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ゆかりの地巡り
投稿日:2022/08/22 最終編集日:2022/08/23
8月初めの天気の良い日を選んで、島根県にある石見国の一宮・物部神社に参拝してきました。
今回3度目の参拝となります。
御祭神は宇摩志麻遅命(ウマシマヂノミコト、ウマシマジノミコト)。日本書紀では可美真手命(ウマシマデノミコト)と表記されます。
私が推してる人物の一人です。この方のお父さんは、かの有名な物部氏の祖神・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)です。
知名度で行くとお父さんの饒速日命の方が有名かもしれませんね。
今回はこの宇摩志麻遅命、そして後に彼の主君となる神武天皇との深い関りを、物部神社を紹介しながらお伝えしたいと思います。
この二人…調べれば調べるほど深いんですよ~…
ちょっと長くなりますが、良かったら神武東征の主人公・神武天皇と、裏主人公(!?)とも言える宇摩志麻遅命の深い間柄を語らせて下さい。
後半の方はゆかりの地巡りというより人物語りになってますが、それでも良いよ!という方、よろしければ読んで下さいね!
▼もくじ
宇摩志麻遅命
神武天皇は日向から旅立ち、大和入りする際にその土地の豪族・長髄彦(ナガスネヒコ)と対峙します。
長髄彦は神武天皇より先に大和入りをしていた饒速日命を主君として崇めていました。
この時、饒速日命は長髄彦の妹・登美夜毘売(トミヤビメ)と結婚しています。(日本書紀では三炊屋媛/ミカシキヤヒメ)
この二人の間に生まれたのが宇摩志麻遅命です。
宇摩志麻遅命の功績は歴史書によって違いが大きく、日本書紀では長髄彦を誅したのは饒速日命とされています。
しかし、物部氏独自の伝承が色濃く残る先代旧事本紀では、長髄彦を誅して神武天皇に帰順したのは饒速日命…ではなく子の宇摩志麻遅命とされています。
岩見の国の一宮・物部神社
宇摩志麻遅命は神武天皇に帰順し忠誠を尽くされ後に、物部の兵を率いて各地を平定します。
そして最後に鎮座されたのが今回取り上げる物部神社です。(島根県大田市川合町川合1545)
御祭神宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)は、物部氏の御祖神として知られております。御祭神の父神である饒速日命(にぎはやひのみこと)は十種神宝を奉じ、天磐舟に乗って大和国哮峯に天降り、御炊屋姫命(みかしきやひめみのみこと)を娶られ御祭神を生まれました。御祭神は父神の遺業を継いで国土開拓に尽くされました。
神武天皇御東遷のとき、忠誠を尽くされましたので天皇より神剣韴霊剣を賜りました。また、神武天皇御即位のとき、御祭神は五十串を樹て、韴霊剣・十種神宝を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿を祈願されました。(鎮魂祭の起源)
その後、御祭神は天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、天香具山命は新潟県の弥彦神社に鎮座されました。御祭神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源) とされました。
次いで、御祭神は鶴に乗り鶴降山に降りられ国見をして、八百山が大和の天香具山ににていることから、この八百山の麓に宮居を築かれました。(折居田の起源)
ご由緒によると、まずご祭神は「鶴降山(つるぶさん)」という山に降臨されて国見をされたそうですね。
白い鶴に乗って降臨された山だから鶴降山…。
山頂から見た八百山(物部神社本殿の裏手にある山)が、故郷の大和の香久山に似ているので、八百山の麓に住む事にされました。
この時に鶴降山から再び白い鶴に乗って降りられた所が「折居田(おりいでん)」と言います。
折居田にはかつて、ご祭神が腰を掛けられたというお腰掛石がありました。
また大きくもならず枯れもしないと昔から言い伝えられている1本の桜の樹がありました。
昭和56年の秋に道路の拡張工事の為に、お腰掛石と桜の樹を神社境内に移して、ご祭神降臨の伝説と共に永久に大切に保存する事になったそうです。
現在、折居田には伝説を伝える石碑が建立さています。
神社から東へ600mほど行った所にあります。
さらにほんの少し更に東へ進むと、十種神宝(とくさのかんだから)を祀る石上布留神社(物部神社の境外末社)もあります。
氏子さんのご自宅の敷地内にあるので、ご挨拶をして許可を取り写真に納める事ができました。
この日は青空が広がりとても気持ちの良い参拝日和でした。
神社境内は広々としていて落ち着いた雰囲気です。また折居田・石上布留神社の辺りも含めて神社一帯が緑に溢れていて気持ちの良い所です。
何回でも訪れたい場所ですね。
最初は本殿裏手にある八百山をご神体として崇めていたそうですが、後に勅命により、継体天皇8年(513年)に社殿を創建したそうです。
しかしその後岩見銀山争奪の兵火などで3度も焼失しています。
宝暦3年(1753年)の再建、文政元年(1818年)の修復を経て、安政3年(1856年)に宝暦時の規模で改修され、現在に至ります。
県内では出雲大社に次ぐ大きさで、春日造りとしては日本一を誇る大きな神殿なんですって!
