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ゆかりの地巡り
投稿日:2022/11/24 最終編集日:2024/01/22
はじめに
皆さんは日本の神様と言ったらどの神様を思い浮かべるでしょう?
アマテラス
、スサノオ、ツクヨミ、アメノウズメ、オオクニヌシ、サルタヒコ…
その中でも一番最初に思い浮かべるのは…アマテラス…天照大御神と言う人が多いのではないでしょうか?
記紀神話に詳しくない人でも、天照大御神は知ってる~!って人は多い様に思います。日本の神様の頂点、皇室の祖先神、太陽の女神様…。
私も記紀を勉強するずっと前から、天照大御神だけは知っていて、日本の神様の頂点が太陽の女神様だなんて素敵だな~って考えていて、とても親しみを持っていました。
そして勉強していく内に、その天照大御神が、各地を転々として最後、伊勢の地に鎮座する事になる伝承が古代よりずっと伝えられてきた事が分かり…
これは自分も一度この女神様が辿って来た道を、直に感じなければならないなと思い、記事を書く事になりました。
元伊勢とは
簡単に説明しますと…三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮の内宮(天照大御神を祀る)と外宮(豊受大御神を祀る)が、現在の地に祀られる以前に、一時的に鎮座していた伝承地の事を言います。伊勢神宮の「ふるさと」ですね。
古事記によると、垂仁天皇の段で、同天皇の皇女・倭姫命が斎王として伊勢大神宮をお祀りになったとあります。
日本書紀にはもう少し詳しく記載してあります。
崇神天皇の時代までは天照大御神は宮中で祀られていて、いわゆる天皇と「同床共殿」の状態でありました。しかし、天皇は神様と同じ宮中で共に暮らしている状態を大変恐れ多い事だと考えます。
そこで皇女の豊鋤入姫命に天照大御神を託して、まずは大和の笠縫邑に祀ります。これが元伊勢の始まりですね。
天照大御神の遷座の経緯については記紀共に極めて簡潔に記してあり、豊受大御神に関しては記述はありません。
しかし、中世の神道五部書の一つ「倭姫命世記」には詳しい経緯が書かれています。
「倭姫命世記」とは、鎌倉時代中期に成立したと言われる伊勢神道の経典です。神道五部書の中でも比較的成立が早いと考えられていて、古代の文献を元に製作されている事が明らかとなっており、伊勢神宮の古伝承を包括していると考えられています。
また、古事記・日本書紀には無い伝承が非常に豊富です。
正統な歴史書では無くあくまでも中世の経典ですが、元伊勢を取り扱う際に記紀の伝承を補完する役割があると考えても良いと思います。
従って、記事内に記載してある年号や時期は、「倭姫命世記」及びそれを元に2018年に執筆された「倭姫の命さまの物語」を基準としています。
記紀に記載してある年号や時期と異なる部分がありますが、それを踏まえた上で、是非古代・中世で共有された御杖代と天照大御神の物語を一緒に堪能出来たらと思います…!
