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トヨウケビメと丹後の国

投稿日:2022/06/14 最終編集日:2022/06/10

古事記のなかのトヨウケビメ

「豊受大神」といえば、伊勢神宮の外宮のご祭神で有名な神さまです。

その役割は、内宮のご祭神の天照大神へ日々朝夕の食事を供する、というもので食物を司る御饌津神(ミケツカミ)になります。

「ケ(ウケ)」とは食物のことを差し、豊受とは豊かな食物を意味します。

わたしたちに馴染み深い「お稲荷さん」の神さま「ウカノミタマ」の「ウカ」=「ウケ」で、食物神の名前です。

古事記には、さまざまな「ケ(ウケ)」の名前をもつ食物神が登場しています。

オオゲツヒメ、ウケモチノカミ、トヨウケビメ……

このトヨウケビメが、豊受大神と同一と考えられます。

古事記でのトヨウケビメは「豊宇気毘売」(*毘の文字については横並びの田に比ですが、登録にないため毘の字で代用します)と記された女神です。

系譜は、伊邪那美神(イザナミノカミ)―和久産巣日神(ワクムスヒノカミ)―豊宇気毘売神(トヨウケビメノカミ)。

そしてのちに天孫である邇邇芸命(ニニギノミコト)が葦原中国へと降臨する際に、随神の一柱としてトヨウケビメは再び登場します。

このときには「登由宇気神」と表記されていて、「此は外宮の度相に坐す神ぞ」と記されています。

つまり、伊勢神宮の外宮の、豊受大神のことです。

トヨウケビメの故郷

そのトヨウケビメが伊勢に鎮まる以前は現在の京都府北部、丹後にいたようなのです。

『止由気宮儀式帳』(トユケグウギシキチョウ)という、延暦二十三年(804)に伊勢神宮より太政官へ奉られた解文があります。

そこには、天照大神が雄略天皇の夢に現れて、「丹波国にいるわたしの食物神、等由気(トユケ)大神を連れてきてほしい」と願ったため、伊勢にお迎えした旨が記されています。

<原文>

爾時 大長谷天皇御夢爾誨覺賜久 吾高天原坐氐 見志眞岐賜志處爾志都眞利坐奴

然吾一所耳坐渡甚苦

加以大御饌毛安不聞食坐故爾 丹波國比治乃眞奈井爾坐我御饌都神 等由氣大神乎

我許欲止誨覺奉支

爾時 天皇驚悟賜氐 即従丹波國令行幸氐 度會乃山田原乃下石根爾宮柱太知立

高天原爾比疑高知氐 宮定斎仕奉始支

(*丹後国は和銅六年(713)に丹波国から分国した)

『止由氣宮儀式帳』「一等由氣大神宮院事」より

トヨウケビメとアマテラス
槇野むい作 『伊勢ご鎮座物語』(2013)より抜粋

「ひとところにずっと居るのがしんどい」

「そのうえ、食事もままならない」

アマテラスの悲痛な訴えが何だか切ないです。

これによると、トヨウケビメはもともと、丹波の国の比治の真奈井というところに居たことになっています。

ではアマテラスはいったいいつの間にトヨウケビメを知って、自分の御饌都神にご指名するに至ったのでしょうか。

アマテラスはかつて、鎮座地を求めて長期旅行をしたことがあります。

最終的に伊勢に落ちついたわけですが、はじめはヤマトの宮中に祀られていました。

崇神天皇の御代の話で、『日本書紀』には、「大殿の内に天照大神と倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)神を並べて祀っていたが、不都合があるので、天照を豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)に託して笠縫邑(カサヌイムラ)に祀らせた」とあります。