皆さん、島根県に来られたら、出雲大社と一緒に物部神社にもぜひ足を運んでみて下さいね!(車で1時間ほどの移動でしょうか…)
鶴に乗って勝運を運んでこの地に降臨されたご祭神に因み、真っ赤な太陽を背負った鶴を全国で唯一の物部神社の御神紋と定められています。
なので境内には狛犬ならぬ狛鶴の像を見ることができます。
個人的にご祭神が白い鶴に乗って降臨したという箇所がとてもお気に入りです。兵を率いて賊を討伐したという軍神的な一面を持っているのに、白鶴という如何にも美しい鳥に乗ってやって来るなんて…力強く、そして優美なご祭神の姿を想像してしまいますね。
境内摂社の後神社には、ご祭神の妃神である師長姫(シナガヒメ)が祀られています。
先代旧事本紀によると父は活目村(いくめむら)の五十胡桃(イクルミ)。この活目村は生駒村の事ではないかと言われています。
父の名前がイクルミ…クルミ…クルミの花を髪飾りにして、クルミを拾って夫の宇摩志麻遅に見せている…様なイメージで描いてみました。ちょっと強引ですかね。
因みにお妃様のイラストの背景の鶴は、物部神社で頒布されている「鶴みくじお守り」の図柄を参考にしています!
折居田の起源の所で紹介したお腰掛石です。
物凄く立派な御腰掛石ですよね。
有名な人物なら結構な頻度で出てくる由緒のある石、御腰掛石!この石に触るとご祭神の勝運の御神徳にあやかって全ての願いに通じる勝運を授かれると言われています。
佐比売山三瓶大明神(さひめやさんべだいみょうじん)を祀る末社です。
ご祭神が岩見の地を平定された時に三つの瓶(かめ)を三か所に据え、この地方の平和を祈りました。
一番目の瓶は物部神社の一瓶社に、二番目の瓶は浮布池の邇弊姫(にべひめ)神社に、三番目の瓶は三瓶山(さんべさん)の麓の三瓶大明神に祀られました。
この事から三つの瓶の山→三瓶山と呼ばれる様になったと言われています。
(大きな地震で山が崩れ、その時に三つの瓶が飛び出した事から三瓶山と言われる様になったという伝説もあり)
平安時代から枯れる事無く御神水が湧き出ているありがたい井戸だそうです。
正月節分で授与される物部神社特製の御神酒にもここの御神水が使われているんだとか。ぜひ次は正月に参拝したいですね…。
凄く渋くないですか!