前置きが長くなりましたが、今回の記事ではまず、天照大御神が宮中から出る事になった詳しい経緯・各地にある元伊勢の伝承地を実際に参拝した時の報告を、倭姫命世記やその他の古文献に書かれている伝承で更に膨らまして補完しながらお伝えしたいと思います。
同床共殿~天皇と共にあった天津璽
倭姫命世記より
八年辛酉正月、即ち、都を橿原に建つ。帝宅を経営りて、皇孫命の美豆の御舎を造り仕え奉りて、天の御陰、日の御陰と隠りまして、四方の国を安国と平けく知しめす。天津璽の劍・鏡を持ち賜ひて、言寿宣はして、天津日嗣を、万千秋の長秋に護り奉り祐け奉る称辞竟へ奉る。
凡て神倭伊波礼彦天皇より、已下、稚日本根子彦大日日天皇より以往九帝、年を歴ること六百三十余歳。この時に当たりては、帝と神とその際未だ遠からず。
殿を同じくし、床を共にす。此れを以て常と為す。かれ、神物と官物ともまた未だ分別たず。
初代・神武天皇から第十代・崇神天皇までは、まだ天皇と神様の境が曖昧であり、天皇は皇居にて天照大御神を祭祀する神殿を造営され、天津日嗣の剣・鏡と共に生活しておられました。
この状態を「同床共殿」と言います。
因みにこの時代の習慣では天皇が崩御され、新たな天皇が登極される毎に別の地に新たな皇居を造営されておられました。
つまり皇居の移動と共に神宝もまた新たな皇居へとお遷りになられた事になります。
ここでは初代・神武天皇から第十代・崇神天皇までの皇居跡を紹介します。
初代天皇・神武天皇
皇居:畝傍橿原宮
皇居跡伝承地:奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮
第二代天皇・綏靖天皇
皇居:葛城高丘宮
皇居跡伝承地:奈良県御所市
第三代天皇・安寧天皇
皇居:片塩浮孔宮
皇居跡伝承地:奈良県大和高田市 石園座多久虫玉神社(いわぞのにいますたくむしたまじんじゃ)
第四代天皇・懿徳天皇
皇居:軽曲峡宮(かるのまがりおのみや)
皇居跡伝承地:奈良県橿原市大軽町周辺
第五代天皇・孝昭天皇
皇居:掖上池心宮(わきのかみのいけごころのみや)
皇居跡伝承地:奈良県御所市池内 御所実業高等学校内
第六代天皇・孝安天皇
皇居:室秋津島宮(むろのあきつしまのみや)
皇居跡伝承地:奈良県御所市 八幡神社
第七代天皇・孝霊天皇
皇居:黒田庵戸宮(くろだのいおどのみや)
皇居跡伝承地:奈良県磯城郡田原本町黒田 法楽寺
第八代天皇・孝元天皇
皇居:軽境原宮(かるのさかいはらのみや)
皇居跡伝承地:牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)
第九代天皇・開化天皇
皇居:春日率川宮(かすがのいざかわのみや)
皇居跡伝承地:率川神社境内
第十代天皇・崇神天皇
皇居:磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)
皇居跡伝承地:奈良県桜井市金屋 志貴御縣坐神社(しきのみあがたにいますじんじゃ)
天皇と神宝は常に一緒にありました。皇居跡を辿るという事は、天照大御神そのものである神宝の足跡を辿るという事にもなりますね。
倭の笠縫邑
倭姫命世記より
御間城入彦五十瓊殖天皇即位六年己丑秋九月、倭の笠縫邑に就きて、殊に磯城の神籬を立てて、天照太神及び草薙劍を遷し奉り、皇女豊鋤入姫命をあいて斎き奉らしめたまふ。その遷し祭る夕べ、宮人皆参りて、終夜宴楽し歌ひ舞ふ。
然る後、太神の教へに随ひて、国国処処に大宮処を求め給へり。
第十代・崇神天皇が即位されて5年(BC93年)の事です。国内は疫病が流行り、国民の半数が死亡する非常に危機的な状況にありました。
また、同天皇6年(BC92年)、百姓が流離したり、反逆する民も出てきたりと、その勢いはいよいよ天皇の徳を以って治めようにも困難になりました。
天皇は、国が乱れるのは宮中で祀られている天照大御神・倭大国魂の二神の勢いの為であると畏れられ、床を同じくして宮殿で一緒に過ごす事は難しいと考えられました。
そこで天皇は倭の笠縫邑に、堅固な石の神籬(ひもろぎ)を造り、そこへ天照大御神そのものである御鏡と草薙の剣を遷し、皇女の豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)に祀るように命じました。神籬とは神様が降臨される場所の事ですね。
