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ゆかりの地巡り
投稿日:2024/03/24 最終編集日:2024/03/24
▼もくじ
はじめに
前回の記事です。
前回で天照大御神がついに五十鈴川の河上にお鎮まりになり、倭姫命の長い長い旅が終わりました。各地で色んな人と出会って色んな神様と縁が出来て、時には荒ぶる神に出会ったりその土地の老女に咎められたり…沢山の出会いを繰り返してきましたね。
天照大御神も御杖代である倭姫命の見てきた風景を間近で同じ様に見て来られたのでは…そう考えると2人の女子旅とも言える冒険譚が終焉を迎えるのは寂しい気がしますね。
今回の記事は天照大御神が伊勢に御鎮座されてからの「後日談」的なお話です。
倭姫命の生涯を最後まで辿っていきたいと思いますのでもうしばらく元伊勢記事にお付き合い下さいね。
また、この記事は歴史書では無く中世に成立した伊勢神道の経典「倭姫命世記」の伝承を元に元伊勢関連の史跡を紹介しています。倭姫命世記の引用の部分で難解な箇所もあるかと思いますが、そう言う所も含めて楽しんで頂けたら幸いです。
斎宮と礒宮
倭姫命世記より引用
時に送りの駅使、朝廷に還り詣り上り、倭姫命の御夢の状を細に返事白しき。その時、天皇聞しめして、即ち大鹿嶋命を祭官と定め給ひき。大幡主命を神の国造兼ぬる大神主と定め賜ひき。神館造り立てて、物部八十友緒の人等を率る、雑の神事を取り惣べ、太玉串を捧げて供へ奉れり。因て斎宮を宇治の県五十鈴の川上の大宮の際に興て、倭姫命をして居さしめたまふ。即ち八尋の機屋を建て、天棚機姫神の孫 八千千姫命をして大神の御衣を織らしめたまふ。譬へば猶天の上に在る儀のごとし 〈謂ひて宇治の機殿と号くるは是なり。一名は礒宮と号く〉。
次に櫛玉命・大年神・大山津見山神・朝熊 水神等響奉る。かの処にして、神社を定め給ひ、神宝を留め置く
<伊弉諾・伊弉冉尊、捧げ持ちたまひし所の白銅鏡二面是なり。これ則ち日神月神化るる所の鏡なり。水火二神〉の霊しき物と為す。
時に御送りの駅使(安倍武渟河別命ら五大夫の事)が伊勢から大和に戻り朝廷に参上し、倭姫命の御夢の内容を詳細に報告されました。天皇はそれをお聞きになってすぐに大鹿嶋命を祭官に、また大幡主命(大若子命)を神の国造兼大神主に任命されました。
大鹿嶋命の孫の天見通命は荒木田氏の祖とされていて、中臣氏と同族と言われています。荒木田氏は伊勢神宮内宮権禰宜を掌握した氏族ですね。
大幡主命が任命された大神主は神官を指揮する職で、その後裔が伊勢神宮外宮の神職を世襲してきた渡会氏です。
内宮・外宮それぞれを掌握した氏族が何故そうなるに至ったかについてここで由来が語られているんですね。
大幡主命は神館を造り建てて、物部八十友緒の人等を率いて様々な神事を総括し、太玉串を捧げて天照大御神をお祀りしました。それに伴い斎宮を宇治の県の川上の大宮のほとりに建て、勅命により倭姫命を斎王に定め天照大御神にお仕えさせました。
天照大御神と倭姫命の旅路が終わったとは言え、改めて斎王に任命されるってなんか嬉しくないですか!これからも2人は運命を共にするんだなって考えたらずっと元伊勢伝承を追ってきた立場としましては安心するんですよね。
また、広い機屋を建てて天棚機姫神の孫八千千姫命をして大神の御衣を織らせました。その様子は高天原における儀礼の様でありました。(いわゆる宇治の機殿と名付けるのはこの為です。一名は礒宮とも名付けました)
古事記の天岩戸神話で「天照大御神が神聖な機屋(はたとの)においでになって神に献神を機織女に織らせておられた時…」と言う箇所がありますがそれを彷彿とさせますね。
古語拾遺にも「天棚機姫神をして神衣を織らしむ」とあります。「棚織女」は水辺に棚を設けて来臨する客神(まれびと)を迎えて機を織る巫女の事でそれを神格化したもの…とも言われています。
女神様の衣服を織るのって大切な仕事ですよね!鎮座地にあれこれ注文を付けてきた天照大御神…衣服についても色々とご要望がありそうだなと想像しちゃいます。
次に櫛玉命・大年神・大山津見命・朝熊水神などが御贄を奉りました。倭姫命はそこに神の社を定めそこに神宝を奉りました(伊弉諾・伊奘冉尊が捧げ持った白銅鏡二面が、これである。これは日神と月神とが化生された鏡であり、水火ニ神の霊妙な物というべきである)
神衣の祭り
倭姫命世記より引用