ご祭神の御神像です。ご祭神の宇摩志麻遅命は大日本帝国海軍の戦艦「岩見」の守護神とされ、艦内に祀られていたそうなんです。
建国に貢献して各地を平定、鶴に乗って岩見の国に降り立ったご祭神…勝運を運んできた神様にあやかっての事なんでしょうね。激アツです。
後に御神像は当社に奉納されて現在に至ります。
社殿裏手にある八百山に葬られたといわれるご祭神の御神墓です。
何度参拝しても変わらず神聖な空気に包まれていました。
社殿が創建される前は、ご祭神が鎮まるこの八百山が御神山として崇められていました。御神墓だけでなく、この八百山全体が神域なんですね。
今まで色んな神社や史跡を巡って来たのですが、この御神墓を初めて参拝した時は、言い様もない気持ちに包まれたのを覚えています。
ご祭神が生まれ故郷の大和を出て各地を平定し、最後はこの遠く離れた岩見の地を選ばれ安住の地とされ、今もここに眠っておられるのだな…と考えたらこの方の人生に凄く思いを馳せてしまいます。
長い道のりだったでしょね。今は静かに安らかに眠っていて欲しいと願います。
ご祭神が鎮まる御神墓の左横に、同じ様に石が積まれている場所があります。
当神社の神職さんのお話によると、ご祭神の妃神・師長姫がお静まりになられている所ではないかと言われています。
中央にある木は椿の木です。妃神の可憐さを今に伝えているかの様な木ですね。
実は初めて当神社に訪れた時はこの場所の存在を知らなかったんです。後に物部神社の女子神職さんのTwitterを拝見して知ったんです。今回の記事を書く上でぜひ伝えなければならない神域だなと思いました!
夫婦で仲良くいつまでもこの地を見守っていて頂きたいですね。
左側の社が東五社(神世七代社)。国常立尊より伊邪那美尊までの七代十一柱を祀ります。
中央の社が須賀見神社・乙見神社。ご祭神は宇摩志麻遅命の曽孫にあたる六見宿禰命と三見宿禰命。
1番右奥が先ほども紹介した後神社ですね。
左側の社が稲荷神社。ご祭神は稲倉魂命。
他に大穴牟遅神(おおなむちのみこと)、大年神、大地主神を合祀します。
右隣の社が西五社(荒経霊社・皇祖四代社)。
須佐之男尊、そして天照大御神より葺不合命までの五柱を祀りますが、後に天照大御神は本殿に合祀されたそうです。
本殿に飾られるマークエステルさんの作品
今回の物部神社参拝でどうしても写真に収めたかったものの一つ、フラン人画家のマークエステル スキャルシャフィキさんの作品「神武天皇と宇摩志麻遅命の出会い」です。
この方は近年、日本神話を題材に制作活動をされていて、伊勢神宮、出雲大社、高千穂神社、宇佐神宮など100余ヶ所の神社に絵画を奉納されている凄い人なんです。
大阪万博の時に初来日して京都の清水寺で水墨画に魅了され、それをきっかけに外交官から画家への転身を決意されたそうなんです。
海外の方が日本神話を題材に創作活動をされているなんて何だか嬉しいですね。
絵本にもなっているんですよ。
この絵本は古事記を元に作成されています。
物部神社に奉納されている絵画と同じものが、絵本のクライマックスの場面にも使われています。
古事記を元に描かれているマークエステルさんの絵本では、この場面は宇摩志麻遅命の父である饒速日命が、神武天皇に天つ神の証である宝器を差し出シーンとして説明されています。
古事記では神武天皇に帰順するのは饒速日命ですからね。
しかし、当神社に奉納された絵画の題名が「神武天皇と宇摩志麻遅命の出会い」になってるんです!
神武東征の説話の中でも非常に重要なシーン…後の初代天皇と、古代において天皇家を支えた有力氏族・物部氏の祖が初めて出会い、和合する場面の絵画を…饒速日命を祀る神社に奉納…ではなく宇摩志麻遅命を祀る物部神社に奉納されたとは…!
神武天皇と宇摩志麻遅命の深い関係性を重視する私からしたら、凄く感激です!