アマテラスの旅の始まりでした。

『倭姫命世記』(ヤマトヒメノミコトセイキ)にはアマテラスがどこを転々と移動したかが記されています。

しかしこの書物の成立年代は特定が難しく、一般的には鎌倉時代中期くらいといわれています。

その説で考えると古代からはだいぶ時代が下っているので、鵜呑みにはできないかもしれないのですが、アマテラスが伊勢に落ちつくまでどこに行ったかを追うことができます。

それによると笠縫邑を出たアマテラスは、丹波の吉佐宮(ヨサノミヤ)へ移り四年間滞在します。

この吉佐宮の比定地のひとつに、京都府宮津市の籠(コノ)神社奥宮の真名井神社があります。

日本三景のひとつ、天橋立が美しいところです。

天橋立

おそらくこのときに、アマテラスはトヨウケビメと出会ったのではないでしょうか。

丹後国風土記とトヨウケビメ

トヨウケビメの物語が、『丹後国風土記』逸文のなかに見えます。

風土記は和銅六年(713)に、元明天皇の詔(みことのり)により編纂(へんさん)された各国の地誌です。

『丹後国風土記』は残念ながら散逸してしまっていて、他の書物に引用されていたものからかろうじて知ることができるものがある、という状況です。

そのなかに「奈具社」(ナグシャ)という段があります。

その物語の大筋はこうです。

地上に舞い降りて水浴びをする八人の天女のうちひとりの衣を老夫婦が隠して、天に帰れなくしてしまいます。

そして老夫婦はこの天女を自分の娘にしてしまう。

娘として地上に生きることになった天女は、十年以上この老夫婦と住み、病を癒すお酒を醸(かも)して暮らします。

その酒によって財を成した老夫婦は、もう無用とばかりに、この天女を追い出してしまうのです。

天女は泣きながらさまよい、やがて奈具の村に至ってここに留まることとなりました。

この天女が、「豊宇賀能賣命(トヨウカノメ)」といいます。

<書き下し文(一部)>

天女、涙を流して、微しく門の外に退き、(略)

去きて荒鹽の村に至り、即ち村人等に謂ひけらく、「老父老婦の意を思へば、我が心、荒鹽に異なることなし」といへり。仍りて比治の里の荒鹽の村と云ふ。

亦、丹波の里の哭木の村に至り、槻の木に據りて哭きき。故、哭木の村と云ふ。

復、竹野の郡船木の里の奈具の村に至り、即ち村人等に謂ひけらく、「此處にして、我が心なぐしく成りぬ。(古事に平善きをば奈具志と云ふ)」といひて、乃ち此の村に留まり居りき。

斯は、謂はゆる竹野の郡の奈具の社に坐す豊宇賀能賣命なり。

『古事記裏書・元々集巻第七』による「丹後国風土記」の引用より

この物語の後半のトヨウケビメの流離譚(りゅうりたん)は、鎮座地を遷(うつ)していく神の記録ともとれます。

アマテラスのように、トヨウケビメもまた、旅をしていたのかもしれません。

この物語でのトヨウケビメが最後に至った地「竹野の郡船木の里の奈具の村」は、現在の京都府京丹後市の弥栄(ヤサカ)町船木のあたりです。

奈具の村は嘉吉年間の洪水により流失したので、その遺跡地が詳しくわからなくなってしまいました。

現在は再建された奈具神社がこの船木の地に建っています。

トヨウケビメと丹後の遺跡たち

この弥栄町には奈具岡(ナグオカ)遺跡群があります。

弥生時代中期の拠点的集落で、百基に達する住居跡や墓域、鉄器や水晶製玉類の工房跡などが出てきています。

この地にはかつて、大きなムラが存在していたようです。

丹後の地はまた弥生時代の古墳も多く、そのなかで弥生時代終末期の大型墳墓「赤坂今井(アカサカイマイ)墳墓」では、数々のガラス製青玉類にいろどられた頭飾りが出土し、王墓ではないかと推測されます。

その被葬者は女性の可能性もあります。

また、古墳時代中期の帆立貝式前方後円墳の「大谷(オオタニ)古墳」では、鏡・鉄剣・玉類の副葬品とともに、熟年女性の骨が出土しています。女性の首長が存在していたことが推測されます。

そして、丹後の古墳の副葬品いえば、多く青のガラス玉類が見られ目を引きます。

弥生時代後期の「左坂(ササカ)墓群」などから大量に青ガラスの玉類が出土しています。また、この墳墓群から出土した人骨のひとつは女性と判明しました。

とりわけ美しい青いガラスの副葬品は、同じく弥生時代後期の「大風呂南(オオブロミナミ)1号墳」から出土したガラス釧(くしろ)です。

いまのところ、日本での青いガラス釧の出土例はこの一点のみということで、青色に魅かれた丹後の人びとに思いを馳(は)せずにはいられません。

古代の腕輪
京都府立丹後郷土資料館展示(複製品)

複製品をみたことがあるのですが、とても美しい釧でした。

丹後の人びとにとって、青い色は特別な意味があったのかもしれない。

丹後に広がるブルーの海と、その色をまとう女性の姿……

それは丹後の女神、トヨウケビメのイメージそのものなのかもしれませんね。

みなさまもよろしければぜひ、トヨウケビメの里、丹後の地を訪ねてみてください。

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Writer 槇野むい

文化人類学目線の、日本神話や古代史が好きな歴史創作屋。古事記に関わる小ネタをおもしろくお伝えしたい。推しは邇芸速日命。

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