「垂仁天皇二十五年丙 辰春三月、伊勢の百船度会の国玉綴ふ伊蘓の国に入りまして、即ち神服織社を建て、太神の御服を織らしめたまふ。麻績機殿神服社、是なり〈此処より始めて伊藤宮と号くることあり〉。然る後、神の詩に随ひて、神籬を造り建つ。丁巳年冬十月甲子を取りて、五十鈴の川上に遷し奉りて後、清く麗しき膏き地を寛ぎて、和妙の機殿を同じ五十鈴の川上の側に興て、倭姫命をして居さしめたまふ。時に、天棚機姫神をして太神の和妙の御衣を織らしめ給へり。是を名づけて礒宮と号く。ここに巻向日代宮の御宇、日本建尊、比比羅木の八尋鉾根を以て、皇太神宮に奉献る。即ち倭姫皇女、かの鉾根は緋の嚢に納めて、皇太神の貴き財と為て、八尋機殿 〈円方機殿、是なり〉に状を隠して、皇太神の御霊と為て、崇め祭り奉りたまふ。天棚機姫神の裔八千千姫命をして、年毎に夏四月、秋九月に神服を織らしめ、以て神明に供へたまふ。かれ、衣の祭と日ふなり。てこの御世に、補地・裾戸を定め、天神地祇を崇め祭る。年中の神態は、蓋しこの時より始まり。」
ここで一つ時は遡りますが、天棚機姫神の孫・八千千姫命に関連する説話を加えて紹介させてもらいます。
垂仁天皇25年(BC5年)丙辰3月、倭姫命は伊勢の百船渡会の国綴ふ伊蘓の国に入られて神服織(かむはとり)の社を建てられ、天照大御神の御服を織らせました。これが麻績機殿神服社(をみのはたどのかむはとりしゃ)です。(この事から伊蘓宮という名付けが始まりました。)その後、天照大御神の教えに従い、神籬を造られました。
この麻績機殿神服社は現在は神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)・神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)の2社に分かれて鎮座しています。元々は同じ場所に鎮座していたと考えられていて、2社合わせて両機殿と呼ばれています。
伊勢志摩観光コンペンション機構公式サイトより
伊勢神宮内宮の所管社。
御祭神は神御衣祭に供進される和妙(にぎたえ)を奉織する御機殿の鎮守の神、神服織機殿鎮守神(かんはとりはたどのちんじゅのかみ)です。
社地には所管社の神服織機殿神社末社八所(かんはとりはたどのじんじゃまっしゃはっしょ)、御祭神は神服織機殿鎮守御前神(かんはとりはたどのちんじゅみまえのかみ)が御鎮座されています。
神宮神職が参向し、地元の者が古い伝統のままに奉織を奉仕しています。
下機殿(しもはたどの)とも呼ばれています。
伊勢志摩観光コンペンション機構公式サイトより
伊勢神宮内宮の所管社です。
御祭神は神御衣祭に供進される荒妙(あらたえ)を奉織する御機殿の鎮守の神、神麻続機殿鎮守神(かんおみはたどののちんじゅのかみ)です。
御機殿は八尋殿(やひろどの)といい、向かって右の萱葺の建物です。
社地には所管社の神麻続機殿神社末社八所(かんおみはたどのじんじゃまっしゃはっしょ)、御祭神は神麻続機殿鎮守御前神(かんおみはたどのじんじゃみまえのかみ)が御鎮座されています。
上機殿(かみはたどの)とも呼ばれています。
丁巳年冬十月甲子を以て天照大御神を五十鈴の川上にお遷しになった後、美しく清浄な土地を求めて和妙(織り目の精密な柔らかい布の事で絹布一般の事を言います)の機殿を同じ五十鈴川の川上に建て、勅命により倭姫命はその社にて奉斎しました。そして、天棚機姫神に天照大御神の和妙の御衣を織らせました。これを名付けて磯宮と言います。
時代は下って景行天皇の御代に至り、日本武尊が柊の八尋鉾を皇大神宮に奉献しました。そこで倭姫命はその鉾を緋の嚢に納めてこれを八尋機殿に天照大御神の秘宝として納め、御霊として崇め祭りました。
そして天棚機姫神の孫の八千千姫命に毎年夏4月と秋9月に天照大御神の御衣を織らせ、これをお供えになりました。これが神衣の祭の始まりとされています。
全て、この御代には神地・神戸を定め、天神と地祇を崇め奉りました。神宮の年中の様々な行事も、この時より始まったのであります。
湯貴潜女と神堺制定
倭姫命世記より引用
倭姫命御船に乗り給ひ、御膳御贄の処を定めたまふ。嶋国の国崎嶋に幸行して、「朝の御饌夕の御饌」と語ひて、湯貴潜女等を定め給ひて、還り坐す時に、神堺を定め給ひき。戸嶋・志波崎・佐加太岐嶋を定め給ひて、伊波戸居給ひて、朝の御気夕の御気処を定め奉りたまひき。然して倭姫命御船を留めたまふに、鰭の広きの狭き魚・貝津物・感津毛妙津毛は依り来りき。その海の塩相秘みて、淡くありける。かれ、淡海浦と号けたまひき。伊波戸居嶋の名を戸嶋と号けたまひき。彼刺処の名を柴前と号けたまひき。それより以西の海中に七箇の嶋在り。それより以南の塩淡く甘かりき。その嶋を淡良伎の嶋と号けたまひき。その塩淡く満ち溢ふ浦の名を伊気浦と号けたまひき。その処に参り相ひて、御饗へ奉る神を淡海子神と号けて、社を定め給ひき。その処を朝の御気夕の御気嶋に定めたまひき。還り幸行するに、その御船泊て留りてありし処を、津長原と号けたまひき。その処に津長社を定め給ひき。
倭姫命は御船に乗って天照大御神へお供えする御膳御贄の処をお定めになりました。女神様が美味しい!って毎日食べてくれるご飯を供給する場所選びは大事ですよね!
