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レポート

皇祖・天照大御神と御杖代の物語~元伊勢を訪ねて~④

投稿日:2024/01/06 最終編集日:2024/01/06

はじめに

前回の記事です。

天照大御神、高天原より降臨する
天照大御神、高天原より降臨する

元伊勢を訪ねて…今回の記事で四つ目となります。

前回の記事の最後で、伊勢国に入り、天照大御神自らが高天原より降臨したと書きました。「伊勢国は素晴らしい国だ。私はこの国にいようと思う」と。

天照大御神の思いに叶う降臨地が見つかってめでたしめでたし…倭姫命の旅もここで終わり!かと思いきや、実はもう少し続くんですよ。

伊勢国に入り、その中でもより相応しい鎮座地を求めて倭姫命、奔走します!

それでは引き続き、倭姫命と一緒に元伊勢ゆかりの地をご案内します!

狭田へ

倭姫命世記より

時に倭姫命は詔はく、「南の山の末を見給へば、吉き宮処有るべく見ゆ」と詔ひて、御号処覔ぎに、大若子命を遣したまひき。倭姫命は皇太神を戴き奉りて、小船に乗り給ふ。御船に雑の神財並びに忌楯桙等を留め置きて、小河より幸行したひき。その河にして御船後れ立ちき。その駅使等、「御船宇久留」と白しき。その処を宇久留と号けたまひき。その処より幸行するに、速河彦詣で相ひき。「汝が国の名は何ぞ」と問ひたまふ。白さく、「畔広の狭田の国」と白して、佐佐上の神田を進りき。その処に速河狭田社を定め給ひき。

倭姫命は「南の山の頂きを見れば、御殿を造営するのに良い場所がある様に見える」と言われてその宮処を求める為に大若子命を遣わしました。

一方で、倭姫命もその宮処を求める為に天照大御神を頭の上にお載せになって小船に乗りました。

その際に、様々な神宝や神聖な楯や桙などは御舟の中に残して置き、倭姫命は小川を通ってお進みになりました。

倭姫命は巡行の際に、神聖な楯や桙等を使用して旅の安全を祈ったのでしょうね。

その河で御船が遅れて立ち止まっているのを見た駅使たちはそれを見て「御船宇久留(御船が遅れています)」と申し上げたので、その地を宇久留と名付けました。

その地から更にお進みになると、速河彦が参上しました。

速川彦
速川彦 『儀式帳』に「須麻留女ノ神ノ児、速川比古、速川比女」とあります。

倭姫命は「あなたの国は何と言うのですか」とお尋ねになると速河彦は「畔広の狭田の国でございます」と申し上げ、佐佐上の神田を進上しました。

そこで倭姫命は速河の狭田の社をお定めになりました。

狭田国生神社
狭田国生神社

速河の狭田の社の伝承地が、三重県度会郡玉城町佐田にある狭田国生神社(さたくなりじんじゃ)です。

伊勢神宮内宮の摂社で、玉城町にある13の摂社の内の1社で、内宮摂社27社の内、第26位です。狭田とは鎮座地の佐田に由来するものと見られます。

御祭神は川の神、速川比古命と速川比女命、そして土地の守り神である山末御玉(やまずえのみたま)です。

地元の人からは「はいこさん」と呼ばれて親しまれているそうです。「はいこさん」とは御祭神名が変化したものと思われます。

歓迎してくれた地元の人、そしてその土地の守り神を祀る社を定める倭姫命。この土地への感謝の気持ちが表れる由緒だなと思います。

坂手・御船・加佐伎

倭姫命世記より

その処より幸行するに、高水神参り相ひき。「汝の国の名は何ぞ」と問ひ給ふ。白さく、「岳高田深坂手の国」と白して、田上の御田を進りき。その処に坂手社を定め給ひき。その処より幸行するに、河尽きき。その河、寒くありき。則ち寒河と号けたまひき。その処に御船留め給ひて、即ちその処に御船神社を定め給ひき。その処より幸行する時に、御笠給ひき。その処を加佐伎と号けたまひき。大川の瀬を渡り給はむと為たまひしに、鹿の完流れ相ひき。「これ悪し」と詔ひて、渡りまさざりき。その瀬を相鹿瀬と号けたまひき。

狭田からお進みになると、高水神が参上しました。

高水の神
高水の神『儀式帳』大水上御祖命の子とあります。

倭姫命は「あなたの国は何と言うのですか」とお尋ねになると、高水神は「岳高田深坂手の国でございます」と申し上げ、田上の御田を進上しました。そこで倭姫命は坂手社をお定めになりました。

坂手国生神社
坂手国生神社

坂手社の伝承地が、三重県渡会郡玉城町上田にある坂手国生神社(さかてくなりじんじゃ)です。

伊勢神宮内宮の摂社で、玉城町にある13の摂社の内の1社で、内宮摂社27社の内、第25位です。御祭神はこの地方の灌漑用の水を守る神様、高水上神(たかみなかみのかみ)です。社名は、当神社が潮尾崎(うしおざき)の池と道を挟む小高い丘の坂の上に鎮座する事に由来している様です。地元の人からは「さかだいさん」と呼ばれ親しまれています。

先ほど紹介した狭田社もこの坂田社も水に関連する神様をお祀りしていますね。

水って田畑の耕作に必要だったり生活用水だったりと私達が生活する上で欠かせないものですよね。それは古代の人だって同じ。

倭姫命も現代の私達と変わらない思いで水の神様をお祀りしたのかな…って思っちゃいます。

更にその地よりお進みになると川が終わっていて、川の水が大層冷たかったそうです。そこで倭姫命は寒河と名付けられました。寒川とは外城田川(ときだがわ/今、この名前は残っていない)の事で、恐らく清く冷たい水が流れている川の事だと思われます。

