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日本の宗教戦争「仏教 VS 神道」=「蘇我氏 VS 物部氏」??

投稿日:2022/05/31 最終編集日:2022/06/01

この記事は2015年に書いたものです。当時、後藤健二さんのニュースを受けて、書き殴った記事なので、お見苦しいところもあると思います。

今読み返すと、そもそも大臣と大連のことが分かっていないので、「いやいや…」と思うような恥ずかしい箇所もあったのですが、ほとんどそのままにしました。(正直、今もカバネ苦手。)

当時、いてもたってもいられず書いた記事なので、中途半端な始まり方になっています。

乙巳の変の後、蘇我蝦夷さんが書庫を焼いて自殺しちゃったんだよー。

ってな話を軽くした後の続きです。

ちっこい子は安万侶です。

心の広い方だけ、「頭悪いなりに伝えたいことがあったんだなぁ〜」と、寛大な気持ちで読んでいただけたら幸いです。

天武の特別授業

蘇我氏について

蘇我氏ってのは聖徳太子の時代らから、オレの親父やお袋が天皇やってた時代の約100年間、巨大な勢力を持っていた一族だ。

有名なのは、蘇我馬子蘇我蝦夷、そんで兄貴に殺された、蘇我入鹿の3人だな。

まぁ、振り返ってみれば目立ったのはこの3代だけの、短い繁栄だったけど。それでも当時は「天皇を超えたんじゃないか」って言われるくらい、すんごい勢いだったんだ。

そんな蘇我氏が絶大な権力を握ることができたのには、実は仏教の伝来と深い関係がある。

仏教の伝来

日本に仏教が入ってきたのは552年、もしくは538年という説が有力だ。いずれにせよ、6世紀頃だな。

今からだいたい、150年前。欽明天皇の時代だ。

もともと日本には八百万の神々がいて、それぞれの神様を崇めてたから、みんな、海外の神様を見るのははじめてだった。

そりゃービックリしたと思うぜ??

だって、日本の神様は、鏡とか、剣とか、勾玉とか、岩とか、山とか、なんかに宿っている目に見えない漠然としたものだったのに、その時に伝えられた仏像ときたら、キラキラの金ピカだったんだ!!!

だから、みんな、「うおぉ〜!!!なんじゃこりゃ、かっけぇぇ〜!!!!」ってなったはずだ。

とは言っても、『昔ながらの神様をないがしろにするのは怖い。』って考えもあって、欽明天皇も仏教を導入するか否か判断ができず、蘇我馬子の父親にあたる、蘇我稲目に任せたっきりで、全国的には広まらなかった。

でも、今はお寺とか、仏像がいっぱいあるだろ??

こんなに一気に広まったのは、今からだいたい100年前。仏教が日本に伝わって50年も経ってからなんだ。

蘇我氏と仏教

蘇我稲目が欽明天皇に仏像を授かり、お試し礼拝をしていくうちに蘇我氏は熱心な仏教信者になった。

仏教が入ってくる前は日本の神様しかいなかったから、朝廷内には神代からずっと仕えてる奴らが多くて、家系で役職が決まったり、昇進したりすることもザラにあったんだ。

ちなみに、蘇我氏の氏祖は武内宿禰(たけしうちのすくね)だ。300歳くらいまで生きたって言われてる伝説のおじいちゃんね。

武内宿禰は、孝元天皇の孫(記。紀では曽孫)だから天皇の血は継いでいるものの、やっぱり、分家の分家。それなりに劣等感はあったと思う。

そこに出てきた「仏教」の神様は「海外の神様」だから、朝廷内の誰とも血縁関係が無い、みんなにとって平等な神様だったんだな。

蘇我氏と物部氏

こうして蘇我氏は仏教を広めるためにいろいろ行動をはじめるんだけど、すると物部氏とのミゾが深くなっていった。物部氏も聞いたことがあるだろ??蘇我氏と犬猿の仲って言われてるあの物部氏な。

蘇我氏と物部氏は当時の2大勢力で、ライバル同士。ま、もともと仲悪かったんだけど、仏教のせいで、さらに悪くなった。

と言うのも、物部氏はニギハヤヒの末裔だったんだ。ニギハヤヒってのは、神武が東征した時、大和を治めていた重要な天つ神な。神代からの直系で、大切にされてきた血筋だったんだから、蘇我氏としては余計に気に食わなかっただろう。