まず初めに志摩国の国崎島に行幸になって「朝の御饌、夕の御饌にお供えして下さいね」と仰せになります。
そしてそれを採る清浄な海女を任命されそこから戻られる時に神地の堺をお定めになりました。
戸嶋・志波崎・佐加太岐嶋をその神界とし、これらの地を朝の御饌・夕の御饌を奉る所とされます。
(戸島は不明)
そして御船をお留めになった所には大小様々な魚達、貝類や沖の藻や岸辺の藻が自然と寄り集まって来て、海の潮は淡く穏やかでありました。そこでそこを淡海浦とお名付けになりました。
また伊波戸居嶋の名を戸嶋(不明)とお名付けになり、彼刺処の名を柴前(志波崎と同地か)とお名付けになりました。
そこから西の海中に七箇の島があります。南から吹く潮は淡く甘美であった為、その島を淡良伎の島(今、この名は残らない)とお名付けにになり、その潮が満ち溢れる裏の名前を伊気浦とお名付けになられました。
ここでも倭姫命、何かを感じたら自ら名前をつけられてますね。私好みの名前にしちゃえ⭐︎的な思いも感じられます。
またその地に参られて御贄を奉ってお仕えする神を淡海子神とお名付けになり、その神の社を定めました。
その淡海子神社の伝承地が三重県伊勢市二見町松下鳥取に鎮座する粟御子神社です。内宮摂社27社の内第19位です。
ここは125社ある伊勢神宮の社の中でも最も海岸に近い社なんです。ナビに案内してもらってもどうしても辿り着く事が出来ずに案内された場所にある「旅荘 海の蝶」様のフロントの方に聞いたらマップを頂き親切に道順を教えていただきました!どうやら神社に行くまでに「旅荘 海の蝶」様の私有地を通るらしく、皆さんも粟御子神社に行かれる際にはフロントの方に一声かけてから参拝して下さいね。
主祭神は須佐乃乎命御玉道主命(すさのおのみことのみたまのみちぬしのみこと)で、海岸鎮護の神と伝えられていて別名淡海子神となっています。
五十鈴の大宮にお戻りになる際に、その御船をお泊めになった所を津長原とお名付けになりその所に津長社をお定めになりました。
津長社の伝承地が三重県伊勢市宇治在家字柏崎に鎮座する津長神社です。(新川神社・石井神社が同座)
津長神社は内宮摂社27社の内第14位で主祭神は栖長比賣命(すながひめのみこと)
新川神社は内宮末社16社の内第6位で主祭神は新川比賣命(にいかわひめのみこと)
石井神社は内宮末社16社の内第7位で主祭神は高水上命(たかみなかみのみこと)
三柱とも大水上命(おおみなかみのみこと)の御子神です。
天照大御神もきっとこの地で採れた海産物を献上されて目を輝かせて喜ばれたのではないでしょうか。
伊雑宮と顕久真
倭姫命世記より引用
二十七年 戊午秋九月、鳥の鳴く声高く聞えて、昼も夜も止まずしてし。 「これ異し」と宣ひて、大幡主命と
舎人紀麻良と使に差し遣はして、かの鳥の鳴く処を見しめたまふ。罷り行きて見れば、嶋の国伊雑の方上の葦原の中に、稲一基あり。生ひたる本は一基にして、 末は千穂に茂れり。かの稲を白き真名鶴峠へ持ち廻りつつ鳴きき。此を見顕はすに、その鳥の鳴く声止みき。返事申しき。その時、倭姫命宣はく、「恐し。事問はぬ鳥すら、田を作りて皇太神に奉るものを」と詔ひて、物忌始め給ひて、かの稲を伊佐波登美神をして抜穂に抜かしめて、皇太神の御前に懸久真に懸け奉り始めき。則ち、その穂を大幡主の女子乙姫に清酒に作らしめて、御饌に奉り始めき。千税奉り始むる事、茲に因れり。かの稲の生ふる地を千田と受けたまひき。嶋の国伊雑の方上に在り。その処に伊佐波登美の神、宮を造り奉りて、皇太神の摂宮と為す。伊雑宮これなり。かの鶴の真鳥を受けて大歳神と称し、同じ処に祝ひ宛て奉る。また、その神は皇太神の坐します朝熊の河後の葦原の中に、石として坐す。かの神を小朝熊の山の嶺に社を造り奉り、祝ひ宛て坐さしむ。大歳神と称すは是なり。
垂仁天皇27年(BC3年)戊午秋の9月の事でした。
昼も夜も鳥の鳴く声が聞こえて騒がしいので、倭姫命は大幡主と舎人紀麻良を使いに遣わしてその鳥の鳴く所を見に行かせました。すると志摩の国の伊雑の方上の葦原の中に稲が一基ありました。その稲の生えている根本は一基なのに、先の方は千穂に分かれて茂っていました。その稲を白い真名鶴が咥え持って空を回りながら鳴いているのでした。2人はその様子を見届けると鳥の鳴く声が止んだのでその旨を報告しました。
倭姫命は「恐れ多い事です。言葉を話せない鳥でさえも田を作って皇大神に奉ろうとしているのね」と仰せになり物忌みをお始めになり、伊佐波登美神(いさはとみのかみ)に命じて稲を刈り取らずに穂のみを抜き取らせて皇大神宮の玉垣に懸けさせました。
大幡主命の娘の乙姫に命じてその穂から清酒を作らせて御饌として奉る事も始められました。
またその稲の生えていた地を千田とお名付けになりました。
その地に伊佐波登美神が宮を造られ皇大神宮の摂宮にされました。
それが三重県志摩市磯部町上之郷に鎮座する伊雑宮(いざわのみや)です。
御祭神は天照大御神の御魂。「いぞうぐう」と呼ばれ古くから「遙宮」として地元の人々から崇敬を集め、海の幸・山の幸の豊穣が祈られてきました。
漁師さんや海女さんからの信仰も篤いとか。
「御食つ国 志摩の海女ならし真熊野の小船に乗りて 沖へ漕ぐ見ゆ」
万葉集で大伴家持が歌った様に志摩国は古代から風光明媚で知られています。
今でもアワビや伊勢海老などの神饌が神宮へ奉納されています。
倭姫命もこの美しい志摩国の風景を眺めてホッとして、海産物を見て美味しそう!って思われた事でしょう
またその鶴を大歳神と名付けて同じ所にお祀りしました。
その伝承地が伊雑宮の所管社で三重県志摩市磯部町恵利原に鎮座する佐美長神社です。