そこに御船を留めて倭姫命はその地に御船神社をお定めになりました。

御船神社・牟弥乃神社
御船神社・牟弥乃神社

御船神社の伝承地が、 三重県多気郡多気町に鎮座する御船神社・牟弥乃(むみの)神社です。

御船神社は内宮摂社27社の内、第24位です。御祭神は大神御蔭川神(おおかみみかげかわのかみ)です。

線路交通の守り神と伝えられています。

因みに御祭神には諸説あるみたいですね。

「伊勢二所太神宮神名秘書」では大神乃御船神。

「延喜式神名帳僻案集」では天鳥船神。

「伊勢國神名帳考證」では鳥石楠船神。

諸説あるものの、どの御祭神も「鳥」だったり「船」だったりと交通に関係する神様ですね。川が尽きてこれ以上船を進ませる事が出来なくなったので船を置いていく事になった倭姫命。今みたいに車でスイスイ~って感じには行きませんものね。交通に関係する神様を祀ってこの先の旅路を祈ろうとする気持ちが伝わってきますね。

また、同座する牟弥乃神社は内宮末社16位の内、第15位です。

御祭神は寒川比古命(さむかわひこのみこと)、寒川比女命(さむかわひめのみこと)

外城田川の守護神で大水上命(おおみなかみのみこと)の子であるとされています。こちらの御祭神も川の守り神ですね。

中世以来社地不明であった牟弥乃神社を明治四年以降、当社と同座に奉祀したとあります。

 倭姫命はそこからお進みになる時に御笠を着用されました。そしてその地を加佐伎と名付けられました。内宮の境内別宮の風日祈宮(かざひのみのみや)で行われる風日祈祭(かざひのみさい)は蓑と御笠をお供えして、天候が順調で風雨の災害がなく、五穀豊穣を願います。こういう祭事が伝えられている事から、倭姫命も天照大御神へ、これから続く道中、良い天気が続きます様にと祈願された事を意味するのかもしれませんね。

笠木
加佐伎 今の多気郡多気町笠木で御船神社の西南1キロ辺りです

そこから更にお進みになって大川(宮川)の瀬をお渡りになろうとされると、鹿肉が流れて来るのに出会いました。そこで「これは良くない事です」と言われて渡るのをやめられました。その瀬を相鹿瀬(おうかせ)と名付けられました。

恐らく獣に食べられた鹿肉の残骸が流れて来たのでしょうか…?確かにあまり気持ちの良い事ではありませんよね。

相鹿瀬
相鹿瀬 多気郡多気町相鹿瀬で、笠木より根木坂を越えて南に5キロ余りの地

御瀬社

倭姫命世記より

その処より河上を指して幸行すれば、砂流るる速瀬ありき。時に真奈胡神参り相ひて、渡し奉りき。その瀬を真奈胡の御瀬と号づけたまひて、御瀬社を定め給ひき。

相鹿瀬より宮川の上流を目指して倭姫命はお進みになると、砂が流れる様な速瀬がありました。倭姫命は渡れずに困っていたところ、真奈胡の神が参上して、向こう岸まで渡れる様にお渡し申し上げました。

真奈胡神
倭姫命に手を差し伸べる真奈胡神

倭姫命はその瀬を真奈胡の瀬と名付けられ、御瀬社をお定めになりました。

御瀬社の伝承地が三重県渡会郡大紀町三瀬川に鎮座する多岐原神社です。

御祭神は真奈胡神です。内宮摂社27の内、第27位の神社です

多岐原神社
多岐原神社

地元では「まなこさん」と呼ばれ厚い信仰を集めているそうです。ここから三瀬坂峠(みせざかとうげ)を越え瀧原宮(神宮別宮)の方へ出るのが熊国古道です。

清流・宮川本流の側に鎮座する山水の美を兼ね備えた神社です。

真奈胡神…どこか不思議な響きのする名前の神様ですね。記紀にも出て来ず系譜が明らかでない神様ですが、この神社は延暦23年(804)成立の「皇大神宮儀式帳」にも「滝原神社一処 三瀬村在。称麻奈胡神」としっかりと記載してあります。

式内社研究会の中で中川経雅(1742-1805 国学者・神職)は祭神名「まなこ」を「眞之子」、すなわち瀧原宮の祭神の子であるという解釈を行ったとあるのですが、瀧原宮の御祭神は天照大御神となっています。天照大御神の子ですか…。これは見解が別れそうな解釈ですね。

少なくとも私はこのエピソードを聞いて、川の向こうに渡れずに困っている倭姫命を優しくエスコートしてくれる紳士な神様ってイメージがしましたね。きっとずっとこの土地を守って来た神様なのでしょう。

瀧原宮

倭姫命世記より

その処より幸行するに、美き地に到り給ひぬ。真奈胡神に、「国の名は何ぞ」と問ひ給ひき。「大河の滝原の国」と白しくき。その処を宇大の大袮奈をして、荒草を苅り掃はしめて、宮造りして坐さしめたまひき。

そこから更にお進みになると美しい地に辿り着きました。倭姫命は「この国の名は何というのですか」とお尋ねになると真奈胡神は「大河の滝原の国と申します」と申し上げました。

その土地を宇陀の大袮奈ちゃんに荒草を苅り取らせて滝原宮を作らせました。

大祢奈
出会った頃は童女だった大袮奈ちゃん。今はもう大人になっている筈ですがきっと天照大御神パワーで出会った時の若いままの姿なんです!きっと!