稲目さんから代が変わり、蘇我氏の代表だった馬子さんは「ニギハヤヒの血さえなければ自分たちの方が優っているのに。」って想いがあったと思うんだよなー。

追記:この時代、蘇我氏は大臣、物部氏は大連でした。
大臣→元皇族や各地域の支配者だった氏族の代表
大連→特定の能力をもって朝廷に仕えた氏族の代表(物部は軍事)
なので、大臣の方が血筋、大連の方が実力主義的な感じで、微妙な説明かな?と思いつつ。連の方が神代から仕えている氏族が多くて忠臣なイメージあるので、なくはない気はする。
あと、これはただの個人的な希望なんですけど、臣は縛り、連は誇りだと、とてもエモい。

仏教と神道の戦い

こうして、「蘇我氏 VS 物部氏」=「仏教 VS 神道」みたいな公式が成り立っちゃったわけだ。

そんで、この2者間の対立が激化したのが、今から約100年前。用明天皇が亡くなった時。聖徳太子の親父さんな。

用明天皇の後に、誰を天皇にするかって話で、「蘇我氏」は仏教推しの「崇峻」を、「物部氏」は神道推しの「穴穂部」を立てて戦った。ちなみに、不比等のご先祖様の「中臣氏」も、アメノコヤネの直系だからな。神道推しの物部氏側についていた。

これがもぅ、ドロッドロの戦いだったわけよ。

「仏像を壊したりするから祟りで呪われたんだー!!」とか、「仏教なんか信じるから八百万の神々が怒って役病が流行ったんだー!!」とか、なんの根拠も無いことでお互いに罵りあってさ。たくさんの血が流れた。

まぁ、いろいろあったんだけど、最終的には、仏教推しの蘇我馬子が勝利して、そこから蘇我氏&仏教の繁栄が始まることになる。それに、聖徳太子も仏教推しだったからな。彼の活躍もあって、さらに広く仏教の教えが伝わったんだ。

蘇我氏の繁栄

こうして、蘇我氏は仏教の広まりと比例するように勢力を拡大し、この戦争に負けた物部氏は滅ぼされた。中臣氏も負けた側だったから、鎌足さんは若い頃ずいぶんと苦労したらしい。

あ、不比等の親父さんね。

さらに、聖徳太子と推古天皇が死んだ後なんかは、蘇我氏の天下と言ってもよかった。このころ、蘇我馬子さんはさすがに亡くなってたから、息子の蝦夷さんが大臣だった。

ちょうど、オレの親父、舒明天皇の時代だ。

で、これがさぁー、うちの親父、けっこーな平和主義者でさ。。。蝦夷さんに即位させられたところもあったもんだから、気まずかったのか、居場所がなかったのか、暇さえあればすぐに温泉に行っちゃうような人だったのよ。

蝦夷さんの横行も「なんか、蝦夷さん怖いし、あんまり関わらない方がいいんでない??穏便に穏便に〜」みたいなテンションでさ。まぁ、そんなおおらかな人柄もあってか、外交は割とうまくやってたけどな。

でも、そーやって、蘇我氏を放って置いてるうちに、行動がどんどんエスカレートしていっちゃって。

さらに親父が死んでお袋が天皇やってたころには、蝦夷さんが勝手に息子の入鹿さんを大臣にしちやわうわ・・・しかも、入鹿さんは入鹿さんで聖徳太子の子供を殺しちゃうわで、そりゃもぉー、半端ない横行っぷりだったんだ。

乙巳の変

兄貴は、それが許せなかったんだよな。ユルイ親父を見て育ったのもあって、なんか、こー、いろんなフラストレーションが溜まってたんだろう。ガキの頃からいつもピリピリしててさ。「俺は親父みたいにはならねぇ!」とか、反抗期の男子にありがちなセリフ言っちゃって。

あ、ちなみに兄貴ってあれね。中大兄皇子。天智天皇。

そんで、お袋が後を継いで数年経った頃・・・蝦夷さんと入鹿さんが皇居を見下ろせる場所にすんごい豪邸を建てたんだ。

丘

いやぁー、今でも覚えてるよ。『最先端の技術は全て詰め込みました!』みたいなカッコイイ豪邸でさ。なんっつーのかなー。嫌ぁーな圧力というか、緊迫感ってか、危機感っていうか・・・。

さらに、自分たちが入るための天皇みたいな御陵を作りだしたり、自分の子供を王子(みこ)って呼びだしたり・・・ガキながらに「あー、これは本格的にやばいやつだな・・・」って思ったよ。今から40年くらい前か。兄貴がハタチ手前で、オレが思春期真っ只中の頃で・・・

・・・え!?あれ、40年前!?うわ、やば。そりゃ俺も老けるわけだ。

いや、まぁ、それはともかく。。これで朝廷には波紋が広がったわけ。「天皇を見下ろすようなところに豪邸建てるなんて、神にでもなったつもりかー??」ってな。

そんでブチギレた兄貴が、鎌足さんと一緒にクーデターを起こして入鹿さんを切ったんだ。それに、鎌足さんには「敵討ち」って想いもあっただろうな。中臣氏は物部氏と共に戦って、蘇我氏に負けてたから。

それが、「乙巳の変」。 学校で習っただろ?