倭の笠縫邑の所在地については奈良県桜井市三輪に鎮座する大神神社の摂社・檜原神社付近が有力とされています。
この地に遷座してから33年間祀られたそうです。後に天照大御神の神霊が各地に祀られていた年数が数年単位なので、かなり長い間笠縫邑に奉斎されていたんですね。
よほど最初の方はこの地が気に入られたんでしょうか。豊鍬入姫命からしたら「この地で良くないですか?実家から近いし」という思いが脳裏によぎった…!?のかも。
現在の御祭神は天照大御神・イザナギ・イザナミ。
天照大御神がこの地より次の場所に遷座した後も引き続きお祀りされていて、今も元伊勢と呼ばれています。
社殿や拝殿は無く、三ツ鳥居(みつとりい)を通して直接三輪山を拝む形になります。古代の神道の祭祀の形を残した神社ですね。
向かって左側の社は「豊鍬入姫宮」。その名の通り豊鍬入姫命が祀られています。昭和61年に鎮斎されたそうです。現代に入ってから、豊鋤入姫命を祀る社が新たに建てられるなんてなんだか嬉しく感じます。
(余談ですが橿原神宮も明治に入ってから創建されました。後世になってからその人物の功績を改めて讃えて神社を創建するってとても素敵な事だと思います。それと同時にそのご祭神が自分の推しだったら尚の事、よくぞやってくれました!ってなりますね)
神社西方の箸中には豊鍬入姫命の墓と伝わる「ホケノ山古墳」があります。(大神神社の社伝より)
天照大御神が倭の笠縫邑に遷座したその日の夕方、この地に多くの宮人が集まり終夜宴を催し歌ったり舞を披露したりしたそうです。
古語拾遺にはこの時の歌として、
「宮人の 大寄すがらに いさとほし 行き宜しも 大寄すがらに」(宮人が大勢集まって心を充分に一つに寄せて奮い立てば、神様の御心も良くなるので、御遷座もうまくいったよ)
とあります。
崇神天皇が即位されて5年、国内では疫病が流行り、民の半数が亡くなったりと非常に大変な状況でありました。現代の私達ですら、疫病が流行ったら一気に生活様式が変わってしまうほど、困難な事になってしまいましたよね。医療技術の発達していない古代の人達からしたしたら、不安で仕方なかった事と思います。
この歌にはそんな当時の人達の安堵と喜びが込められているんですね。
因みに、宮中には天照大御神と共に倭大国魂という神様も祀られていたと先述しました。
この神は皇女・渟名城入姫命に預けられて宮中の外に祀られる事になりますが…。
しかし、渟名城入姫命は髪の毛が抜け落ち、体が痩せ細っていき、倭大国魂を祀る事が出来なくなってしまいます。神の祟りといった所でしょうか。
この後、倭大国魂は倭国造の1人・市磯長尾市(いちしのながおち)という人物に祀らせる事により、事なきを得ます。
倭大国魂は詳しい系譜やどういった神様なのかがはっきりと分かっていません。ただ、豊鍬入姫命が祖神である天照大御神を祀る事が出来た所を見ると、倭大国魂も倭国造の祖神ではないかという見解があるみたいですね。
しかし、神を祀ると言っても、その祀り方や祀る人選を誤るとこんな悲劇が起こるとされたんですね。古代の人が如何に祭祀を大切にし、そして神に畏敬の念を抱いていたかが垣間見える伝承です。
その倭大国魂を祀る大和(おおやまと)神社と渟名城入姫命の伝承墓・奈良県天理市の中山大塚古墳をを紹介します。
宮中三殿式の特異な社殿になっていて、中央に倭大国魂(大地主大神)・向かって右側に八千矛大神・向かって左側に御年大神が鎮座しています。
由緒の倭大国魂の別名に大地主大神とある所から、大和国で元々信仰されていた神様…といった認識なんですね。
八千矛大神(大国主命)も共にご祭神になっている所も何かしらの関連性がある様に思えますね。
吉佐宮
倭姫命世記より
三十九年壬戌、但波の吉佐宮に遷幸なりまして、四年を積て斎き奉る。
崇神天皇39年(BC59年)、豊鋤入姫命は丹波国の吉佐宮にお遷りになり、天照大御神を4年間お祀りになりました。
この吉佐宮の伝承地は、京都府宮津市にある籠(この)神社の奥宮である真名井神社付近が有力とされています。
京都は京都でも、山城ではないんですよ…丹後の方の京都です!(因みに昔は丹後・丹波と別れてはおらず、丹波と呼んでいました)
日本三景に数えられる「天橋立」が有名な宮津市です!