伊雑宮から800メートルほど離れた所にあります。
御祭神は大歳神で、先ほど紹介した真名鶴が大歳神とされています。
また、その大歳神は皇大神宮の鎮座する朝熊の河口の葦原の中に石の姿でお鎮まりになっています。
この場所は天照大御神の神域である朝熊川の川口で、この川と五十鈴川との合流地に内宮末社の鏡宮神社が鎮座しています。
内宮の末社16社の内、第16位です。
御祭神は朝熊神社の御前神で岩上二面神鏡霊。神域内の右手奥にある大きな岩に二面の鏡が奉斎されてあったと伝えられています。大歳神が石に姿でお鎮まりになっているというのがこの石の事の様ですね。
また、更にその大歳神を小朝熊の山の峯に社をお造りしてお祀りしました。今この地にその伝承に該当する神社は無いのですが、鏡宮神社の近くには朝熊神社があります。
内宮の摂社第1位で他の摂社以下の神社に比べて多くの祭祀が行われている格式の高い神社です。御祭神は大歳神、苔虫神、朝熊水神。この三柱は朝熊平野の守護神で五穀と水を司るとされています。
朝熊御前神社も同座しています。
境内に入り向かって右側が朝熊神社、左側が朝熊御前神社です。
朝熊御前神社は内宮摂社27社の内第2位です。
大歳神と言えば古事記では須佐之男命と神大市比売との間に出来た御子神として知られていますが伊勢では鶴の神様として祀られていたんですね。
そしてこの鶴の伝承ともう一つよく似た話が伝えられています。次項で紹介します。
佐々牟江の真名鶴
倭姫命世記より引用
また明くる年の秋の比、真名鶴、皇太神宮に当りて天翔り、北より来りて日夜止まず翔り鳴きき。時に白草に当りき。ここに倭姫命、異しみ給ひて、足速男命を差して使として見しめたまふ。罷り到りて見れば、かの鶴は佐佐牟江宮の前の葦原の中に還り行きて鳴きき。使到りて葦原の中を見れば、稲生ひたり。 本は一基にして、末は八百穂に茂れり。昨へ捧げ持ちて鳴きき。ここに使到りて見顕はす時に、鳴く声止みて、天に翔る事も止みき。時に返事白しき。その時、倭姫命歓びて詔はく、「恐し。皇太神入り坐せば、鳥禽相悦び、草木共も相随り奉りて、稲一本に千穂八百穂茂れり」と詔ひて、竹連吉比古等に仰せ給ひて、先穂を抜穂に抜かしめ、半分を大税に苅らしめて、皇太神の御前に懸け奉りたまひき。抜穂は細税と号け、大苅は太半と号けて、御前に懸け奉る。仍りて天都告刀に、「千税 八百税余」と称へ白して仕へ奉る。因りてその鶴の住める処に、八握穂社を造りて祠る。また、「伊鈴の御河の漑水道田には、苗草敷かずして作り食へ」と詔ひき。また、「我が朝の御饌夕の御饌の御田作る家田の堰水道田には、田蛭穢しければ、我が田には住まはせじ」と宣ひき。
翌年の秋頃、真名鶴が北から飛来して皇大神宮の宮の周りを昼夜止まらずに飛び回って鳴いていました。倭姫命は不思議に思い足速男命にその真名鶴の様子を見に行かせました。
するとその鶴は佐佐牟江宮の前の葦原の中に戻って行って鳴いていました。
葦原の中を見ると稲が生えていて根本は一基なのに先の方は八百穂に分かれて茂っていました。鶴はそれを捧げる様に咥えて鳴いていました。足速男命はこの事を倭姫命に報告しました。倭姫命は「恐れ多い事です。皇大神が鎮座すると鳥達も互いに喜び草木も奉って稲一本にも千穂八百穂と茂るという事です」と大変喜ばれました。竹連吉比古等に仰せになってその先穂を抜穂に抜かせて半分を茎の元から刈らせて皇大神の御前に懸けて奉りました。
その抜穂は細税と名付けて大苅は太半と名付けて今に至るまで御前に懸けて奉ると言われています。
天つ祝詞にも「千税八百税余」とありますね。
その鶴の住んでいる所に八握穂社(所在不明)を造って祀っています。
また、皇大神より「五十鈴川の水を引く田には苗草を敷かずに稲を作り育てよ」と宣託がありました。
「私の朝の御饌夕の御饌の御田のいのみずを引く田には、蛭は穢らわしいので住まわせてはいけない」とも仰せになりました。
神聖な御田に蛭は不浄だから住まわせては行けない…何故蛭が不浄とされているのでしょう。昔の人は蛭を不浄だと思ったのでしょうか。
イザナギ・イザナミの婚姻神話の際に産まれたヒルコと関係があるのか…もしくはもっと別の意味があるのか、伊勢の伝承には度々不思議な記述がありますね。
内の七言・外の七言
倭姫命世記より引用
また種種の事を定め給ふ。内の七言とは、仏を中子と称ひ、経を染紙と称ひ、塔を阿良良伎と称ひ、寺を瓦葺と称ひ、僧を髪長と称ひ、尼を女髪長と称ひ、長斎を片膳と称ふ。外の七言とは、死を奈保留と称ひ、病を夜須美と称つのはずひ 哭を塩垂と称ひ、血を阿世と称ひ、打つを撫づと称ひ、宍を菌と称ひ、墓を壌と称ふ。また優婆塞を角波須称ふ。
倭姫命はまた色々な事をお定めになりました。
内の七言とは、仏を中子と称し、経巻を染紙と称し、塔を阿良良岐と称し、寺を瓦葺と称し、僧を髪長と称し、尼を女髪長と称し、斎食を片膳と称する…以上の七言を言います。
次の七言とは死を奈保留と称し、病を夜須美と称し、泣くを塩垂と称し、血を阿世と称し、打つを撫づと称し、肉を菌と称し、墓を壌と称する…以上の七言を言います。また優婆塞を避けて角波須と称します。
内の七言は仏教に関連する忌詞、外の七言とは仏教関連以外の忌詞です。忌詞とは不吉として使うのを避け、その代わりに使う別の言葉の事です。
倭姫命の時代には仏教は伝わっていませんが、倭姫命世記は中世に成立した伊勢神道の経典ですからね。ここには古代の神官の仏教に対する姿勢が記されているという事でしょうか。
と言うか倭姫命、各地を旅したり社を定めたり色々な取り決めをしたり何でもしてる事になってますね…!