瀧原宮の伝承地が三重県渡会郡大紀町滝原に鎮座する皇大神宮別宮 瀧原宮・瀧原竝宮です。

滝原宮
滝原宮 参道が眩いです

熊野古道の通る滝原の山間に鎮座しており、皇大神宮の別宮で、古くから「遙宮(とおのみや)」として信仰を集めています。

深い杜に囲まれた神域は44ヘクタールの広さがあり、樹齢数百年を超える杉の木立に囲まれた参道の広さはおよそ600メートルあり、この参道と並行して流れる頓登(とんど)川の清らかな谷水の流れが御手洗場となっています。

滝原宮
滝原宮

滝原宮
滝原宮 奥の宮が瀧原竝宮

瀧原宮並びに瀧原竝宮共に天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)をお祀りしています。2つの御魂をニ宮に並べて祭祀するのは皇大神宮に天照大御神を、同別宮荒祭宮に天照大御神の荒御魂を奉祀する姿の古い形と言われています。

江戸時代後期編纂の「大神宮儀式解」に竝宮について「瀧原宮は本宮(皇大神宮)の御魂を祀るか」とある様に天照大御神の荒御魂とも考えられている様です。

荒御魂とは、神様の勇猛で荒々しい魂の事で、そういえば崇神天皇の時代に多い大物主神の荒御魂が災いを引き起こして国中が大変になりましたよね。これは丁重にお祀りしなければなりませんね…。

滝原宮
滝原宮 拝殿

滝原宮
両宮とも皇大神宮に準じた神明造で、御屋根の鰹木は偶数の6本、千木は内削(水平切)となっています

滝原宮
とても気持ちの良い境内です

瀧原宮は延暦23年(804年)に編集された『皇大神宮儀式帳』には「天照大神遙宮」、『延喜式』に「大神遙宮」「伊勢と志摩との境の山中、大神宮西を去る九十里」とあり、奈良時代の編集を伝える『伊勢風土記逸文』には「瀧原神宮」と記されているなど、由緒の深さが伺われます。瀧原竝宮の始まりについては不明な点が多いそうで、色んな解釈がなされている様なのですが、平安時代中期には瀧原宮同様、式年遷宮の制度が定まったとされています。

和比野・久求社・園相社

倭姫命世記より

「この地は皇太神の欲し給ふ地にはあらず」と悟したまひき。その時、大河の南の道より宮処覔ぎ詫び賜ひて、その処を和比(わび)と号けたまひき。その処より幸行するに、久求都彦参り相ひき。「汝の国の名は何ぞ」と問ひ給ひき。白さく、「久求の小野」と白しき。倭姫命詔はく、「御宮処を久求の小野」と号け給ひて、その処に久求社を定め賜ひき。時に久求都彦白さく、「吉き大宮処あり」と白しき。その処に幸行して、園作神参り相ひて、御園地を進りき。その処を悦び給ひて、園相社を定め給ひき。

しかし、倭姫命は「この地は天照大御神様のお望みになっている場所ではありません」とお諭しになります。え!?こんな雰囲気の良い場所なのに!?って感じですよね…。天照大御神、凄く拘りのある女神様ですよね。いや、最高神なので当然と言えば当然ですが…。

更にそこからお進みになると、美しい野原に辿り着かれます。しかし、またもやその地に御殿を建てるのに良い場所を定める事が出来ませんでした。

倭姫命は侘しくなって、その土地を和比野と名付けられました。先ほどの滝原宮と言い、良い所を見つけたと思ったらやはり相応しくない…の繰り返しで思わず侘しくなる倭姫命の気持ちが伝わって来ますね。私なら心挫けてしまいそうです。

倭姫命が名付けた和比野は、渡会町和井野区を指すのかと考えられていて、そこに倭姫命を祀る小祠があると言うのです。天照大御神や出迎えてくれた地元の豪族や神様では無く倭姫命自身を祀る社と言うのがどこか新鮮ですね。

倭姫命祀る小祠
倭姫命祀る小祠

倭姫命祀る小祠
倭姫命祀る小祠

このひっそりと佇む小祠がその時の倭姫命の心情を物語っている様です。

里の人が倭姫命の心労を思ってこの社を建てたのかな~と思っちゃいました。今も地元の方に大切に整備されていました。

そこからお進みになると、久求都彦が参上しました。倭姫命は「あなたの国の名前は何と言うのですか」とお尋ねになると久求都彦は「久求の小野でございます」とお答え申し上げました。

久求都彦
久求都彦

倭姫命は御殿を建てる場所を久求の小野と名付けられ、その地に久求社をお定めになりました。

久求社の伝承地が三重県渡会郡渡会町上久具字久具都裏に鎮座する久具都比賣神社です。

久具都比賣神社
久具都比賣神社

御祭神は久具都比女命(くぐつひめのみこと)、久具都比古命(くぐつひこのみこと)、御前神。内宮摂社27の内、21位です。

大水上神の子で、倭姫命が伊勢へ来る前から水の神・稲作の神として信仰されて来そうです。地元の方にからは「クグツヒメさん」と呼ばれ親しまれています。

その時に久求都彦が「御殿を建てるのに良い場所があります」と申し上げたのでその場所まで行ってみると、園作神(園を作る神)が参上して倭姫命と出会います。そして御園の土地を進上しました。