その吉佐宮と呼ばれる真名井神社の由緒を簡単に説明します。
神代の昔から、真名井原に吉佐宮があり、豊受大神が鎮座していました。そして崇神天皇39年(BC59年)、倭の笠縫邑から移動してきた豊鋤入姫命が、この地で天照大御神を4年間お祀りしました。
つまりこの時、天照大御神と豊受大神は共に祀られていたという事ですね。
その後、天照大御神は垂仁天皇の御代に、豊受大神は雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢国に遷宮されます。
その後奈良時代に、この吉佐宮は南西400メートル程の所に遷宮し、名前を吉佐宮から籠宮(後に籠神社)と改称し、天孫・彦火明命を主祭神としてお祀りします。
この様な経緯がある為に、籠神社は本宮と奥宮が鎮座する神社となります。
それでは本宮の籠神社の方から紹介しますね。
主祭神は彦火明命。天照大御神の孫の瓊瓊杵尊の兄神・饒速日と同一神とされる神様ですね。当神社の累代の社家である海部氏は、この彦火明命を始祖としています。
相殿に豊受大神、天照大御神、海神、天水分神(あめのみくまりのかみ)。
そして…本宮の籠神社から北東に400メートルほどの所に奥宮・真名井神社が鎮座しています。こちらが天照大御神が4年間鎮座していた元伊勢の吉佐宮になります。
神社本殿は写真撮影禁止の為にお見せする事は出来ませんが、拝殿の奥には磐座(いわくら)があり、奥にある磐座主座には豊受大神が祀られています。因みに「下宮」とする本宮に対して、この磐座主座は「上宮」と呼ばれています。(本宮、奥宮、下宮、上宮…ちょっとややこしいですね)
拝殿の手前にある磐座西座には、天照大御神、イザナギ、イザナミが祀られています。檜原神社に引き続き、ここでも天照大御神は父母と共に祀られていてなんだか嬉しく思いますね。古事記ではアマテラスはイザナギが一人で産んだ事にされていますが…日本書紀本文ではイザナギ・イザナミ2人でアマテラスを産んでますし、イザナミはお母さんですよね!
生まれてよりすぐに高天原を治めよ!って言われているので、父母に甘える事無く最高神としての責務を全うしなければならなかったアマテラス。
父母と一緒に祀られてるお社では家族で和やかに鎮座していて欲しいものですね。
丹後に伝わる民謡を紹介しておきますね。
伊勢へ詣らば 元伊勢詣れ 元伊勢 お伊勢の故郷じゃ
伊勢の神風 海山越えて 天の橋立吹き渡る
もう一つの吉佐宮も紹介します。
○○の宮と言っても、その候補地は何か所もあったりします。一つの宮ごとに伝承地が複数あるのも、それぞれの地元の方の歴史認識、そして元伊勢への思い入れの様なものを感じてしまいますね。
同じく京都府の福知山市大江町内宮に鎮座する皇大神社。
向かって右側(左殿)は天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)。天の岩戸に隠れてしまった天照大御神を引っ張り出して大活躍した力持ちの神様です。
向かって左側(右殿)は栲機千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)。
天照大御神の孫の瓊瓊杵尊の母で、織物の神様として信仰されています。他にも安産・子宝の御神徳を持つ事でも知られています。
栲機千々姫命から見たら天照大御神はお姑さんですね。
長い階段を上った先には鬱蒼とした深い森に包まれた神秘的な雰囲気漂う境内が広がります。
この皇大神社の位置する宮山は、シイを中心とした常緑広葉樹の自然林。
当地域一帯は丹後天橋立大江山国定公園に指定されています。
ぜひ訪れた際には、この地域の豊かな自然と一体化した、古の佇まいが今も残っている吉佐宮を堪能して頂きたいです。
天照大御神が吉佐宮から遷座した後も、その御神徳を慕った住民から引き続き伊勢神宮の内宮の本宮として信仰されてきた歴史があります。
そして…皇大神社とさほど距離が離れていない所に、豊受大神を祀る「外宮」の元伊勢もあるんです!