祓法の制定
倭姫命世記より引用
また祓の法を定め給ふ。敷・放・溝埋・樋放・串刺・生剝・逆剝・屎戸、許許太久の罪をば天津罪と告り別け生秦断・死秦断・母犯せる罪・子犯せる罪・畜犯せる罪・白人・古久弥・川入・火焼の罪をば国津罪と告り分けて、天津金木を本打ち切り末打ち切り断ちて、千座の置座に置き足らはして、天津菅麻は本苅り断ち末苅り切り八針に取り刺して、種種の贖物等をば、案上案下に海山の如くに置き足らはして、天津祝詞太祝詞事を宣れ。かくの如く宣らば、天津神・国津神は朝廷を始めたてまつりて、天の下の四方の国には、罪と云ふ罪は在らずと、清浄に聞しめさむ。その解除の太諄辞を以掌て、天つ罪・国つ罪の事を大祓して除け。
また倭姫命は祓の法をお定めになりました。敷撒・畔放・溝埋・樋放・串刺・生剥・逆剥・屎戸など多くの罪を「天つ罪」、生秦断・死秦断・母を犯した罪・子を犯した罪・畜を犯した罪・白人・古久弥・川入・火焼の罪を「国つ罪」として区別されました。
神事に関わる事は全て倭姫命が制定したとしているのですね。
倭姫命に神事の起源が全て集約されて行ってる感じがしますね。何と言いますかスーパーヒロイン化しています。
三節の祭
倭姫命世記より引用
また年中の雑の神態、三節の祭を定め賜ふ。御贄の嶋に神主等罷りて、御贄漁りて、嶋の国の国前の潜女が取り奉
る玉貫の鮑、鵜倉・柄の嶋の神戸の進る堅魚等の御贄、国国処処に寄せ奉れる神戸の人民の奉る太神酒、御贄、荷前等を海山の如く置き足らはして、神主部・物忌等忌み慎みて、聖朝の大御寿を、手長の太寿と湯津の石村の如くに、常磐堅磐に、天津告刀の太告言事を以て称へ申す。終夜宴楽し、舞ひ詠ひ、歌音の巨く細く、大きく少さく、長く短く国保伎奉る 〈十二詠は別巻に在り。 年中行事記に具かなり。云々〉。
倭姫命は神宮の年中の様々な行事、三節の祭りを定められました。三節の祭りとは十月の神嘗祭、六月と十二月の月次祭の事を言います。また御贄の地で神主達が御贄を捕り、一方では志摩国の国崎の潜女が取り奉る玉貫の鮑、鵜倉(うくら)や慥柄(たしから)の神部が奉った鰹などの御贄、更に朝廷が神宮に寄進した神戸の人民の奉る神酒、御贄、穀類などを海や山のごとくいっぱいにお供えしました。神主部や物忌達が潔斎して身を清め、天皇の御寿命が長く、また清浄な岩郡の様に久遠に堅固にと…天つ祝詞、太祝詞を以て称え申し上げました。この日は夜が明けるまで宴を催して舞い踊り歌いました。その歌声は太く細く、大きく小さく、長く短くこの様に国を褒め称えました。
倭姫命と五百野皇女
倭姫命世記より
大足彦忍代別 天皇 二十年庚寅歳、倭姫命、「年既に老いて、仕ふること能はず。吾足りぬ」と宣ひて、斎内親王に仕へ奉るべき物部の八十氏の人々を定め給ひて、十二の司寮官等をば、五百野皇女久須姫命に移し奉りき。即ち春二月辛巳朔甲申、五百野皇女を遣し、御杖代として、多気宮を造り奉りて、斎き慎み侍らしめ給ひき。伊勢斎宮群行の始、是なり。ここに倭姫命、宇治の機殿の儀宮に坐し給へり。日の神を祀ること、倦むことなし。
景行天皇20年(90年)庚寅の年の事です。
倭姫命は「私はもう既に年老いてしまいました。天照大御神に満足にお仕えする事も難しくなりました。」と言われて後を継ぐ斎宮、それにお仕えする文武百官をお定めになり、十二の司寮官なども五百野皇女久須姫命にお移し申し上げました。
そして春二月辛巳朔甲申に多気宮を造営して御杖代として五百野皇女をそこに遣わして潔斎して天照大御神にお仕えさせました。
これが伊勢斎宮の最初の群行であるとしています。
ここで五百野皇女について紹介させて下さい。
五百野皇女(いおののひめみこ)別名・久須姫(くすひめ)
第12代・景行天皇の皇女であり、第3代・伊勢斎宮です。景行天皇20年(90年)に叔母である倭姫命の後を継いで天照大御神に仕える事になります。
母は磐衝別命の娘で、磐城別(いわひろわけ)の妹である水歯郎媛(みずはのいらつめ)。
日本武尊の姉に当たります。
五百野皇女の伝承墓です。
所在地は三重県津市美里町五百野。
皇女は、天照大御神に仕える斎王の任務を終えて都へ帰る途中に病に倒れてしまいます。その為に都へは帰れずこの地で亡くなり葬られたとされています。この事より、五百野の地名は皇女に由来すると言われています。
塚より北方に高宮神社が鎮座しています。ご祭神は五百野皇女。
皇女に随行していた高宮という者が御陵を祀る為にこの地に残ったのが起こりとされています。
地元では「姫宮さん」と言って親しまれている様です😌
一方倭姫命は宇治の機殿の礒宮に住まわれましたが天照大御神をお祀りする事を欠かす事はありませんでした。
現役を引退して後継に任務を委ねた後も変わらず天照大御神をお祀りする事を欠かさない倭姫命…。
時が経っても天照大御神と倭姫命の絆は変わらないって感じですね。
日本武尊
倭姫命世記より引用
二十八年 戊戌春二月、暴ぶる神多に起りて、東の国安からず。冬十月壬子朔癸丑、日本武尊 発路したまふ。戊午、道を枉げて伊勢神宮を拝みたまふ。よりて倭姫命に辞して曰はく、「今、天皇が命を被りて、東に征きて将に諸の叛く者を誅はむとす。 かれ、辞す」とのたまふ。ここに倭姫命、草薙劔を取りて、日本武尊に授けて宣はく、「慎みて、な怠りそ」とのたまふ。この歳、日本武尊初めて駿河に至り、野中に入りて野火の愁に遭ひたまふ。王の佩かせる劔薬雲自ら抽けて、王の傍の草を薙ぎ攘ふ。是に因りて、免るることを得たまへり。かれ、その剣をけて草薙と日ふ。日本武尊、既に東の虜を平けて、還りて尾張の国に至りたまふ。宮簀媛を納れて、淹く留りたまひて月を喩えぬ。劔を解きて宅に置き、徒に行でまして膽吹山に登り、毒に中りてりたまふ。その草薙劔は、今、尾張の国の熱田の社に在り。
倭姫命とその甥っ子・日本武尊のエピソードを紹介します!