マークエステルさんは、古事記のみならず、先代旧事本紀も研究されていたのかしら…と一人感動していました。
神武天皇と宇摩志麻遅命
ご祭神・宇摩志麻遅命が如何に日本の建国に貢献されたか、そして神武天皇に協力したかを、物部神社を通して簡単に説明させて頂きました。
この二人が、如何に密接に深く関わっているかを今からお伝えしたいと思います。
まず宇摩志麻遅命の伝承の部分をさらっとまとめると…
古事記→
饒速日命が神武天皇の元に参上して「天つ神の御子が天降って来られたと聞きましたので、後を追って天降って参りました」と申して天つ神のしるしである宝物を献上して帰順。
饒速日命が後から天より降りて来たというのが新鮮ですね。
この際に饒速日命は長髄彦の妹と結婚して宇摩志麻遅命を生むと説明が入ります。
長髄彦を直接討伐する描写はありません。
日本書紀→
神武天皇は東征をする際に、饒速日命が先に天より降り立っている事を知っています。
長髄彦は神武天皇に使いを送り、自分の妹と君主である饒速日命が結婚して子どもができた、その子の名は宇摩志麻遅命であると進言します。
そして饒速日命は自分の義理の兄にあたる長髄彦を誅して神武天皇に帰順します。
先代旧事本紀→饒速日命は実は天照大御神の孫で、弟の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)より先に天降っていたいう事が判明します。
また尾張氏の祖神・天火明命(アメノホアカリノミコト)と饒速日命を同一神として扱っていて、
饒速日命の本名が天照国照彦火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)としています。長い!
(この天火明命は、古事記・日本書紀の一書では瓊瓊杵尊の兄神、別の一書では瓊瓊杵尊の父神という系譜が伝られています。)
そして饒速日命は神武東征の時には既に亡くなっていて、饒速日命の功績が全て宇摩志麻遅命のものになっています。
つまり自分の伯父を誅する訳ですね。
古事記→日本書紀→先代旧事本紀の順でニギハヤヒ親子の功績がどんどん大きくなっているのが分かりますね…。
古事記・日本書紀では饒速日命は単に天つ神となっていて、どういう系譜の神様になるのか分からなかったのですが、先代旧事本紀においてその出自が明らかとなりました。
先代旧事本紀は序文に書かれている、本書の成立に関する記述に関して真偽を問われ、江戸時代には偽書の疑いがかけられました。
また、物部氏の祖神・饒速日命を尾張氏の祖神と同一視する事により、天皇家の血縁により近い存在であると主張する為、後世に作られた系譜である…とも言われますね。
しかし、近年は後世に付け足されたと思われる序文以外は、物部氏独自の伝承を伝える貴重な資料として再評価されています。また偽書の疑いをかけた本居宣長も「古事記伝」の中で饒速日が天から降ってきた時の事や尾張の連・物部連の世系など、これらはどの本にも見えず、新たに作ったとも見えないので、他に古い本があって、そこからとったのであろう、と述べています。
真偽の程を判断するのは素人の私では当たり前の事ではありますが、容易では無く、非常に難しいですね。
いずれにせよ、信憑性において記紀を越える事はないと思われますが、物部氏の祖である宇摩志麻遅命を語る上では欠かせない資料だと思います。
よって今回は先代旧事本紀の伝承を引用してお話しさせて下さいね!
上の系譜を見ても分かる通り、饒速日命が天照大御神のお孫さんで、瓊瓊杵尊の兄神という事は…つまり神武天皇と宇摩志麻遅命は遠い親戚になる訳です。
よく考えてみて下さい…。天照大御神の孫神・天孫がそれぞれ天から降り立ち、時代を超えて世代を超えて、その後裔同士が最終的には手を取り合って建国を成し遂げる…。これって凄くエモくて素敵な事ではないでしょうか!?