豊受大神社(とゆけだいじんじゃ)。鎮座地は京都府福知山市大江町天田内。
由緒によると、当地に天照大御神が鎮座された時に豊受大神を合わせてお祀りしたとあります。丹後の方の元伊勢とは、豊受大神お祀りする様になった経緯が少し違いますね。
各神社によって言い伝えが違うのも、伝承を収集していく上での楽しみの一つであったりします。
相殿神は瓊瓊杵尊、天児屋命、天太玉命。天孫降臨メンバーです。
伊豆加志本宮
倭姫命世記より
四十三年丙寅、倭の国の伊豆加志本宮に遷りたまひ、八年斎き奉る。
崇神天皇43年(BC55年)、豊鋤入姫命は伊豆加志本宮(いつかしのもとみや)にお遷りになり、天照大御神を8年間お祀りになりました。
地元に戻って来られましたね。
その伊豆加志本宮の伝承地で有力なのが奈良県桜井市初瀬の與喜天満神社(よきてんまんじんじゃ)付近と言われています。
ご由緒によると…この地は古来より日のいずる聖なる地であり、天照大御神が天上より初めて降臨された地として崇められてきた初瀬の與喜山。與喜天満神社はそんな緑豊かな與喜山の中腹に鎮座しています。
創祀は天慶9年(946)で日本最古の天神信仰の神社として有名だそうです。
元伊勢でもあり、天照大御神が初めて地上に降臨したという伝承もあるという、極めて太陽の女神に所縁の深い地と言えますね。
また境内には、スサノオの暴挙に心を痛めた天照大御神がお隠れになったという「天の岩屋」を思わせる3つの磐座があります。
左側手前の大きな磐座が沓形石、奥の磐座が掌石と言われていて、それぞれ天児屋根命と太玉命を表しているらしいです。
二柱共、天の岩屋に隠れた天照大御神に出てきてもらう為に、大活躍した神様ですね!
豊鋤入姫命が天照大御神の神霊を一時的に祀った場所でもあり、それとはまた別に天照大御神が高天原から初めて降臨されたという伝承を持つ場所でもあります。
それぞれの地方や神社や氏族によって多彩な伝承があって、また同じ場所で同じ神様でも違った伝承があるのが面白いです。
奈久佐浜宮
倭姫命世記より
五十一年甲戌、木の国の奈久佐浜宮に遷りたまひ、三年を積るの間、斎き奉る。
時に紀の国造、舎人紀麻呂良、地口の御田を進る。
崇神天皇51年(BC47年)、豊鋤入姫命は紀伊国の奈久佐浜宮に遷り、そこで天照大御神を3年間お祀りになりました。
その奈久佐浜宮の伝承地の一つと言われているのが、和歌山県和歌山市毛見に鎮座する濱宮です。
日前神宮・國懸神宮の元摂社であり、両神宮の旧鎮座地でもあります。
主祭神:天照大御神
配祀神:天懸大神 国懸大神
和歌山県神社庁HP 濱宮
国造家旧記などの古記録より引用
神武天皇御東征のとき、神鏡及び日矛を天道根命に託して斎祭せしめ給うた。
天道根命はこの二種の神宝を奉じて、先ず紀伊国名草郡加太浦へ行き、その後加太から同郡木本へ移り、更に木本から同郡毛見郷に到って、琴ノ浦海中の岩上に奉祀した(当神社の発祥と考えられる)。
崇神天皇51(紀元前47)年に至って、4月8日に、豊鋤入姫命が天照皇大神の御霊代を奉戴して名草濱宮に遷座せられ、同時に琴ノ浦の岩上に安置されていた天懸大神(神鏡)・国懸大神(日矛)も濱宮に遷し、宮殿を並べて鎮座せられた。
その後、天照皇大神は、崇神天皇54(紀元前44)年11月に吉備名方濱宮に遷られた後、垂仁天皇の御代に至り、倭姫命が奉じて伊勢の五十鈴川のほとりに遷られ、永久の宮地(現在の伊勢神宮)とされた。
一方、天懸・国懸両大神は、垂仁天皇16(紀元前14)年に名草萬代宮(現在の日前宮)に遷られ、常宮として鎮座せられた。
その由緒により、当神社の第一殿に天照皇大神、第二殿に天懸大神・国懸大神が奉祀されており、「元伊勢の大神」と称えられ、また健康増進についての霊験あらたかな神として「アシ神様」と呼ばれ、広く尊崇されてきた。
この時、紀伊の国造は、豊鋤入姫命に舎人として紀の麻呂良を、さらに稲田を進上したと言います。