園を作る神
園を作る神

御園とは、天照大御神にお供えする野菜を栽培する畑の事です。

倭姫命はその土地を大変気に入られ、園相社をお定めになりました。

園相社の伝承地が三重県伊勢市津村町字白木に鎮座する園相神社です。

園相神社
園相神社

御祭神は曽奈比比古命と御前神です。内宮摂社27の内、第3位です。

曽奈比比古命は大水神の子とされているのですが、と言う事は先ほど紹介した久具都比古命達と兄弟という事になりますね。

鎮座している地名から取って地元の方から「白木さん」「しろきの宮」と呼ばれ厚く崇敬されています。

御船向田の国

倭姫命世記より

その処より幸行するに、美き小野ありき。倭姫命目弖給ひて、即ちその処を目弖野と号けたまひき。またその処に円なる小山有りき。その処を都不良と号けたまひき。この処より幸行するに、沢道野在りき。その処を沢道小野と号けたまひき。その時大若子命、河より御船率て、御向へに参り相ひき。時に倭姫命大きに悦び給ひて、大若子命に問ひ給はく、「吉き宮処在りや」とのたまひき。白さく、「佐古久志呂宇遅の五十鈴の河上に吉き御宮処在り」と白しき。また悦び給ひて問ひ給はく、「この国の名は何ぞ」とのたまふ。白さく、「御船向田の国」と白しき。その処より御船に乗りて幸行したまひき。その忌楯桙、種種の神宝物を留め置きて、所の名は忌楯小野と号づけたまひき。

園相社を定めた所よりお進みになると美しい小野がありました。倭姫命その野をとても気に入られ目弖野(めでの)と名付けられました。

目弖とは「愛で」の意味ですね。

また、その野の中に円い小山があったのでその小山を都不良(つぶら)とお名付けになりました。

倭姫ちゃん、気に入ったらついつい名前を付けちゃうんですね。

倭姫命がその都不良から更にお進みになると、沢へと続く小さな野原がありましたので、その土地を沢道小野(さわちのおの)と名付けられました。

川原神社
川原神社

写真は伊勢神宮内宮摂社の川原神社です。

御祭神は宮川の守護神と言われる月読尊御霊です。月は水の干満に関係ある事から、川の神、水の神として信仰を集めているそうです。

鎮座地は三重県伊勢市佐八町です。この佐八は沢地の意味であるだろうと言われています。

その時、大若子命が河を通って御船を率いて倭姫命をお迎えに参上するのが見えました。

倭姫命は大変御喜びになり、「御殿を建てるのに良い場所はあった!?」と聞くと、大若子命は「佐古久志呂宇遅(さこくしろうじ)の五十鈴の川上に御殿を建てるのに良い場所があります」と申します上げました。

倭姫命は更に嬉しくなられて「この国の名前は何と言うの?」と問うと大若子命は「御船向田(みふねむくた)の国でございます」とお答え申し上げました。

そこから御船に乗って更に巡幸されました。

倭姫命は神聖な楯や鉾をはじめとした数多の神宝を留め置いたので、その所の名を小野と名付けました。

二見の御塩浜

倭姫命世記より

その処より幸行すれば、小浜有り。その処に鷲取る老公存りき。時に倭姫命、御水飲らむとして、その老に詔はく、「何れの処に吉き水在りや」と問みきひ給ひき。その老、寒なる御水を以て、御饗奉りき。時に讃め給ひて、水門に水饗神社を定め賜ひき。その浜の名を鷲取小浜と号けたまひき。然しいて二見の浜に御船に坐します。時に大若子命に、「国の名は何ぞ」と問ひ給ふ。白さく、「速雨二見の国」と白しき。その時、その浜に御船を留め給ひて坐します。時に佐見都日女参り相ひき。「汝が国の名は何ぞ」と問ひ給ひき。御詔聞かず、御答も答へ白さずして、硬塩を以て多く御饗奉りき。倭姫命慈しび給ひて、堅多社を定め給ひき。時に乙若子命その浜を御塩並びに御塩並びに御塩山と定め奉りき。

倭姫命は忌楯小野からお進みになりました。するとそこに小浜がありました。その浜に鷲を取る老翁がいました。時に倭姫命は水を水を飲もうとお思いになって、その老翁に「どこかに良いお水はありますか」とお尋ねになったところ、その老翁は冷たいお水を用いて御饗として奉りました。

鷲を取る翁
鷲を取る翁 鷲で獲物を獲るのでは無く鷲を取る…勇猛な翁ですね

倭姫命はそれをお褒めになってその地の河口に水饗神社をお定めになりました。

水饗神社の伝承地は三重県伊勢市神社港字南小路1に鎮座する御食神社です。

御食神社
御食神社

御祭神は水戸御饗都神(みなとのみけつかみ)で、外宮摂社16社の内、第15位です。神社港で上がった海の幸を伊勢神宮に調進する御饌の神様ですね。

またその浜を鷲取小浜とお名付けになりました。

鷲取の小浜
鷲取の小浜

その後、御船に乗って二見の浜にお出ましになりました。

二見の浜
二見の浜は現在の度会郡二見町の二見が浦辺りと言われています。この二見の浜には二見興玉神社が鎮座しています。ご祭神は猿田彦大神。写真は神社の遥拝所から見える夫婦岩です。

この時大若子命に「この国は何て言う名前なの」問われると大若子命は「速雨ニ見の国でございます」とお答えになりました。

その浜に御船をお留めになってその地に留まっていると、佐見都日女が参上しました。

佐見都日女
佐見都日女

倭姫命は「あなたの国は何というのですか」とお尋ねになりましたが、佐見都日女はそのお言葉を聞かずお答え申し上げず、多くの堅塩をもって天照大御神への御饗を差し上げました。

倭姫命は佐見都日女を可愛くお思いになり、その地に堅田社をお定めになりました。堅田社の伝承地は三重県伊勢市ニ見町茶屋字堅田に鎮座する堅田神社です。御祭神は佐見都日女です。内宮摂社27社の内、第15位です。