しかも2人の陣営が最初は長髄彦という日本建国の最大の障壁であるラスボスを介して巡り合う…きっと沢山のドラマがあった事は想像に難くないですね。
先代旧事本紀の記述から神武天皇と宇摩志麻遅命の関係を読み取ってみましょう。
神武天皇が大和入りをする際に宇摩志麻遅命の叔父である長髄彦は激しく抵抗します。そしてその際に長髄彦の放った矢に当たり神武天皇の兄・五瀬命はその傷が元で亡くなってしまいます。
その後、神武天皇率いる皇軍と長髄彦の軍は再び相まみえます。
長髄彦は自分が使える饒速日命こそがただ一人の天孫だと信じ、神武天皇の事を自分の国を奪いに来たと思い込んだまま戦いに突入する訳ですね。
しかし、天孫は一人ではなく、神武天皇も饒速日命も二人とも天孫であり、国盗りではなく、この葦原の中つ国を正しく治める為にやって来たのだという事が判明します。しかし、尚も長髄彦は軍勢を止めようとはしません。
甥の宇摩志麻遅命は伯父の説得は無理だと悟って殺害し、神武天皇に帰順します。
神武天皇は宇摩志麻遅命が伯父の反逆に従わずに軍勢を率いて帰順したその忠節を大いに褒め讃えます。
神武天皇は宇摩志麻遅命を特別に寵愛し、その勲功に応える為に霊験あらたかな剣・布都御魂(ふつのみたま)を授けます。
神武天皇が熊野でピンチに陥った時に、天照大御神・タケミカヅチの命により、高倉下が持って来てくれたあの剣ですね!
因みにこの布都御魂、東大阪市にある石切劔箭神社の独自の社伝によると、饒速日命が息子の天香語山命(高倉下の事。宇摩志麻遅命から見たら異母兄にあたる)に預けたものとされています。
つまり神武天皇を介して、亡くなった父・饒速日命から子・宇摩志麻遅命に布都御魂の剣が受け継がれたんですね。物凄く心に来る伝承だなと思います。
そして場所によって伝承がそれぞれ違いがあるのが非常に面白いですね。
(因みに物部神社の相殿の右座には、布都御魂の霊神がご祭神として祀られています。)
そして宇摩志麻遅命は饒速日命が天から持ってきた十種神宝(とくさのかんだから)を神武天皇に献上します。更に天皇は大いに喜んで特別に寵愛される様になります。
また、神武天皇が橿原宮にて即位する際に、布都御魂と十種神宝を奉斎し、天皇の為に鎮魂なされました。神武天皇の長寿をお祈りされたのですね。
これが宮中でも行われている鎮魂祭(ちんこんさい/みたましずめのまつり)の起源になったと言われています。
天皇は宇摩志麻遅命を特別に寵愛されて「私の身近にいて神殿の中に常に宿し仕える様に」と言って足尼(すくね)と名付けられました。これは宿禰の古い用字で天皇の殿内に宿るほどの重臣という意味です。
宇摩志麻遅命は神武天皇に忠誠を尽くされ、天皇もその働きに応える…。今でも行われている鎮魂祭りの起源がこの二人にあるって凄くないですか…。この二人凄くエモくないですか…。
あと何回「寵愛」ってワード出てくるんだと思いました。
今回紹介した通り、宇摩志麻遅命は物部の兵を率いて各地を平定、最後は岩見の国に宮居を築かれました。
天皇からしたら、普通なら自分の皇子や親族に平定を任すのが一番安心ですよね。もし信頼ならない臣下に兵を預けて、謀反でも起こされたら大変です。
他に例を挙げるなら崇神天皇の時代の四道将軍も全員皇族です。
それなのに、敵陣営であった宇摩志麻遅命に軍隊を指揮させ、平定を任せる…これって神武天皇が物凄く宇摩志麻遅命を信じていた証拠とも解釈できるのではないでしょうか?