因みに豊鋤入姫命の母・遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)は紀伊国造・荒河戸畔の娘です。つまりお母さんの故郷に巡行したと言う事ですね。何かご縁を感じずにはいられないですね。豊鋤入姫命も当地に来られた時にはどこか懐かしさを感じられたのではないでしょうか。
名方浜宮
倭姫命世記より
五十四年丁丑、吉備の国の名方浜宮に遷りたまひ、四年斎き奉る。時に吉備の国造、采女吉備都比売、また地口の御田を進る。
崇神天皇54年(BC44年)、豊鋤入姫命は吉備国の名方浜宮に遷り、天照大御神を4年間お祀りになりました。
今回は名方浜の宮の伝承地を二ヶ所巡ってきました!まずはその一つ、岡山市北区番町に鎮座する伊勢神社です。
桜と神社…青空とほんのり淡紅色の白色…とびきりの参拝日和です。
ご祭神は天照大御神・豊受大神。
配祀に栲機千々姫命。
神社由緒より引用
当社は、第10代崇神天皇の御代皇女豊鋤入姫命が御創建になり、元伊勢として二千有余年の歴史をもち、式内社として栄え、室町時代の頃迄は備前岡山の氏神として崇敬篤く、境内地も現在の弘西学区全域に及んでいた。
その後、他の神社も創建され、人々も移住し、城下町が形成され、現在の氏子地域が出来上った。
安土桃山時代以後は、宇喜多、池田両藩主の崇敬殊に篤く、池田光政公以後明治維新まで備前藩寺社領としては最高の300石を賜わり、伊勢宮神官を以って備前国神職総頭の職を拝命され、備前藩又は池田家の祭事一切が伊勢宮神官の手によって執り行われ、現在も続いている備前の国で最も由緒のある神社である。
また、伊勢宮には、300年前から「御神事」という祭事が執り行われている。この御神事は、文禄元年宇喜多秀家が秀吉の命を受け、「征韓の役」の出陣に先立ち具足甲胄に身を固め、藩主以下総勢が行列を整え、藩旗、弓、槍、鉄砲等を持ち、伊勢宮に戦勝祈願に詣でた形を後世神事として祭儀の中に取り入れて行われたのが起源である。
明治初年の頃までは、神馬、弓、槍、具足甲胄を身につけ執り行われていた。伊勢宮の氏子は、武士と町人が半々であったため、御神事は主に商家である小畑町、上出石町、中出石町、下出石町(下出石町は現在岡山神社の氏子である)の四町内が順番に奉仕していた
次の伝承地は岡山県岡山市南区浜野1丁目に鎮座するその名も「内宮」
岡山県神社庁HPより引用
当社の御祭神である天照大神は、かつて皇居の内にまつられていたが、やがて第10代崇神天皇の御代に皇居と神居とが別けられることになり、まず倭の笠縫邑に遷しまつられ、その後、丹波国(京都)、倭国(奈良)、木国(和歌山)、吉備国(岡山)を経て再び倭国へ、そしてさらに伊賀国(三重)、淡海国(滋賀)、美濃国(岐阜)、尾張国(愛知)を経て第11代垂仁天皇の26年(紀元前4年)に伊勢国(三重)へ御遷幸になられ、その地を永遠の宮地(現在の伊勢神宮)として鎮座された。
天照大御神が皇居を出られてからこの伊勢に至るまでの御遷幸経路については、日本書紀や皇大神宮儀式帳、倭姫命世記などの古文書に見られる。
中でも神道5部書の1つに数えられる倭姫命世記の中には「垂仁天皇54年丁丑、吉備国名方浜宮に遷し4年斎奉る」と記されており、これが当社「内宮」の創始となっている。また、江戸時代に土肥経平が著した寸簸の塵(きびのちり 吉備の地理の意)という書物の中に「外宮は出石郡にあり。内宮は鹿田庄浜野村にありて式内の神なり。皇大神宮即ち是なり。」とあり、その当時の様子が詳しく記されている。
当社の、創祀は伊勢の内宮鎮座の40年前にあたる。また大正2年には、付近の野々宮と日吉神社が当社に合祀された。
この時、吉備国造は、采女として吉備都比売とまた稲田を進上しました。
この「稲田」ですが…倭姫命世記の原文には「地口の御田」とあるんです。
今回「稲田」と訳したのは、先ほども紹介した元伊勢籠神社の宮司を代々世襲されてきた海部家の海部やおとめさん著・「倭姫の命さまの物語」からの引用です。倭姫命世記の伝承を元に執筆された物語です。
