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ゆかりの地巡り
投稿日:2022/08/12 最終編集日:2022/08/10
こんにちは!『古事記FUN!!』ライターのY.Yです。今回は京都府福知山市にある“元伊勢”をご紹介します!
元伊勢とは
皇祖神である天照大御神は、今日では伊勢の神宮(皇大神宮)にてお祀りされています。同神がこの地に祀られはじめたのは第11代 垂仁天皇の御代になってから(約2000年前)と言われています。
それまではどこに祀られていたのでしょうか?
初代 神武天皇から第9代 開化天皇の御代までは皇居に祀られおり、比較的穏やかな(何事もない)時代が続きました。この状態を同床共殿といいます。
しかし、第10代 崇神天皇の御代になると、疫病の大流行や百姓の流離・背叛など、国内の情勢は悪化の一途をたどります。
疫病自体は三輪山の大物主神をしっかりと祀り直すことで収束したものの、神様と人間が寝食を共にすることは畏れ多く、情勢の悪化を招くのではないかと崇神天皇は考えるようになりました。また、夢枕に立った天照大御神から「別に大宮地を求めて鎮め祀れ」という御神託があったともいいます。
このような経緯から、天照大御神(と同じく皇居で祀られていた倭大国魂神)は皇居の外に祀られることになりました。
崇神天皇は、天照大御神を祀るのに相応しい場所を探すよう 皇女 豊鍬入姫命に命じます。これを受け、豊鍬入姫命は大御神の神霊(鏡)を携えて皇居を発ち、諸国を行脚します。一世一代の“お引越し”の始まりです。
しかし、稀代のワガママ最高神(失礼) 天照大御神のお眼鏡にかなう場所はそんなに簡単には見つかりません。結局、豊鍬入姫命の代では“新居”を決めることはできず、御杖代の役割は倭姫命に引き継がれました。最終的に数十年にわたる長すぎる旅の後、天照大御神は伊勢の地に鎮まることになります。
この旅で天照大御神(鏡)が豊鍬入姫命や倭姫命と巡った地のことを“元伊勢”と呼びます。天照大御神の思い出の地というわけです。
元伊勢を称する神社は何処も魅力的で美しく、どこか懐かしさを感じる場所が多い気がします。
今回はそんな元伊勢の中から、京都府にある皇大神社と日室ヶ嶽、天岩戸神社をご紹介します!
※京都府福知山市の元伊勢は皇大神社(元伊勢内宮)と天岩戸神社、豊受大神社(元伊勢外宮)からなります。本記事では皇大神社と天岩戸神社を紹介し、豊受大神社は別の機会に紹介したいと思います(写真をたくさん載せたいので)。
皇大神社
まずは皇大神社(元伊勢内宮)をご紹介します。
場所は京都府福知山市。
神社の周りには風光明媚な田園風景が広がっています。最寄りの駅(大江山口内宮駅)からは徒歩で15分ほど。近くには駐車場もあります。
駐車場から少し北西に進み、石段を数段のぼると「元伊勢内宮 皇大神社」と書かれた門柱(社号碑)が現れます。どんな光景が待っているのかワクワクします。
さらに石段をのぼると、木々の間から一の鳥居が現れました。石造りの鳥居です。
鳥居をくぐると巨木が左右に並ぶ参道。合計で220段とも言われる石段はまだまだ続きます。
石段をのぼっていくと、御神木が見えてきました。
参道の真ん中に聳え立つこの巨木は麻呂子杉と呼ばれています。厩戸皇子の弟 当麻皇子(麻呂子親王)が、この一帯を根城にしていた三鬼(英呉、軽足、土熊)を退治した時に手植えしたものと伝えられています。もとは三本あったようですが二本は落雷などで枯れ、一本を残すのみとなっています。
ちなみに福知山の地は、平安時代中期に都を脅かした酒呑童子(酒好きの鬼・一説には八岐大蛇の血筋)が棲んだ場所としても有名で、鬼退治の伝承が多く残っています!興味のある方はぜひ調べてみてください。
参道のわきには、清らかな水が湧き出る「真名井の池」がありました。
元伊勢の厄神さんこと御門神社もありました。奇岩窓神と豊岩窓神を祀っており、そばにはカネのなる石と古墳と思しき小さな石窟があります。
さらに石段をのぼると手水舎につきました。
さらにさらにのぼり続けると、ようやく二の鳥居が見えてきました!!