物部神社の伝承、それ自体が二人の間の絆を象徴している…と想像豊かに考えを巡らせてしまいます。
(そう考えると神武天皇の皇子の手研耳命ってどれほど信頼されていたのでしょう…本来なら手研耳命が最有力候補だとは思うのですが…)
以上、物部神社に実際に足を運んでご祭神である宇摩志麻遅命の史跡を堪能しつつ、神武天皇との深い関りを語りました。
以前UPした記事でもTwitterでも再三言っているのですが、私は神武東征の伝承が大好きす。
となると、東征を語るのならば、物部氏の祖について語る事は避けられないでしょう。
そして調べていく内に、宇摩志麻遅命が神武天皇の臣下の中でも特別に寵愛を受けた人物の一人なのだという事が分かりました。
菊池容斎が描く前賢故実(ぜんけんこじつ/上古から南北朝時代までの皇族・忠臣を時代を追って肖像画した伝記集)には、神武東征の時代からは三人が選出されています。
一人は神武天皇の兄君・五瀬命。二人目は東征の先鋒を務めた大伴氏の祖・道臣命。そして三人目はもうお分かりですね!?宇摩志麻遅命なんです。
(個人的には古事記で大活躍の大久米命も入れて欲しかったですね…)
それくらい神武天皇の忠臣と言ったら宇摩志麻遅命だろ…って言うくらいには認知されていたという事ですね。
愛しい兄・五瀬命と日向から旅立つ所から全てが始まり、兄亡き後は頼りがいのある臣下・道臣命が先鋒を務め、最後は敵陣営でもあり深い因縁がある宇摩志麻遅命が帰順してくる…
妥当な人選とも言えますよね。
そして…ふと思います。
神武天皇に深い関りを持った人物が三人選ばれているとも言える訳ですが、この三人の内…五瀬命と宇摩志麻遅命…。
繰り返し言いますが、宇摩志麻遅命の伯父である長髄彦は、神武天皇にとって大切な兄・五瀬命を死なせています。
と言うかこの二人は最後の方まで敵対してたって事ですからね。
つまり神武天皇は愛しい兄である五瀬命の仇である人物の甥っ子を寵臣としている訳です。凄くドラマチックだとは思いませんか。
神武天皇は五瀬命が殺された事を常に忘れず、必ず仇を取ってやると心に誓っていました。
よく考えたら、皇族の方が戦で亡くなるなんていくら建国の前の戦闘の最中の事だからとは言え、とんでもない事ですよね。
その仇を親族の宇摩志麻遅命が討ち取り帰順してくる…その時の神武天皇の心中は如何ほどのものだったでしょうか。
いくら帰順してきたからとは言え、簡単に許せるものでしょうか?
そして、宇摩志麻遅命の方も、神武天皇の事が天孫だと分かる前は、色々迷いがあった事と思います。
父・饒速日命が亡くなり、自分がその後を継いで頑張らなければならない…そんな時に大和へ進行してくる者たちがいる…。しかも一回は退けられたというのに各地で仲間を作って再びこちらへやってくる。
伯父と神武天皇の陣営の衝突は避けれられないでしょう。そんな時に自分はどうすれば良いか?
これは私の独自の解釈が大いに入っていますが、自分の異母兄である天香語山命(高倉下)をはじめ、次々と神武天皇に味方していく者たちを見て、なぜ敵陣営の元に人が集まっていくのか?
本当に伯父の言うとおりに偽物の天つ神なのか?本当に矢を向けて良い相手なのか?
伯父である長髄彦の意見も聞かなきゃいけないし…でもしかし…
みたいな感じで色々葛藤があったのではないか?と考えてしまいます。
(これは私が神武東征説話を調べていく内に考えた勝手な解釈です。すみません…。)
そして、ついに交渉の時が来る神武天皇と宇摩志麻遅命…
お互い天孫の証を持っていた天照大御神の子孫であり、主従の違いはあれど、争う必要など本当は初めから無かったのだと悟り、神武天皇は仇である人物の甥を許し信頼して特別に引き入れ寵愛する。
宇摩志麻遅命はこれ以上の犠牲を出さない為に、自分の伯父を誅して帰順する。物凄く冷静に物事を判断出来る方だったんでしょうね。
お互い相当な覚悟ですよね。
宇摩志麻遅命の帰順してからの心情はどの様なものであったでしょうか?
父・饒速日命から受け継いだ十種神宝を献上して敵であった神武天皇の長寿を願い、即位をお祝いする…彼の心の内を詳細に知る事など、今となっては出来ません。
…本当は神武天皇を受け入れたくなかった?