海部やおとめさんの解説によると、地口という語はよく分かっていないらしく、室町時代の京都・奈良などでは、家屋や田畑に課された税を地口、あるいは地口銭といったそうです。
一説に国と国の境目に一番近い田地ともいうそうですが、今後の調査研究を待ちたいとの事です。
弥和乃御室嶺上宮~御杖代の継承~
倭姫命世記より
五十八年辛巳、弥和の御室峰上宮に遷りたまひ、二年斎き奉る。この時、豊鋤入姫命、「吾日足りぬ」と白りたなひき。その時、姪倭比売命に事依さし奉り、御杖代と定めて、此より倭姫命、天照太神を戴きて奉りて行幸す
崇神天皇58年(BC40年)、豊鋤入姫命は、大和国の弥和乃御室峰上宮にお遷りになり、天照大御神を2年間お祀りになりました。
弥和乃御室峰上宮の比定地は、三輪山頂上にある高宮神社とされ、ここは撮影禁止とされています。なので、遠景からの三輪山の写真を1枚。
この時、豊鋤入姫命は長い年月の間、天照大御神にお仕えしてきた、この先も引き続きお仕えしていくのが心細い年齢になってきたと言われます。
そして第十一代天皇・垂仁天皇の皇女である倭姫命に、天照大御神にふさわしい鎮座地を求める御杖代の役目を委ねられます。
豊鋤入姫命から見たら倭姫命は姪にあたります。
結果的に、天照大御神の理想とする鎮座地には辿り着く事はなりませんでしたが、よくぞ豊鋤入姫命は御杖代の任務を自分が出来る限り全うされたと思います。
現代人である私達は、車や公共機関を使って遠い所に容易に辿り着く事が出来ます。またスマホ等のツールを使用してどのルートで行けば最短で行けるかの情報も収集する事が出来ます。
しかし、この時代は当然ながらそんなツールはありませんし、今と違って舗装された道路でもありません。そんな長い道のりを自分の人生を捧げて神様にお仕えする…。今の私達の感覚からしたら途方も無い事の様に思えます。
当時の人達からしたら、それだけ神様を丁重にお祀りする祭祀をどれほど大切に思ってきたかが分かりますね。
こうして元伊勢の伝承地を順を追っていく事で、神様と人間がまだ地続きであった時代に生きた人達の思いや息遣いを感じ取る事が出来ます。
豊鋤入姫命は、自分の代では天照大御神の最終的な鎮座地を求める事が出来ませんでした。しかし、自分の人生の大部分をかけて御杖代の責務を果たされました。
ただ、こうも思います。豊鍬入姫命の辿ったルートを見てみると、最初は大和、次はいきなり丹後まで進んで、再度大和に戻ってからの紀伊国、吉備国、そして最終的にまた大和国に戻って来られます。
天照大御神の最終鎮座地の伊勢へはほど遠い訳ですね。次の御杖代である倭姫命は着実に伊勢へと迷う事無く進んでおられる様に思います。
これは結果を知っている現代人だからこその見解ですが、倭姫命こそが天照大御神の神意を聞く事が出来る最も相応しい人物だったのかもしれません。そう考えると、豊鍬入姫命はその相応しい人物が生まれて御杖代になれる年齢になるまでの中継ぎ的存在だったのかもしれませんね。
豊鍬入姫命は天照大御神の御心に叶う鎮座地を求めるのに相応しい人物ではなかった…これは彼女の御杖代としての行為を否定する意図は決してありません。
彼女がいなければ、倭姫命がこの世に生を受けるまで、誰が天照大御神の御杖代という重大な使命を果たす事が出来たでしょう。
この方も伝説の巫女的存在である倭姫命へ責務を継承する為に必要な存在でした。…という考えが豊鍬入姫命の辿ったルートを参拝して行く中で私が個人的にふと思った事です。
女神と皇女の長い旅路
天照大御神と豊鋤入姫命の長い旅路を辿る取材でした。
私はこの天照大御神について、まだまだ勉強中で理解を深めるにはそれ相応の時間が必要だと思っています。
しかし、そんな固い事はさておき…私がこの元伊勢の物語についてふと正直に感じた事は、これって女神と皇女の日本初の「女子旅」であると。
この事はラノベ古事記2巻の崇神天皇の段でも言及しておられる事なんですよ!