景行天皇28年(98年)戊戌春2月、荒ぶる神々はあちらこちらで跋扈して東の国は穏やかではありませんでした。冬10月壬子朔癸丑に至り、その鎮圧に景行天皇の皇子・日本武尊が出発しました。戊午に日本武尊は寄り道をして伊勢神宮に立ち寄り、天照大御神を礼拝しました。
その時に倭姫命に「天皇のお言葉を受け、命に叛く者共を討伐する為に東に赴くところです。そのご挨拶に参りました。」と言われます。
そこで倭姫命は草薙の剣を日本武尊にお授けになり「心を引き締めて決して油断してはなりませんよ」と言われました。
可愛い甥っ子が賊を討伐しに東征するなんて本当は凄く心配だったでしょうね。無事で帰還する様に…また東征の帰りに元気な顔を見せて…そう思ったに違いありません。
この年日本武尊は初めて駿河に到着され賊の罠により野中に誘き寄せられ野の草に火を放たれて苦難に遭っていました。しかし倭姫命から授けられた天叢雲剣(草薙の剣)が自然と抜けて傍の草を薙ぎ払い、尊は難を逃れる事になりました。だからその剣を「草薙の剣」と言います。
それから尊は東国の賊達を平定し、尾張国に戻り宮簀媛を妃としばらくその家に留まり月を跨ぎました。
その後倭姫命から貰った草薙の剣を宮簀媛の元に置いて何も持たずに伊吹山に登り神の毒に当たってお亡くなりになりました。その草薙の剣は現在、尾張国の熱田神宮にお祀りされています。
止由気皇太神
倭姫命世記より引用
泊瀬朝倉宮大泊瀬稚武天皇即位二十一年丁巳冬十月、倭姫命の夢に教へ覚し給はく、「皇太神吾一所にのみ坐せば、御饌も安く聞し食さず。丹波の国の与佐の小見比治の魚井原に坐す道主の子の八乎止女の斎き奉る御饌津神止由居太神を、我が坐す国へと欲ふ」と誨へ覚し給ひき。その時、大若子命を使に差して、朝廷に参り上らしめて、御夢の状を申さしめ給ひき。即ち天皇勅して、「汝大若子、使として罷り往きて、布理奉れ」と宣らせたまひき。かれ、手置帆負・彦狭知二神の裔を率て、斎斧・斎銀等を以て、始めて山材を採り、宝殿を構へ立てて、明年 戊午>秋七月七日、大佐佐命をもて、丹波の国余佐郡真井原よりして、止由気皇太神を迎へ奉り、「度会の山田原の下津磐根に、大宮柱広敷き立て、高天原に千木高知りて、鎮まり定り座せ」と称辞竟へ奉り、響奉り、神賀吉詞白し賜へり。
泊瀬朝倉宮の大泊瀬稚武天皇(雄略天皇)即位21年(477年)丁巳冬10月、倭姫命の夢の中で天照大御神がこうお告げになりました。「私は一箇所にのみ居るから心安らかに食事をする事も出来ない。丹波国の与佐の小見比治の魚井原に住んでいる丹波道主命の娘八乙女が潔斎してお祀りしている豊受大神を、私の居る伊勢国に来てもらいたいと思う」と。
天照大御神、ずっと同じ所で1人でご飯を食べるのも寂しい。美味しい食事を作ってくれる女神をここに呼んでちょうだい!という事になりますね。可愛らしい命令にも思われますが、天照大御神の心苦しい心情も伝わってきますね。
それを聞いた天皇は「大若子よ、そなたが丹波に行き、豊受大神をお連れしなさい」と勅命を下されました。(大若子長生きー!)
そこで大若子命は手置帆負・彦狭知のニ柱の後裔を率いて神聖な斧や鋤などを用いて山の木材を切り採り殿舎を造営し、その明くる年の秋7月7日に大佐々命を使いとして豊受大神をお迎え申し上げました。
豊受大神が吉佐宮から伊勢の外宮に移られるまでに滞在された行宮跡の伝承も伝えられています。
外宮・豊受大神宮
倭姫命は「渡会の山田原の地底の磐根に届かんとばかりの大宮の柱を立て、高天原に届くばかりの千木を高く立て、この地に末永くお鎮まり下さいませ」と賛辞の言葉を奉り、御贄をお供えして祝詞を申し上げました。
伊勢市の中心部、高倉山を背にして静まる伊勢神宮の外宮・豊受大神宮。御祭神は豊受大御神です。内宮の天照大御神の御饌を司る神であり、衣食住・産業の守り神としても厚く信仰を集めています。
内宮の御鎮座から約500年経ってますね。天照大御神から見たら丹波の吉佐宮で豊受大神と共に祀られていた時期がありますから、懐かしい気持ちが込み上げ、再会を喜ばれたんじゃないでしょうか。
これ以来、外宮御垣内の東北に位置する御饌殿では朝と夕の二度、天照大御神を始め相殿神及び別宮の神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)が続けられています。
1人では心苦しくて食事も満足に出来ないから料理上手な神様を呼んで欲しいって、非常に珍しい説話だなあと思いますし、天照大御神が可哀想ながらもとても可愛らしいと思ってしまうのは私だけでしょうか。
ニ所皇太神宮
倭姫命世記より引用
また神宝を検へ納む。兵器をトへて神の幣と為す。更に神地・神戸を定めて、二所皇太神宮の朝の大御饌夕の大御饌を、日別に斎き敬ひ之を供へ進る。また天神の訓に随ひて、土師物忌を定め置き、宇仁の波を取りて、天平瓮八十枚を造りて、諸の宮を敬ひ祭る。また皇太神の第一の摂神荒魂の多賀宮をば、豊受大神宮に副へ従へ奉り給ふ者なり。また勅宣に依り、大佐佐命をもて、二所太神宮大神主の職を兼ね行ひ仕へ奉る。また丹波道主命の子、始めて物忌を奉り、御飯炊き満て之を供へ進る。御炊物忌是なり。また須佐乃乎命の御玉、道主貴社を定む。 粟御子神社に座すは是なり。また大若子命の社を定む。大間社是なり。宇多の大采奈命が祖父天 見通 命の社を定む。田辺氏神社是なり。惣てこの御宇に、摂社四十四前を崇め祭る。
また神宝を調べて調査して神宮に納めました。神に捧げる供物としての可否を占い、兵器を供物としました。更に神地・神戸を定めて二所皇大神宮の朝の大御贄・夕の大御贄毎日お供え申し上げました。また天の神の教えに従い土師物忌を定め置き、宇仁の埴土を取って天平瓮八十枚を作って諸々の宮を敬いお祀りしました。
また天照大御神を補佐する第一の神・豊受大神の荒魂をお祀りする多賀宮を豊受大神宮に添え従えてお祀りしました。
また宣託により、大佐々命を二所大神宮の職に任命し、命は二宮を兼ねてお仕え申し上げました。
また、丹波道主命の子を初めて物忌として仕え、御飯を炊いて二宮に共に奉りました。御炊物忌といいます。
また須佐之男命の御魂を祀る道主社を定めました。粟御子神社に祀られているのがこの神になります。
また、大若子命に社を定めました。大間社といい、その伝承地が三重県伊勢市にある大間国生神社です。
御祭神は大若子命・乙若子命です。皇大神宮の御鎮座に貢献された2人ですね!