神武天皇の方は?いつまでも宇摩志麻遅命を見ると仇の顔が甦って来たのでしょうか?
本当は許したくなかった?
…私はそうは思いません。
神武天皇の兄を殺したのは宇摩志麻遅命ではなく、その伯父です。むしろ自分の身内を討ち取ってまで帰順して忠誠を誓ってくれたのです。
宇摩志麻遅命も、誰かに命令された訳ではなく、自分の意志で伯父を誅したのです。自ら選び取って神武天皇側に付いたのです。自分の軍勢が決して劣っていた訳ではないにも関わらず。
私はこう思います。
何か大きな事を成し遂げようとする人は恨み言や怨念を乗り越える事が出来る…そんな二人だからこそ、手を取り合い和合出来たのではないかと。
…と物部神社に参拝してきました~から長々と二人の事について語ってしまいました。
最初は敵同士であった神武天皇と宇摩志麻遅命。
紆余曲折を経て、お互いが天孫だと分かり、争う事は無意味、争う必要はないと悟り日本建国の為に協力する。
敵だったのに協力する事になり、最も深い関係になる…ってむしろ王道な展開ですよね。
歴史書によって伝承の違いはあるものの、古事記にも日本書紀にも先代旧事本紀にも、皇室と物部氏の密接な関りが記してあります。
古代日本の歴史を知る上で避けては通れないのは勿論「天皇」、そして「物部氏」。
その深い繋がりは天孫降臨の頃より始まっていたんですね。
神武天皇の忠臣、道臣命、大久米命、椎根津彦、天種子命、八咫烏、弟猾、黒速(弟磯城)、天富命…。
いっぱいいて、みんなそれぞれが忠誠を尽くし、私達の今に繋がる日本の建国に尽力して下さいました。
そしてこのメンバーの中に、宇摩志麻遅命も入るんですよ!と言う内容をお送りしました。もし記事を読んで下さった方の中に、宇摩志麻遅命…気になるな、という方がおられましたら、今回ご紹介した物部神社にぜひ訪れてみて下さい!
因みに!
今回、この記事で神武天皇と宇摩志麻遅命は「敵」だったと敢えて表現していますが…記紀にも先代旧事本紀にも一言も「敵対してた」「戦った」とは書いてないんですよね。
あくまでもそう読み取れるな…という感じです。兄猾&弟猾、兄磯城&弟磯城の時の様に、神武天皇受け入れ反対派と賛成派に分かれていた現状にも似ていますよね。
神武天皇と宇摩志麻遅命(饒速日)の出会い…人によって色々解釈が出来ると思います。
(解釈によっては弟猾や弟磯城よりも敵対した描写がありません)
記紀や先代旧事本紀の編集者も、物部氏の祖が神武天皇の敵陣営にいた事よりも、如何に王権に貢献したか、という事を主張したかったと思います。
私が今回の記事で何を伝えたかったかと言うと、宇摩志麻遅命&饒速日命(私は勝手に物部親子って呼んでます)は、神武天皇の兄の仇が奉斎している陣営ではあったけど、ちゃんと最後は建国に協力してくれましたよ、神武天皇を助けてくれましたよ、という事です。
ゆかりの地巡りから最後は長いキャラ語りになってしまいましたが、ここまで読んで下さってありがとうございました。
神武天皇の忠臣は物部氏だけじゃない!宇摩志麻遅命だけじゃない!こんな人もあんな人も、こんな氏族も建国に協力したよ!というそこの貴方!
ぜひ一緒に神武東征を語りましょ!
神武天皇が宇摩志麻遅を寵愛した寵愛した~を連呼しておりますが、私の中ではこの2人は長身耽美系臣下✖️みんなから愛され系君主…って感じのカプ…いやゴホ、コンビなんです!!このコンビをウマサノって呼んでます~。神武天皇の幼名が狭野(サノ)なので。
このイラストはそんな2人をイメージしてみました!
それではここまで長い妄想…記事を読んで下さってありがとうございます!
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