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古事記まめちしき
投稿日:2022/07/05 最終編集日:2022/07/04
古事記、日本書紀をはじめとした日本の神話には様々な作品のモデルになった神様や道具などが出てきます。
例えば、古事記や日本書紀等を読んだことがなくても「七支刀」「月読命」などの言葉は、ゲームや漫画などで目にした事があるという方は多いのではないでしょうか。
▼もくじ
日本神話最強の武器? 草薙剣について
その中でも最も有名の物のひとつに「草薙剣」があると思いますが、有名度に反して「皇位継承の三種の神器」くらいにしか知られていない部分もあると思います。
例えば、今年は大河ドラマで「鎌倉殿の13人」、
アニメでは「平家物語」が放送され、その中で「壇ノ浦の戦い」の描写も出てきましたね。
そうすると「あれ? 草薙剣って安徳天皇と一緒に壇ノ浦に沈んだんじゃないの?」って疑問に思われる方もいると思います。
また、草薙剣というと熱田神宮の御神体としても有名だと思いますが、
皇位継承の時は熱田神宮から持ち出されるの?
その時熱田神宮には神様がいないの?
何て思われる方もいらっしゃるでしょう。
今回は、その草薙剣に関して少しだけ詳しくなれるお話をします。
草薙剣の由来
まず、草薙剣は誰がどの様に手に入れたのか。
ここはまだ有名な事なのでご存じの方も多いと思いますが、
草薙剣が初めて記されている箇所は古事記の上巻、須佐之男命(スサノオノミコト)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治する箇所で出てきます。
須佐之男命が8回も繰り返して醸造した強いお酒で八岐大蛇を酔わせて、
大蛇が眠った隙に全ての首と尻尾を胴体から切り落としていくと、尻尾の中に何か堅い物が入っていて須佐之男命の長剣が欠けてしまいます。
不思議に思った須佐之男命はその尻尾を割いてみると、中から一本の剣が出てきました。
これが、草薙剣です。
須佐之男命はこの剣を姉神である天照大御神に献上します。
その後、天孫降臨の際に邇邇藝命(ニニギノミコト)は天照大御神から鏡や勾玉と一緒に草薙剣を受け取り、この地上に降り立ちます。
その後、記紀には草薙剣に触れる箇所暫く出てこないのですが、
後述される内容から宮中に祀られていたと察することが出来ます。
その後、古語拾遺によると崇神天皇の御代に皇居の外(倭の笠縫邑)で祀られるようになるのですが、「古語拾遺」によるとその際に形代としての剣を作り、宮中に祀ったそうです。
「形代ってなに?」って思う方も多いのではないでしょうか。
形代というのは、言い換えれば神様の依り代になります。
日本全国の神社の御本殿に祀られる御神体も、神様そのものではなく一種の形代、依り代で、そこに神様の御霊が宿るとされています。
つまり、草薙剣は御霊の宿る剣であり、その依り代として相応しい刀をもう一振り打って、そこに草薙剣の分霊を宿して形代としたのだと推測されます。
その後、草薙剣は八咫鏡と共に伊勢の神宮に遷され、
八咫鏡の形代としての鏡と一緒に、草薙剣の形代が皇居に祀られ八尺瓊勾玉と共に「三種の神器」として皇位と共に継承されることになります。
つまり、安徳天皇と共に壇ノ浦に沈んだ「剣」は、草薙剣本体ではなく皇居に祀られていた「形代の剣」の方になると言われています。
その後朝廷と源氏は形代の剣の捜索を行いましたが、結局見つからなかったため朝廷は伊勢神宮より献上された剣に草薙剣の御霊を分霊し、新たな「形代の剣」としました。
つまり、現在皇居に祀られて皇位と共に継承されているのは、草薙剣そのものではなく、2代目の形代の剣ということになるのです。
伊勢の神宮から熱田神宮に遷った経緯
それでは、草薙剣そのものはどの様に伊勢から熱田に遷っていったのでしょうか。
草薙剣に深い関わりを持つ方は、この剣そのものを見つけた須佐之男命の他にもう1人、倭建命(やまとたけるのみこと)がいます。
草薙剣が熱田の地に祀られた背景には、この倭建命が大きく関わってきます。
倭建命というと、雄々しく力強い武神というイメージを持っている方も多いと思います。
実際に、まだ幼く小碓命と名乗っていた頃は父の指示で兄を呼びに行った際、これに応じなかった兄の両手足を引き千切る程の乱暴者で、恐れ疎んだ父親から熊曾建兄弟を始め出雲建など西方の討伐を命じられて、十分な従者もなく15~16歳で見事これを果たした、強い神様でもありました。