また宇陀の大袮奈命の祖父である天見通命を祀る社を定めました。田辺氏神社といい、その伝承地が三重県度会郡玉城町に鎮座する田乃家神社です。
全てこの御世に摂社四十四社を定めて崇め奉りました。
外宮先祭
倭姫命世記より引用
ここに皇太神、重ねて託げて宣はく、「吾が祭仕へ奉る時は、先づ止由気太神宮を祭り奉るべし。然る後に我が宮の祭事をば勤め仕ぶべきなり」とのたまふ。かれ、則ち祭事はこの宮をもて先と為す。また皇太神、託げて宣はく、「それ、宮を造る制は、柱は則ち高く太く、板は則ち広く厚かれ。是、皇天の昌へ運ち、国家の洪く啓くることは、宜しく神の器の大きに造るを助くべきなり」とのたまふ。即ち皇天の厳しき命を承けて、日の小宮の宝基を移して、伊勢の両宮を造りたてまつる。
天照大御神は次の様に神託を下されました。「私の祭司に仕え奉る際にはまず先に豊受大神宮(外宮)をお祀り申し上げなさい。その後に私の宮(内宮)の祭り事を行う様にしなさい」とお告げになりました。この事から祭事は外宮を以て先に行います。
伊勢神宮に参拝する時にまず外宮から参拝するって言われますが、その所以が説明されていますね。
更に天照大御神は「宮を造るにあたっての決まりは柱は高く太く、板は広く厚くしなさい。それが皇室が安らかに栄え、国家が広く発展していくのである。その為にも神殿は大きく造営する事が望まれる」と仰せになりました。
天照大御神の御神託通り、高天原にある日の若宮の神殿をお移しになり、伊勢の内宮外宮の両宮を造営しました。
倭姫命薨去
倭姫命世記より引用
天皇即位二十三年 己 未 二月、倭姫命、宮人及び物部の八十氏等を召し集へて宣はく、「神主部・物忌等 諸聞け。吾、久代、太神託げ宣ひましましき。 「心神は則ち天地の本基、身鉢は則ち五行の化生なり。 肆に元を元として元の初に入り、本を本として本の心に任せよ。神は垂るるに祈禱を以て先と為す。 冥は加ふるに正直を以て本と為せり。それ、天を尊び地に事へ、神を崇め祖を敬へば、則ち宗廟絶えず、天業を経綸む。また仏法の息を屏して、神祇を再拝し奉れ。日月は四洲を廻り、六合を照らすと雖も、須く正直の頂を照らすべし」と詔命したまふこと明けし。巳、如在の礼を専にし、朝廷を祈り奉らば、天が下泰平にして、四民安全ならむ」と布べ告げ乾りて、自ら尾上山
の峯に退きて石隠れ坐しき。
雄略天皇23年(479年)己未2月、倭姫命は二所皇大神宮の宮人及び物部の八十氏の者達を集めて次の様に言われました。
「神主部・物忌のもの達よ。よくお聞きなさい。
その昔天照大御神が私の夢に現れて次の様に仰せになりました。『精神は天地(あめつち)の基本であり、身体は即ち五行が姿を変えたものです。しかるに元を元としてその根本に立ち返り、本を本として本の心のままに任せなさい。神様は誠心誠意を尽くして祈る人にまず恵みを与えられます。正しく素直な心こそ、神様のご加護の根本です。そもそも天を尊び地に仕え、神様を崇め御先祖様を敬う時、宗廟は絶える事無く、天つ日継も整い、国も治る事でしょう。また、仏法の勢いを遠ざけ、神祇を丁重に礼拝申し上げなさい。太陽と月は国中を巡り国内を照らしてくれるけれども、何よりも先に照らさなければならないのは正直な心の持ち主でなければなりません。』この様にお告げになりました。それは明白な事です。あなた達が目に見えない神様を目の前に神様がいらっしゃる様にひたすらこれを礼拝し朝廷の長久安泰をお祈り申し上げるならば、天下も自ずと平和になり国内の人民達もまた安らかになるでしょう。」
倭姫命はこの様にお告げが終わると自ら尾上山の峰に退かれ、岩屋にお隠れになりました。
三重県伊勢市楠部町に鎮座する倭姫命をお祀りする神社です。大正12(1923年)年に創建された新しいお宮なんです。皇大神宮創建に1番貢献した人物ですものね。
三重県伊勢市倭町にある宮内庁の宇治山田陵墓参考地です。倭姫命の伝承墓とされています。
天照大御神の鎮座地に相応しい場所を求めて旅を続けてきた倭姫命。伊勢に着いた後も斎王としてこの地で使命を全うしてきました。
垂仁天皇の時代からどれ程の年月が過ぎた事でしょう…。非常に長生きされたのですね。倭姫命の神がかりめいた半生を象徴しているかの様ですね。
そして最後に人々に言葉を残して自ら岩屋にお隠れになったとあります。もう十分自分は役目を果たした…後の事は次世代の者に任せようと思われたんですかね。
当然ですがもうこの時代には倭姫命の親族も亡くなられてますよね。故郷の大和国、そして今まで各地で出会って来た人達、神宮を創建するのに協力してくれた人達…どの位親しい人の死を見送って来たのでしょう。
そんな様々な思いを胸に去っていったのではないでしょうか。
最後の斎宮
