだと言われています。

「御駐蹕(ちゅうひつ)伝説地宮浦」と記した石碑
「御駐蹕伝説地宮浦」石碑

境内には「御駐蹕(ちゅうひつ)伝説地宮浦」と記された石碑がありました。

また本殿には「神武天皇腰掛石」と称する座椅子型の石があるそうです。御神体になっているのですね。

また神宝として7寸4分の長さの獅子丸剣(志々王剣)、6寸8分の長さの金剛剣の二振りが奉納されていて、神武天皇の御剣と伝えられています(三国名勝図会によれば二振りの剣は源頼政が鵺退治をした時の剣とも伝えられています)

神武天皇の御剣が伝えられているなんて凄く貴重な伝承を伝えている神社ですね。

鹿児島神社(下宮神社)

垂水市史より引用

下宮神社

大椨の下に石の祠が残っていたが、境小学校建築に為、明治初年片隅に遷座した、実は下宮神社境内に小学校を設けたものである。

昔は此の海岸は入江になって、此下宮神社の下まで入り込んで、盧などが生えていた。丸木船や小舟の碇泊にはもってこいの場所で、福山の宮之浦を出帆させた神武天皇は、此の地に碇泊された付近に蛭子神社もある。

天皇は、此の港より一路瀬瀬戸海峡に向けて出帆し、垂水の本城川の川裾の、下宮神社に着かれたという伝説がある。

鹿児島神社(下宮神社)
鹿児島神社(下宮神社) 鹿児島県垂水市南松原町88

御祭神は彦火火出見尊、豊玉姫命、豊玉彦命、玉依姫命、潮土老翁命、猿田彦命

垂水市史によると神武天皇は宮浦宮を出発されてこの鹿児島神社(下宮神社)がある辺りまで着かれたそうです。

姶良郡隼人町に鎮座する鹿児島神宮の領地の南の境界を示す境界社として、奈良時代末期に創建されたと伝えられていて、以来神宮の末社として崇敬を集めています。

神武天皇が高千穂宮を営んだとされる場所も鹿児島神宮(の摂社である石體神社)ですから縁を感じますね。

花岡の高千穂神社

垂水市史より引用

神武の一行は新城白崩沖を過ぎ船間に着いた。船間は船を泊めるには最適で古代より神武上陸の地と言い伝えられて此の土地の人は疑はない。ここから木谷の(花岡)高千穂神社の場所に宿された。そこに瓊瓊杵尊を祀り暫時止って肝付平野に進出の準備をされた。今に残る高千穂神社伝説と一致して来る。

地元の人達の間では船間の地が神武天皇にゆかりのある場所であると言う強い想いがあるんですね。

船間
船間
花岡の高千穂神社
花岡の高千穂神社 鹿児島県鹿屋市花岡町433

御祭神は邇邇芸尊。

垂水市史によると神武天皇は船間の地に着いた後に今はこの花岡の高千穂神社がある場所に上陸されたと伝わっている様です。

社伝によると邇邇芸尊が高千穂宮から笠沙岬へ巡行の途中、当地に駐留休憩された為に、当座大明神と称されました。

地元に伝わる話によると神武天皇はこの地に碇泊され、曽祖父である邇邇芸尊を祀り肝属平野進出の為の準備をされたそうです。

高千穂宮から肝属平野進出までの別ルート

垂水市史より引用

神社が肝属平野に出ずるに道は三通りある。国分より末吉の檍木原に出岩川を南下して行く是が最も直路であり、近いが陸路である。

垂水市史には他にも肝属平野に至るまでのルートが考察されていたので紹介したいと思います。

高千穂宮から肝属平野に至るまでの別ルート絵地図
高千穂宮から肝属平野に至るまでの別ルート絵地図 鹿児島の伝承にはまだ出てきていないのですが神武天皇の兄、稲飯命&三毛入野命も共に着いて来ておられても良いですよね。
檍木原
檍木原 今この地には檍神社が鎮座しています。上代の建立と伝えるが、年月は不詳。祭神の神代七代の神々は、福山の宮浦神社より勧請されたと言います。
岩川
岩川

垂水市史より引用

更に現在の牧之原に出で峠伝いに市成、百引、高隅方面に出る陸上の路線もある。

高千穂宮から肝属平野に至るまでの別ルート絵地図 その2
高千穂宮から肝属平野に至るまでの別ルート絵地図 その2 神武天皇の長兄・五瀬命もこの時一緒だったのではないでしょうか?
牧之原
牧之原
市成
市成
百引
百引
高隅山地
高隅山地

以上、考察の地名周辺の写真も撮って来ました!

しかし、垂水市史によると陸上の行動は幾多の障害があり、ことに少人数を率いた神武天皇一行は途中で対峙する豪族とはとても相対する事は出来ないとして、これらのルートには否定的です。

神武東征は、天孫である神武天皇が都を遷される大事業だと思っているので、大人数を引き連れて船出をされたのではと考えているのですが、もし仮に少人数で行動したとなるとやはり海路を通って行くのが安全かもしれませんね。

まとめ

以上、高千穂宮(石體神社)から肝属平野に進出するまでの伝承地を紹介しました。

高千穂宮から肝属平野に至るまでの正規ルート絵地図
高千穂宮から肝属平野に至るまでの正規ルート絵地図

次の記事では志布志湾沿いに本格的に航路を進めて行く神武天皇の足跡を辿って行きたいと思います。

ここまでご覧頂きありがとうございました。

お船出
お船出 夫の神武天皇について行かずに地元に残ったと言われる事が多い吾平津姫ですが、一緒に旅立った世界線があっても良いですよね。現に神武天皇即位後、大和に呼ばれる吾平津姫の伝承もあるんですよ。

参考文献

『日本書紀 現代語訳』宇治谷孟 (講談社学術文庫 1988年)

『古事記(上)全訳注』次田真幸 (講談社学術文庫 1977年)

『古事記(中)全訳注』次田真幸 (講談社学術文庫 1980年)

『垂水市史 上巻』垂水市史編集委員会 編 (垂水市 1974年)

『鹿屋市史』鹿屋市史編集委員会 編 (鹿屋市 1967年)

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Writer げぴこ@らくがき日本の歴史

古事記や日本書紀、神社の伝承を調べたりするのと、絵を描くのが好きなアラサー女子です。神武天皇と五瀬命が控えめに言って大好き。宇摩志麻遅命も好き。

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