この二の鳥居は黒木鳥居。樹皮がついたままの杉で組み立てた最も原始的な形式の鳥居です! 黒木鳥居は全国的にも珍しく、ここ以外では京都の野宮神社が有名です。私が訪れた時は建て替える前で苔むしていました。
御由緒書です。
元伊勢内宮皇大神社
(御祭神)
天照皇大神
(御由緒)
人皇㐧十代崇神天皇三十九年(紀元前五十九年)に「別に大宮地を求めて鎮め奉れ」との皇大神の御教えに従い、永遠にお祀りする聖地を求め、皇女豊鍬入姫命、御杖代となり給い、それまで奉斎されていた倭の笠縫邑を出御されたのが、いま(平成二年)を去る二千四十九年のはるかな昔であった。そして、まず最初にはるばると丹波(のちに分国、当地方は丹後となる)へ御遷幸になり、その由緒により当社が創建されたと伝えられている。皇大神は四年の後倭へおかえりになり、諸所(二十余か所を)を経て、五十四年後の人皇㐧十一代垂仁天皇二十六年に、伊勢の五十鈴川上(今の伊勢神宮)に永遠に御鎮座になった。
しかし、天照皇大神のご神徳を仰ぎ慕う崇敬者は、引き続いて当社を伊勢神宮の元宮として「元伊勢内宮(ないく)さん」と呼び親しみ、今に至るも庶民の篤い信仰が続いている。
(例祭日)
四月二十六日
(恒例祭事)
元旦祭 一月一日
節分祭 二月三日
立春祭 二月四日
八朔祭 九月 最初日曜日
鎌倉時代に記された神道五部書の一つ『倭姫命世紀』によると、皇居を後にした豊鍬入姫命は天照大御神を大和国の笠縫邑に33年間祀っています。その後、丹波国の吉佐宮をはじめ、大和国、紀之国、吉備国…と天照大御神を祀るのに最適な場所を探して各地を転々としたといいます。ここに出てくる吉佐宮の比定地の一つがこの皇大神社です! 御由緒書にあるように、地元の方は皇大神社のことを親しみを込めて「元伊勢内宮(ないく)さん」と呼ぶそうです。
拝殿と本殿を見てみましょう!
本殿は茅葺の神明造。(女神である天照大御神を祀るためか)鰹木は10本(偶数)、千木は内削ぎとなっています!
拝殿の右側(左殿)には天岩戸神話で活躍した神様 天手力雄命が祀られています。
左側(右殿)には高御産巣日神の娘にして瓊瓊杵尊の母神でもある栲機千々姫命が祀られていました。
栲機千々姫社の後ろには龍灯の杉と呼ばれるとても立派な御神木があります。樹齢二千年程といわれる老木です。節分の深夜、龍が灯を天照大御神に捧げるという伝説があるようです。灯は下の枝から上の枝へと昇り天に至るとのこと。
天手力雄神社の手前には天照大御神と須佐之男命の誓約により生まれた宗像三女神を祀る三女神社もありました。小さな池の中にあります。
栲機千々姫社から後ろを振り返ると、熊野神社もありました。
その他にも、境内には拝殿・本殿を取り囲むように80社ほどの末社が建っており、御若叡の森の御庭もあります。あまりの末社の数に圧倒されます!!愛宕神社や春日神社、八坂神社に大神神社などなど…全国のほとんどの神様が一堂に会しているといっても過言ではありません。
本記事ですべての末社を紹介することはできませんが…訪れた際には是非、自分の推し神様を見つけてみてください!!