崇神天皇5年(BC93年)に、皇女の豊鋤入姫命が倭の笠縫邑に天照大御神そのものである御鏡と草薙の剣を宮中からお遷しになった事から全てが始まりました。その御杖代の役目が倭姫命に引き継がれ、伊勢に皇大神宮が建てられ、皇女達が天照大御神の祭祀を執り行って来ました。
この時にまだその名称は無かったとは言え、豊鋤入姫命は正に最初の斎宮と言っても良いのではないでしょうか。しかし、その斎宮の制度も終わりを迎える日が来ます。その最後の斎宮・祥子内親王(さちこないしんのう)について触れさせて下さい。
祥子内親王は後醍醐天皇の第二皇女。母は側室の阿野廉子。
伊勢の斎宮に選ばれましたが、建武の新政が崩壊した影響で伊勢神宮へ群行する事無く建武元年(1334年)に野々宮より退下しました。
時代は南北朝へと移りますが、その後斎宮が選ばれる事はありませんでした。
こちらは三重県いなべ市大安町にある祥子内親王の伝承墓の比丘尼塚です。
最後の斎宮となられた内親王が伊勢への群行がかなわなかったので、せめて伊勢国へ行かれて南金井の北山畑に庵を建て比丘尼となられ周徳上人として過ごされたそうです。病気で亡くなられた後に懇ろに葬られたと言い伝えられています。近年、内親王のお墓だと言う事で小さな祠を建て、案内板や参道が整備されました。4月には慰霊祭も行われるそうです。
崇神天皇の時代に疫病が萬栄し、世の中が乱れ、それを治める為に始まったとも言える皇女達による天照大御神の祭祀。それが長い年月を経て、世の乱れのせいで叶わなくなる日が来るなんてなんとも寂しい気持ちになりますね。
伊勢への郡行がかなわなかったからせめて伊勢の国で尼になって過ごそう…日々どのような気持ちで務められたのでしょうか。
竹神社
多気郡明和町斎宮に鎮座する竹神社を最後に紹介しておきますね。多気郡明和町斎宮の斎宮跡地に行った時に見つけたんです。
明治44年(1911年)、旧斎宮村にあった25社の神社を合祀して誕生した神社だそうです。元は竹川の古里にあった社が、明治時代に野々宮が祀られていた現在の場所に移動して来たらしいです。
近年行われた発掘調査により、神社の周辺からは平安時代の大規模な堀列や掘立柱建物の跡が確認され、今の伊勢神宮の御垣の様にこの場所を囲んでいた事が分かったそうです。斎宮の御殿があったのではないかと言われています。また、発掘調査ではひらがなが書かれた土器も見つかり斎宮に仕えた女官が書かれたものだと考えられています。
そんな神聖な場所に立つ神社って考えるとロマンチックですよね。
御祭神は長白羽神、天照大御神、須佐之男命、応神天皇、八柱神など沢山の神様が祀られています。
天照大御神と倭姫命
崇神天皇の時代に豊鍬入姫命に託された御杖代の使命。倭姫命にバトンタッチされてから様々な所に赴いて天照大御神の鎮座地を探し求めました。
伊勢に到着してからも様々な取り決めをしたり天照大御神の神衣や御饌の調達の為に奔走したり…。
本当に色んな事がありましたね。楽しい事びっくりする事大変な事…その全てが倭姫命そしてアマテラスちゃん(親しみを込めてこう呼びます。今更ですが)にとってもかけがえの無い思い出になったんじゃないかな~と思います。
古代の伝承って考察が付きものですよね。これはこう書いてあるけど本来はこう!だからこう書いてあるのは違う…みたいに。分かりますよ、特に古代に近づけば近づく程神かがりめいた逸話が多くなりますし、書いてある事そのまんま過去に起こりましたとは私も言いませんよ。
しかもこの記事の参考に使っている倭姫命世記は、何度もお伝えしている事ですが中世に成立した伊勢神道の経典です。歴史書ではないんです。
しかし、古事記にも日本書紀にも豊鍬入姫命と倭姫命が伊勢の大神宮を斎き祀った事が記載してあります。
その記紀の記述を補完する役割が倭姫命世記にはあると考えても差し支えないんじゃないかな…と思うんです。
経典という事はまずは布教が目的ですよね。みんなに信じてもらう為にゼロから伝承を作るのって無いと思うんですよ。きっと何かしらの元になった出来事があったのでは…そう言う事を前提に考えて古代・中世で共有された元伊勢の物語の舞台を巡ってみたら、とっても楽しいと思うんです!
アマテラスちゃんと倭姫命があーだこうだ言いながらわちゃわちゃ各地を旅したんじゃないかって想像してもバチは当たらないでしょう!
元伊勢記事はこれで最終となります。太陽の女神様と皇女様の旅はこれで終わりですが、記事に出て来た神様や人物はゆかりの地に行ったらいつでも会う事が出来ます。
ぜひ機会ありましたら元伊勢ゆかりの地へ訪れてみて下さいね!
ここまで読んで下さってありがとうございました!
伊勢うどんも赤福餅も美味しい!
伊勢まで来たらぜひおはらい町・おかげ横丁にも寄ってみて下さいね!
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