堅田神社
堅田神社

今回は今までと印象の違う出迎えをされましたね。この佐見都日女に関しては記紀にある誉津別命や建皇子が言葉が話せない皇子と描かれているのと同じだと言われています。つまり今と違い古代では聾唖者は一種の畏敬の念を込めて扱われていたという事ですね。

また、佐見都日女が自ら進んで倭姫命を歓迎して堅塩を奉じた訳ではなく、黙って堅塩を奉じる事で自分たちの土地を献上する事にせめてもの抵抗を示したのであるという意見もあります。

私は純粋に言葉は話せないけれど、堅塩を献上する事で倭姫命を歓迎する、自分が出来る精一杯の歓迎の意を表そうとしたのかなという感想を最初に抱きました。そしてそれを見た倭姫命は佐見都日女を可愛らしく思う。

でもよく考えたら、中央からやってきた皇女の倭姫命に対して歓迎する人ばかりとも限らないかもしれませんね。抵抗の意を示す人がいてもおかしくは無いかもしれません。

しかし例え抵抗の意を示していたとしてもその人物を丁重に祀る社を定める…倭姫命の、いや、日本人のどんな存在も神様として祀る心情が現れている様にも思います。

恭順と抵抗…二つの意図が示されているかもしれない今回のエピソード。今となっては佐見都日女の気持ちを知る術はありませんが、私は話せない代わりに何とかして歓迎の気持ちを伝えようとしたんじゃないかな~って方に一票!

皆さんはどう思われますか?

時に大若子命はその浜を御塩浜として、その辺りの山を御山とお定め申し上げました。

御塩の神様を祀る伊勢神宮 内宮所管社の御塩殿(みしおどの)神社です。

御塩殿神社
御塩殿神社

ここは伊勢神宮に奉納する「堅塩」を古来より変わらない製法で2000年以上に作り続けているすごい神社なんです。境内には御塩を作る施設があり神社に付属する塩田「御塩浜」から運ばれた海水を煮詰めて、古式ゆかりの製法で御塩が作られているそうです。天照大御神に捧げる御塩ですから、丹念に手間暇かけて伝統的な方法で作られているんだなあと感じますね。

御祭神は御塩殿鎮守神(みしおどののまもりがみ)とされていますが、塩土翁であったとする説もあるそうです。確かに塩作りの神様としても有名ですから、この説にも納得ですね。

皇大神の御前の荒崎

倭姫命世記より

その処より幸行して、五十鈴の河後の江に入りましき。時に佐見都日子参り相ひき。問ひ給はく、」この河の名は何ぞ」と問ひやまふ。白さく、「五十鈴の河後」と白しき。その処に江社を定め給ひき。また荒崎姫参り相ひき。「国の名は何ぞ」と問ひ給ふ。白さく、「皇太神御前の荒崎」と白しき。「恐し」と詔ひて、神前社を定め給ひき。此よりその江の上の幸行す。御船の泊てし処の名を、御津浦と号けたまひき。その上に幸行したまふに、小嶋在りき。その嶋に坐しまして、山末河内見廻り給ひて、大屋門のごとなる前に地在りき。その処に上り坐して、その処の名を大屋門と号けたまひき。

倭姫命は御塩浜から更にお進みになって五十鈴川の河口の入江にお入りになりました。そこで佐美川日子が参上しました。

佐見川日子
佐見川日子

倭姫命は「この河は何と言う名前ですか」とお尋ねにになると、佐美川日子は「五十鈴川の河口でございます」とお答えになりました。

そこで、倭姫命はその地に江社をお定めになりました。

江社の伝承地は三重県伊勢市ニ見町江に鎮座する江神社です。

江神社
江神社

内宮摂社27社の内第17位です。

御祭神は長口女命(ながくちめのみこと)、大歳御祖命、宇迦乃御玉神で、3柱共、土着の神であり五穀豊穣の神とされています。

また、そこから更に巡幸されると、荒崎姫が参上しました。

荒崎姫
荒崎姫

倭姫命は荒崎姫に「この国は何という名前ですか」とお尋ねになると、荒崎姫は「皇大神(天照大御神)の御前の荒崎でございます」とお答え申し上げました。

倭姫命は「皇大神様の御前の荒崎とは、畏れ多い事です」とおっしゃり、その地に神前社をお定めになりました。

神前社の伝承地は三重県伊勢市ニ見町松下に鎮座している神前(こうざき)神社です。

神前・許母利・荒前神社
神前・許母利・荒前神社

内宮摂社27社の内、第18位です。御祭神は荒崎姫命で、ニ見町松下の海岸鎮守の女神様です。またこの神前神社には末社の許母利神社(御祭神は粟嶋神御魂)と荒崎神社(御祭神は荒崎姫命)が一緒にお祀りされています。なので、神前・許母利・荒前神社とも呼ばれている様です。

更にそこからお進みになると小嶋がありました。その嶋から山の頂や河の周辺をご覧になると、大屋門の様な所の前に良い土地があったので、その地までお上りになり大屋門とお名付けになりました。

苗草を頭に戴く老女 鹿乃見

倭姫命世紀記より

倭姫命世記よりその処より幸行し、神淵河原に坐しませば、苗草戴く耆女に参り相ひき。「汝、何をか為るぞ」と問ひ給ふ。耆女白さく、「我は苗草取る女、名は宇遅都日女」と白す。また問ひ給はく、「などかかく為る」とのたまふ。耆女白さく「この国は鹿乃見哉毛為」と白しき。その処を鹿乃見と号けたまひき。「なぞ問ひ給ふ」と止可売白しき。その処を止鹿乃淵と号けたまひき。