まぁ、乙巳の変の詳細は、教科書にも書いてあるからここでは省略な。

ちょっとググれば、兄貴と鎌足さんのロマンチックな出会いから詳細にいくらでも出てくるよ。フッ! ロマンチックな出会いか・・・ウケるな。

蘇我氏の滅亡

さて。これによって、入鹿さんを殺された父親の蝦夷さんは激怒して、書庫に火をつけ、その中で自害した。

こうして、蘇我氏の繁栄は100年くらいで幕を閉じたわけだ。

この焼かれた書庫には、聖徳太子と蘇我馬子が編纂した「天皇記」と「国記」が保管されていた。ここには、神代から続く日本の歴史が書かれてあってな。

史書の一部は、その火の中に飛び込んでくれた勇者が持ち出して、残ったんだけど、かなりの量が焼けちゃったんだ。おかげさまで、今になって慌てて「古事記」と「日本書紀」を編纂してるってわけ。

・・・・・なんとも言えない最期だよなぁ・・。

そんな蝦夷さんの死に様を見ちゃったもんだからさ。あの人は心底、日本の歴史を嫌ってたんだろうなぁー。とか、日本の神々とか、ご先祖さまのことをどう思ってたんだろうな・・・とか。余計なこと考えちゃって、やるせないっつーか。切ないっつーか。

まー、そんだけ仏教への信仰心が高かったのかもしれないけど。

神様と信仰心

でもさ、オレとしては、蝦夷さんの仏教への信仰心をどうも信じられないところがあるわけよ。

だって、蝦夷さんと入鹿さんは「自分が」天皇を見下ろす場所に屋敷を建てただろ??あの頃、誰も蘇我氏には口答えできなかったから、天皇以上の神にでもなった気分だったんだろう。

でもさ、どう足掻いたって、オレらは地に足ついた人間なわけよ。

「神様の言葉」ってのは「人間」がモノを言うよりも遥かに力があるからさ。海外のすごい神様の言葉だったら余計に求心力がある。

蘇我氏はその海外の神様の力をうまく利用して自分達がのし上がってきた。結局のところ、蘇我氏は自分の地位を築くために仏教を利用したんじゃないの?ってこと。

もしもあれが、自分の豪邸じゃなくて、寺院だったら結末は変わっていたかもしれない。でも、蘇我氏が最終的に求めたものは、信仰心じゃなくて、自尊心だった。仏教は無欲を善としてるっていうのにさ。

長くなっちゃってすみませんでした。。。

私の能力的に伝えたい事がちゃんと伝えられたかわかんないけれど!!!

あと、蘇我さん、悪役にしちゃってごめんなさい!!!日本書紀の通りではないのでは?という説も好き。

日本に住んでると全然わからないけど、世界ではいまだに、神様のために、たくさんの人が亡くなっているんですよね。

とっても幸せなことに、日本ではこの時の仏教と神道の戦い以来、キリスト教が入ってきた時くらいしか、「宗教戦争」と呼べるような大きな戦いは起こってません。(戦国時代のお坊さんの政治権力争いはなんか違うので省いてます)その有名なキリスト教弾圧ですら世界と比べたらずっと小さくて短かいものでした。

現代の日本人は、生まれたら神社で祝って、結婚したらキリストさんに誓って、死ねば寺に埋まります。

そんな日本人を世界の人は「信仰心が無い」って言ってバカにするんだけど、私にとっては、こうして人様の宗教も神様も否定せずに受け入れることができる日本人が誇りなんです。

日本の神々をまとめなおして、薬師寺を建てて、両者に祈りを捧げた天武天皇が、どこまで考えてやってくれたのかはわからないけれど・・・私の中では、神仏習合の原点だと思っていて、こんな日本を作ってくれたことに、心から感謝しています。

宗教にも神様にも罪はありません。もし、そこに罪があるのなら、それは人の行動が生んだものです。神様のせいじゃない。

いつの日か、少しでも早く、この世界から神様の名前を使った殺人が無くなりますように。

願いを込めて。

追記:天武天皇が仏様のことを「海外の神様」と表現していますが、これは薬師寺のお坊さんに、天武天皇が仏様の説明をするときにとう伝えたと聞いたからです。日本人に一番しっくりくる説明で好き。

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Writer 小野寺 優

古事記をラノベ化してしまった「ラノベ古事記」の著者かつ当サイトのオーナー。さらにたくさんの古事記情報が欲しくて、参加型のブログを立ち上げました!随時、参加者募集中!

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