時々言われる天照大御神は元々は男神であった説…。色んな研究や解釈や考察があるのって凄く楽しいですし、私もついつい記紀に書いてある事の行間とか書き漏れてしまったであろう事とかを想像するんですが…。
ちょっと待って下さい。素戔嗚尊と子づくりを連想する様な誓約の場面がありますし、大日孁貴(おおひるめのむち)っていう女性を表す字が入った別名もあります。
太陽の神を女神とする信仰は世界的には珍しいとも言われますが…。確かにギリシャの太陽神・アポロンは男性神、エジプトの太陽神・ラーも男性神です。熱帯の太陽の荒々しいギラギラとした光は男性を連想する事が多いのでしょうかね。
しかし、日本は温帯ですので、その太陽はどこか慈愛に満ちた母性を感じる優しい光に感じられたのではないでしょうか。因みにアイヌの太陽神も女神です。
日本列島で太陽を女神とするのはそこまで違和感は無い様に思えます。
また、古事記・日本書紀編纂の時期に、当時の権力者の都合で天照大御神の性別を変えるなんて事が、果たして出来たのでしょうか。
私は古代史を勉強し始めて日が浅い為に、記紀にはこう書かれてるけど、実は○○っていうのが定説~といった事情に詳しくありません。
しかし、ネットも電話も交通網も発達していなかった時代の当時の知識階級の人達が一生懸命情熱を注いで記紀を編纂したんだろうなあという事は伝わります。
容易に現代人がすり替えたかすり替えたなんて…言っても良いのでしょうか。
と、実は○○だった~と考えたり新しい説を唱えたりする事をするなと言う訳ではありません。研究って必要な事ですものね。きっと私がまだ知らない定説が歴史に詳しい方々の間では常識、という事があるんだと思います。
でも私が元伊勢の伝承を勉強して素直に感じた事は、女神の天照大御神が皇女の豊鋤入姫命と、気兼ねない女の子同士で、自分が住みたい!と思った地を求めて諸国をぐるぐる巡る…そんなイメージを抱きましたね。
また、天照大御神は常に高皇産霊神(性別は無いとされるが男性神という認識が一般的)にサポートされているって感じですよね。
生まれたばかりなのに父・イザナギに命じられて高天原を治めよと命じられてしまった天照大御神。きっと高皇産霊神は、可愛らしい女神の天照大御神を自分がサポートして立派な高天原の最高神となる様に支えていこうとしたのでは!?
と…最後は私の超主観的な個人の見解になってしまいました。
日本の最高神が太陽の女神様だなんてとっても素敵!から、その女神さまが皇女様と諸国を巡る話がある!?それは早速調べてみなければ…からこの記事を書き始めました。
豊鋤入姫命の物語はここでおしまいですが、元伊勢伝承はまだまだ続きます。
いわば序章の終わりでしょうか。
次は倭姫命に御杖代をバトンタッチして、いよいよ伊勢に近づいていきますね。
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