倭姫命は大屋門の地からさらにお進みになり、神淵河原まで行かれました。

すると苗草を頭の上に乗せた老女と出会いました。

宇遅都日女
宇遅都日女

倭姫命は「あなたは何を耕作しているのですか」とお尋ねになったところ、老女は「私は苗草を取る刈り取る女で、名は宇遅都日女でございます。」とお答え申し上げました。

また倭姫命が、何故その様な苗草を頭の上に載せているのですか」とお尋ねになったところ、「この国は鹿乃見哉毛為でございます」と申し上げました。そこで倭姫命はその地を鹿乃見と名付けました。

倭姫命が名付けたその土地には加怒弥神社が鎮座しています。三重県伊勢市鹿海町字大野間に鎮座しています。御祭神は大歳神の子・稲依比女命です。

加怒弥神社
加怒弥神社

また老女は「何故その様な事をお問いになるですか」とお咎めになりました。そこで倭姫命はその地を止鹿乃淵とお名付けになりました。

止鹿乃淵
止鹿乃淵(伊勢市鹿海町の南の方に所在するという)

今回のエピソードは今までと違って雰囲気が異なりますよね。これまでは多くの土地の豪族や神様達が倭姫命を歓迎して来たのに対して、この宇遅都日女は明らかに反抗的な態度を示しています。また、彼女は発した「鹿乃見哉毛為」という言葉も難解で意味深ですよね。

今までの記事に中でも何回かお伝えしてきたのですが、引用している倭姫命世記は正式な歴史書では無く、中世に成立した伊勢神道の経典です。しかし、経典にこうも難解で倭姫命に反抗的な人物を出すものでしょうか。やはり何か元になる事件が当時あったのかな~って考えてしまいます。

矢田宮

倭姫命世記より

それより矢田宮に幸行したまひき

そこから倭姫命は矢田宮へと巡幸されました。矢田宮は元伊勢伝承地で唯一と言っていいほどお社が残っていない所ですが、今その旧跡地は神宮神田として神宮の神々へお供えする神饌を自給自足する場所になっています。

神宮のお祭りで神饌などの神様へのお供えとなるものを御料と言い、古くからのしきたり通りにその生産と調整を行う場所や施設を御料地と言います。

矢田宮
矢田宮

御料の歴史は古くその始まりは天照大御神が伊勢にご鎮座される当時にまで遡ると言われています。そして前例を変える事無く現代においても古代のやり方と同様に御料を作りお供えを続けておられるそうです。古代のやり方と同様にお供えを作るとか大変な手間暇をかけられている事が分かりますね。

矢田宮
矢田宮

この神宮神田では五十鈴川の水を頂いて、うるち米・もち米・保存品種など合わせて十数種類の御料米が清浄に育てられているそうです。不作を回避し、秋の神嘗祭には必ず神前へお供えする事ができる様に、多くの品種を育てる事にされているそうですよ。なるほど…!

なんだかお米のありがた味が改めて身に沁みてきそうです。美味しいご飯が食べてくなりますね。

家田田上の宮

倭姫命世記より

次に家田の田上宮に遷幸りたまひき。その宮に坐します時、渡会の大幡主命、皇太神の朝の御気夕の御気処の御田を定め奉りき。宇遅田の田上に在りて、抜穂田と名づくるは是なり。

次に家田の田上宮にお遷りになりました。

田上の宮の伝承地は三重県伊勢市楠部町字尾崎に鎮座する大土御祖神社です。内宮摂社27社のうち、第10位です。

御祭神は大国玉命、水佐々良比古命(みずささらひこのみこと)、水佐々良比賣命(みずささらひめのみこと)です。

この大国玉命とは、国土を神格化した神様の事で、国霊とも書きます。本居宣長は「その国を経営坐(つくりし)し功徳(いさお)ある神を、国玉国御魂」と言うと書いています。国を作るにはその土地におられる神様の力が働いているんだよって考えですね。

また、水佐々良比古命・水佐々良比賣命は水の神です。

家田田上宮
家田田上宮

その宮にいらっしゃる時に渡会の大幡主(大若子命)は天照大御神の朝夜のお食事の御田をお定めになりました。抜穂田と名づけるのはこの由来によるものです。

奈尾之根の宮

倭姫命世記より

それより幸行して、奈尾之根宮に座しまし給ふ。時に出雲神の吉雲建子命、一名は伊勢都差神、一名は櫛玉命、並びにその子大歳神・桜大刀命・山神大山罪命・朝熊水神等、五十鈴の川後の江にて御饗奉りき。

倭姫命は家田の田上から更にお進みになり、奈尾之根の宮においでになりました。

奈尾之根の宮の伝承地が三重県伊勢市中村町字西垣外に鎮座する那自売神社です。内宮の末社16社の内、第13位です。

御祭神は大水上御祖命(おおみなかみのみおやのみこと)と御裳乃須蘇比賣命(みものすそひめのみこと)。五十鈴川の水の守り神とされています。

那自売神社
那自売神社

那自売神社
那自売神社

その時に出雲の神の御子、吉雲建子命(この御子神には伊勢都差神、または櫛玉命という二つの別名がありました)、そして吉雲建子命の御子神である大歳神・桜大刀命、山の神である大山祇命、朝熊の水の神が揃って五十鈴の河口で倭姫命に御饗を奉りました。沢山の神様たちが出迎えてくれて御馳走してくれるなんて嬉しいですね。