三女神社の横を通り、須崎神社と春日神社の間を抜けると磐長姫命社があります。
さらに奥には天龍八岐龍神社があります。磐長姫命社と天龍八岐龍神社の二社は元伊勢内宮とは管轄が異なりますのでご注意ください。
平安時代中期の歌人 和泉式部の歌碑もありました! 和泉式部は藤原道長の家司である藤原保昌と再婚した後、丹後の国に下っており、この地は和泉式部ゆかりの地でもあります。
ちなみに、和泉式部の娘 小式部内侍は母親と同様 女流歌人として名を馳せていますが、当初 彼女の歌は母親が代作しているという噂が流れていました。
ある時、歌合に招かれた小式部内侍は藤原定頼から「お母様のいる丹後の国に出した(代作のための)使いは帰ってきましたか?」というふうにからかわれます(最悪です)。
これに対し、小式部内侍は
大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天橋立
という句を即興で読んで、藤原定頼をやり込めてしまいます。「丹後への道(“行く野”と“福知山の生野(地名)”と“いくつもの野“が掛かっている)は遠く、まだ踏んだこともなければ、母からの手紙(ふみ)も見ていません」といった意味です。百人一首にも収録されている名句です。こんな句を即興で読まれたら藤原定頼でなくとも「こはいかに!」と言ってしまいそうです。この一件で、小式部内侍は代作疑惑を払拭し、女流歌人としての地位を確立することになります。(余談ではありますが)丹後は、こういった歌の舞台にもなっています。
歌碑の後ろにある塚はへそ塚です! 健康長寿を祈り、昔はへその緒をおさめていたそうです。
先程の黒木鳥居をもう一度くぐり、神楽殿を見てみます。数多くの奉納品や神社関連の資料が展示されていました。
中でもとりわけ目を引くのが、巨大な天照大御神の絵! 明治四拾五年と書かれていました。
昭和初期には元伊勢小唄という歌も作られていたようで、当時は広く地元の人々に親しまれていたようです。歌詞は十番まであるようです(長い!!)。平成になってからも暫くは奉納されていたようです。
神楽殿には「日出の奇麻知(くしまち)」の説明もありました。「古代の神秘 有難い奇跡の発見」「冬至の日に太陽の登る方向に見事に並ぶ神秘なる神の宮処」と書かれています。とても面白いですね。古代人の太陽信仰について、色々と妄想が膨らみます!
日室ヶ嶽
次に目指すのは、日室ヶ嶽の遙拝所です。
黒木鳥居を右に見ながら少し歩くと看板がありました。日室ヶ嶽の遙拝所は天岩戸神社に行く途中にあるため、この矢印に従い皇大神社の左にまわる道を進みます。
しばらく歩くと…見えてきました!!
日室ヶ嶽の遙拝所です!! あまりにも美しく神秘的な光景に思わず息を呑みました。
ピラミッド型の秀麗な山容を誇る日室ヶ嶽(岩戸山)は神体山として古来から崇敬を集めてきました。もともと皇大神社は日室ヶ嶽の山頂にあったとも言われています。山頂付近には古代の祭祀場(磐座)があるそうです! 山の東側の斜面は禁足地となっており、手つかずの自然が残っています。
日室ヶ嶽遙拝所には「一願成就」の信仰も伝えられており、地元では一願さんと呼ばれています。
あまりの美しさに何度も振り返ってしまいます。私が倭姫命ならここが「二見」と名付けられていたかもしれません(?)。
天岩戸神社の看板を見つけました!
名残り惜しいですが次の目的地へ向かうことにしました。
天岩戸神社
ここからは下り道になります!
宮川の流れる音と蝉の声を聞きながらしばらく歩くと、舗装された道に突き当りました。この舗装路は皇大神社の手前から続いており、ここまでは(頑張れば)車でも来れると思います。
突き当りには龍燈明神と書かれた祠がありました。由緒は不明ですが龍灯の杉と同じ龍神信仰に基づくものだと思われます。
右に曲がると階段がありました。
階段を降りていくと社務所と鳥居がありました!
さらに階段を降り、川沿いの細い参道を歩きます。景色がさらに仙郷めいてきました。
この川は宮川と同じ川ですが、天岩戸神社周辺は五十鈴川とも呼ばれているようです。
この五十鈴川には御座石(社殿裏の磐座)をはじめ、巨石が点在し、産釜や産盥もあります。水量が多く社殿の裏までは回り込めませんでしたが、巨石と流水が作り出す光景はとても迫力がありました。
こちらが社殿です。巨大な岩の上に建っています。こぢんまりとしていますが、見事な懸造りです!!
目の前には鎖場。参拝するためには、鎖を使って岩をよじ登る必要があります。雨の降った後は特に滑りやすいので注意が必要です。
御祭神は櫛御毛奴命(須佐之男命と同一神説あり)、あるいは櫛岩窓戸命と豊岩窓戸命の二柱(門を守る岩石の神)と言われています。
鎖場の参拝が難しい方のために遙拝所も用意されていました。
岩戸神話の神々に想いを馳せつつ、天岩戸神社を後にしました。
アクセス
最後に
最後までお読みいただきありがとうございます。今回は元伊勢にスポットをあて、古事記ゆかりの地として、皇大神社と天岩戸神社、神体山の日室ヶ嶽を紹介させていただきました。いかがでしたでしょうか? 元伊勢に少しでも興味を持っていただければ幸いです。
京都を訪れた際は、この“アマテラスの思い出の地”にも是非足をのばしてみてください。行くまでのハードルは少し高めですが、それを上回る感動が皆さんを待っています!
参考文献・URL
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