しかし、西方の討伐から戻ると次は直ぐさまに東方の征伐を命じられ、父親である景行天皇に疎まれていることを強く感じ、伊勢の神宮にいる叔母、倭比賣命の所に行き
「父は私に死んで欲しいと思っているに違いない。西の豪族達を討伐して休む間もなく東の討伐に行かなければならない、しかもお供の軍勢もなく行けなんて言うのは、私に死んで欲しいと思っているに他ならないではありませんか。」と、涙を流して嘆く場面もあります。
一説によりますと「この剣が折れる時が、きっと私の命が折れるときに違いない。」と涙する甥の倭建命を不憫に思ったのか、倭比賣命は「剣が折れたら命も折れるのならば、決して折れることのない剣をあげましょう。」と、倭建命に草薙剣を渡します。
ここで、再び草薙剣が動き始めるのです。
草薙剣を携えた倭建命は、父の命に従って東を目指しますが、その途中で騙し討ちに遭い火に囲まれ、草薙剣で草を刈り取って向火をつけて火を退けこれを逃れます。
この事から「草薙剣」と呼ばれたとされる説が有力で、これ以前の名称は異なっていたようです(天叢雲剣も一説に過ぎず、こじつけという説もあります)が、古事記が編纂されるのは倭建命の時代より600年以上も後の時代なので、遡って初出の段階で「草薙剣」と記されているのだと察することが出来ます。
その後、東方の征伐を終えて尾張に差し掛かった際、かねてより婚約していた美夜受比賣命と結婚をして、美夜受比賣命の館に草薙剣を預けて「素手で討ち取れば良いだろう」と伊吹山に向かいます。
しかし、伊吹山の神の起こした雹混じりの暴風雨に心身を痛め、尾張の美夜受比賣命の所へと戻る途中、倭建命は命を落とします。
余談ですが、その際に倭建命は「まるで自分の足が三重に曲がっているようで、とても疲れた。」と言ったことから、その地名を「三重(現在の三重県三重郡)」と呼ぶようになりました。
倭建命が亡くなった後、草薙剣は妻である美夜受比賣命が大切に祀っていきますが、晩年自分の死期を悟り、身近な人々を集めて草薙剣をお祀りするのに相応しい土地を探し、その土地を熱田と名付け現代に至るまで草薙剣を祀ってきました。
神話の時代から現代へ
この様に、草薙剣と形代の剣は同じ御霊を分け合ったふた振りの剣として、熱田神宮と皇居にそれぞれ祀られてきました。
皇位と共に継承され、天皇陛下が伊勢の神宮に参拝される際に携える剣が、形代の剣であり。
草薙剣そのものは熱田神宮創建以来御神体として祀られていることになっています。
ただ、過去に何度か盗難や略奪で御本殿から持ち出されていますが、その度に持ち出した人に祟りが起き、最終的に熱田神宮に戻ってきています。
中でも、最初に盗まれた後、一時的に宮中で保護したそうですが、保護したのに祟りに遭い当時の天武天皇が命を落とされたとされています。
そういう意味では草薙剣は熱田の地から動かすべきではないのかもしれませんが、
一度だけ公式に熱田の地を離れたことがあります。
それは昭和20年、日本がポツダム宣言を受諾した後、連合軍が進駐した際に万が一の事が起きないよう飛騨国一宮の水無神社へ草薙剣を遷座していました。
この期間が8月の22日から9月の19日となるのですが、ポツダム宣言の受諾が8月14日に決定したとして、とても短い期間で遷座が行われています。
この背景には、太平洋戦争で日本本土への空襲が激化し、いよいよ本土決戦も視野に入れ始めた昭和20年7月31日、三種の神器の疎開を検討し始めその候補地として水無神社が選ばれ、秋口に三種の神器疎開を想定して伊勢の神宮関係者などによる視察をしていたことで、ポツダム宣言受諾後速やかに草薙剣を遷すことが出来ました。
もしポツダム宣言を受諾せずに本土決戦になった場合、昭和天皇は宮中にある八尺瓊勾玉と伊勢の神宮に祀られる八咫鏡および熱田神宮の草薙剣ともども長野県の松代大本営に移り、奪われないよう自らお守りして運命を共にする決意だったともいわれています。
また、草薙剣には「元々天照大御神の宝剣だったのが八岐大蛇に奪われた説」や、
「草薙剣に宿るのは八岐大蛇説」「八岐大蛇は上質な砂鉄が取れる川説」など、
否定も肯定も出来ない様々な諸説があります。
もし興味を抱かれましたら、調べてみるのも面白いかもしれません。
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