吉雲建子命
吉雲建子命
大歳神・桜大刀命
大歳神・桜大刀命

大山祇命
大山祇命
朝熊の水の神
朝熊の水の神

宇遅の五十鈴の河上

倭姫命世記より

時に猨田彦神裔宇土公が祖大田命参りき。「汝が国の名は何ぞ」と問ひ給ふに、「佐古久志呂宇遅の国」と白して、御止代の神田を奉りき。倭姫命問ひ給はく、「吉き宮処有りや」とのたまふ。答へて白さく、「佐古久志呂宇遅の五十鈴の河上はこれ大日本の国の中に、殊に勝りて霊しき地に侍るなり。その中に、翁三十かがやく八万歳の間にも、未だ視知らざる霊しき物有り。照り輝くこと日月の如くなり。これ小縁の物には在さじ。定めて主出現御まさむか。その時献るべしと念ひて、かの処に礼び祭り申せり」とまをす。即ち、かの処に住到り給ひて御覧じければ、惟昔大神誓願給ひて、豊葦原の瑞穂の国の内に、伊勢加佐並波夜の国は美き宮処有りと見そなはし定め給ひ、上天よりして投げ降し坐たまひし天の逆太刀・逆鉾・金鈴等なり。甚く懐に喜びたまひて、言し上げ給ひき。

その時に猿田彦の後裔であり、宇土公の祖である大田命が参上して倭姫命にお目にかかります。

大田命
大田命

倭姫命は「あなたの国は何というのですか」とお尋ねになると、大田命は「佐古久志呂宇遅(さこくしろうじ)の国でございます」と申し上げて、天照大御神にお供えする稲を耕作し収穫する田んぼを身上します。

また倭姫命は「御殿を建てるのに適した場所はありますか」とお問いになると、大田命はこう申し上げたのです。

「佐古久志呂宇遅の五十鈴の河上は、大日本の国の中においても特に人知で計り知れないほどの神秘に包まれた聖地でございます。その聖地に、私の三十八万歳の生涯を通してもまだ見た事も無い霊妙なものがあります。それが照り輝く様子は太陽や月の様です。これは並大抵のものではありません。いつかきっとこの国のご主人である大いなる神が現れお鎮まりになる場所でありましょう。その時には子の聖地を大御神様に献上しようと思いまして、その場所に畏敬の念を込めてお祀り申し上げて参りました。」

そこですぐに倭姫命はその聖地まで行かれてご覧になった所、その霊妙な物の正体とは…!

その昔、天照大御神が誓いを立てられて、豊蘆原の瑞穂の国の中でも伊勢加佐並波夜の国には御殿を建てるのに適した素晴らしい場所であると見定めになり、その時に天上から投げおろして鎮座せしめ給うた天の逆太刀・逆鉾・金鈴などの神宝でありました。

それを知った倭姫命は大変お喜びになり、その旨を朝廷にご報告されたのでした。

天井から投げ下ろした逆太刀・逆鉾って事は切先を逆さにして突き立てられている状態なんでしょうかね。

天孫降臨の際に瓊瓊杵尊が高天原から投げ下ろしたと伝わる「天の逆鉾」と言われる銅鉾が高千穂峰の山頂にありますよね。

天から神宝を投げ下ろしてそれが逆さに突き立てられるという説話が形を変えて各地に残っているのかもしれませんね。

また、「伊賀国風土記」の中に天照大御神が天井から地上に三種の宝器を投げ下ろし、その中の金鈴を猿田彦の女の吾娥津媛命が奉斎してきたと言う逸話もありますね。

吾娥津媛命
吾娥津媛命

五十鈴の宮 天照大御神、ついに五十鈴川の川上に鎮座

倭姫命世記より

二十六年丁巳冬十月甲子、天照太神を度遇の五十鈴の河上に遷し奉る。今歳、倭姫命、大幡主命・物部八十友緒の人等に詔はく、「五十鈴の原の荒草木根を苅り掃ひ、大石小石を造り平して、遠山近山の大狭小狭に立つ材を、斎部の斎斧を以て伐り採りて、本末ば山祇に祭り奉りて、中間を持て出で来りて、斎鉏を以て斎柱立て〈一名は天御橋柱、一名は心御柱〉、高天原に千木高知り、下都磐根に大宮柱広敷立てて、天照太神並びに荒魂宮・和魂宮と鎮め坐し奉る」とのたまふ。時に美船神、朝熊水神等、御船に乗せ奉りて、五十鈴の河上に遷幸す。時に河の際にして、倭姫命、御裳の斎長くして、計加礼侍りけるを洗ひ給へり。それより以降、際を御裳須曽河と号くるなり。

垂仁天皇26年(BC4年)10月、倭姫命は天照大御神渡会の五十鈴の河上にお遷し申し上げ、この年、大幡主・物部八十友緒の人々に次の様に詔をしました。

「五十鈴の原の荒々しい草や木に根を刈り採って大きい石や小さい石で凸凹になっている地面を平らにして遠くの山や近くの山の大きい山間・小さい山間に立つ木々を忌部氏が清めた斧で伐り採って、その木の根元と先の部分に山の神を祀って奉り中間の部分を持ち出して清めた鋤を使って地面を掘り聖なる御柱を立て、高天原に届くばかりに大宮の柱を広く敷き立てて、天照大御神を奉り、その荒魂・和魂を鎮め奉る宮をお造り申し上げよ」

この時、美船の神や朝熊の水の神達が天照大御神を御船にお乗せ申し上げ五十鈴の川上にお遷し申し上げました。

その時、倭姫命は御裳の裾がこれまで各地を巡行してきて汚れていたので、五十鈴川の際でその長い裾を洗い清められました。

それ以来この川の辺りを「御裳裾川」と呼ぶ様になりました。

五十鈴川
内宮の神域内を流れる五十鈴川。御裳裾川とは五十鈴川の異称です。

倭姫命世記より

采女忍比売、天平賀八十枚を造り、天富命が孫をして神宝の鏡・大刀・小刀・矛楯・弓箭・木綿等を作らしめ、神宝・大幣を備へたまふ。その時に、皇太神、倭姫命の御夢に喩し給はく、「我れ高天原に坐し、甕(この字?)戸押し張りて、原、如見見志真伎国の宮処は、この処なり。静り定まり給はむ」と覚へ給ひき。時に倭姫命、並びに御送りの駅使、安倍武渟河別命・和珥彦国葺命・中臣国摩大鹿嶋命・物部十千根命、大伴武日命、並びに渡会の大幡主命等に御夢の状を具に教へ知らしめ給ひき。時に大幡主命悦びて白さく、「神風の伊勢国、百船渡会の県、佐古久志呂宇治の五十鈴の河上に、鎮り定り坐す皇太神」と国保伎し奉りき。終夜宴楽し舞ひ歌ふ。日の小宮の儀の如し。ここに倭姫命、「朝日の来向かふ国、浪の音聞こえざる国、風の音聞えざる国、弓矢鞆の音聞えざる国、打摩志売留国、敷浪七保の国吉き国、神風の伊勢の国の百伝ふ渡会の県の拆久志呂五十鈴宮に鎮り定り給へ」と国保伎し給ひき。

それから采女の忍比売は神聖な平瓮を八十枚作り、天富命の孫に命じて神宝の鏡・大刀・小刀・矛と楯・弓と矢、木綿などを作らせて、神宝や立派な幣帛を天照大御神にに献上しました。

天富命の孫
天富命の孫。古語拾遺に登場する。因みに祖父の天富命は神武天皇の時代に活躍した。神武東征の際に橿原宮を造営し、阿波国に続いて房総の開拓をした。

その時天照大御神が倭姫命の夢に現れて次の様にお告げになります。

「私が高天原にいた時に、高天原の御門を押し開いて見定めていた国の宮処は、正にこの地である。私はここに鎮まり定まろうと思う。」

天照大御神はこの様に倭姫命に言い聞かせました。

その時倭姫命は御送りの駅使である安倍武渟河別命・和珥彦国葺命・中臣国摩大鹿嶋命・物部十千根命・大伴武日命、そして渡会の大幡主命(大若子命)にこの御夢の有り様をつぶさに教えて知らせました。

武渟河別命
武渟河別命。孝元天皇の子・大彦命の子。安倍氏の祖。
彦国葺命
彦国葺命。第5代・孝昭天皇の玄孫。和珥氏の祖。
国摩大鹿嶋命
国摩大鹿嶋命。久志宇賀主の子。中臣氏の祖。

十千根命
十千根命。父は伊香色雄命。物部氏の祖。

大伴武日
武日命。父は豊日命。大伴氏の祖。

その時大幡主命はこれを聞いて喜んで、「神風の伊勢国、百船渡会の県、佐古久志呂宇治の河上に鎮まり定まります皇太神様。」と国をお祝いする言葉を申し上げました。

それから終夜、盛大な宴を催し舞や歌が披露されました。その光景はあたかも高天原における日の若宮の儀式の様であったそうです。

倭姫命は「朝日の向かう国、夕日の向かう国、浪の音の聞こえない国、弓矢や鞆の音の聞こえない国、打摩志売留国、波が稲穂様に幾重にも打ち寄せる良い国、神風の伊勢国の百伝う渡会の県の拆久志呂五十鈴宮にお鎮まり、そこを宮処としてお定まり下さい。」と国を褒め称えるお祝いの言葉を申し上げました。

伊勢神宮内宮
伊勢神宮内宮

倭姫命が豊鋤入姫命から御杖代の使命を継承してからどれ程の年月が経った事でしょう。ついに天照大御神の御鎮座に相応しい地を見つけてここにお祀りする事となりました。

皇室の祖先神であり太陽の女神とされる天照大御神をお祀りする伊勢神宮です。伊勢神宮と言うのは通称で正確には「神宮」と言います。

皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)の二つの正宮をはじめ、十四の別宮、四十三の摂社、二十四の末社、四十ニの所管社の計百二十五の神社の集合体を成しています。

今まで倭姫命の旅路と共に摂社や末社を紹介して来ましたが、一つ一つが神宮を形成する社だったんですね。

伊勢神宮内宮
伊勢神宮内宮

一般参拝客はこの階段を登ってすぐの鳥居の奥に見える白い御簾のかかった板垣南御門からお参りします。

ここからは見えませんが、正宮は御正殿を中心にして瑞垣・内玉垣・外玉垣・板垣の四重の垣根が張り巡らされていて、御正殿の日本古来の建築様式の唯一神明造です。

屋根は茅葺、柱は掘立など、簡素で直線的、檜の美しさを際立たせる建築様式と言われますね。

唯一神明造は弥生時代の穀物を保管する倉に起源を持つと言われますよね。日本の神様の最高神を祀る神宮の様式が、古代日本の伝統に基づいて建てられているって何だか嬉しくなりますね。

伊勢神宮内宮
伊勢神宮内宮

ついに倭姫命、天照大御神の御心に叶う土地に辿り着く事が出来ましたね。

ここまで来るのにどれくらいの年月が過ぎたでしょう。そして色んな事があって色んな人や神様に出会いました。今となってはそのどれもがかけがえの無い思い出となっている事でしょう。お疲れ様でした…!

次回からは後のエピソード、そして伊勢神宮外宮の鎮座までを追いかけたいと思います。

それではまた次の記事でお会いしましょう!

天照大御神と倭姫命
良い所に辿り着けて良かった!
天照大御神と倭姫命 良い所に辿り着けて良かった!
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Writer げぴこ@らくがき日本の歴史

古事記や日本書紀、神社の伝承を調べたりするのと、絵を描くのが好きなアラサー女子です。神武天皇と五瀬命が控えめに言って大好き。宇摩志麻遅命も好き。

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