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ゆかりの地巡り
投稿日:2024/11/02 最終編集日:2024/12/07
▼もくじ
はじめに
こんにちは!神武天皇最推し、古代史大好き、げぴこです。
神武天皇の足跡を辿って行くシリーズ第1弾です。よろしければお付き合い下さい。
日本の初代天皇・神武天皇(じんむてんのう)。
神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)、狭野尊(さののみこと/幼少期)、磐余彦尊(いわれびこのみこと)…と史料によって多くの呼び名があります。
神武天皇と言う呼び名は奈良時代後期の文人・淡海三船によって撰進された漢風諡号です。
〈この記事では基本的に神武天皇表記で、必要に応じて別の呼び名で表記する場合は(神武天皇)を付け加えます。〉
神武天皇と言えば、日向国の高千穂の宮にて兄や臣下達に東征を提案、天下を治めるのに相応しい土地を目指して故郷を旅立ち各地を平定、数々の苦難を乗り越えて最後は大和国(今の奈良県)の橿原(かしはら)の地で初代天皇として即位されたと伝わっています。
この一連の説話は「神武東征」又は「神武東遷」と言われ、日本最古の英雄譚としても知られています。
神武天皇は古事記・日本書紀(以下、記紀)では日向国にいたとされますが、この日向国とは薩摩半島・大隅半島・宮崎県南部を含むとされています。
記紀には神武天皇の詳細な御生誕地は記述されていませんが、九州には複数の御生誕地の伝承が伝わっています。
個人的に宮崎県高原町(たかばるちょう)が神武天皇の御生誕地として一般的に広く認知されている印象がありますが、鹿児島県にも伝承地があるのをご存知でしょうか?
今回は九州に複数ある神武天皇御生誕の候補地の一つ、鹿児島肝属郡肝付町(きもつきぐんきもつきちょう)にある伝承地と、その周辺にある神武天皇ゆかりの地について紹介します。
天照大御神から神武天皇に至るまでの系譜
御生誕地を紹介する前に神武天皇の出自をさらっとおさらいしておきましょう。
その出自は神話の時代にまで遡ります。
神武天皇は太陽の女神で皇室の祖先神とされる天照大御神…その孫の邇邇芸尊(ににぎのみこと)の曾孫で、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと/以下、ウガヤフキアエズノミコトと表記)の第四子として生まれました。母は海神の娘・玉依姫(たまよりひめ)です。
神武天皇の曽祖父・邇邇芸尊は天照大御神の神勅により、葦原中国を治める為に高天原から日向国の高千穂峰へ降臨しました。
この邇邇芸尊、彦火火出見尊、そしてウガヤフキアエズノミコトの三柱の神々、及びそれらの神々の時代の事を日向三代と言います。
皇室の祖先が日向国に都を置いていたから日向三代って言うんですね。
こうして系図を見てみると、神武天皇って天の神・山の神・海の神の血が入ったとても高貴な人物だと言う事が分かりますね。
神武天皇の父・彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の伝承地
こちらは桜迫神社です。
神武天皇の父・ウガヤフキアエズノミコトの住まわれた「西洲宮跡(にしのくにのみやあと)」で、神武天皇の生育の地と伝えられています。
御祭神は日向三代とその妃神です。
神社が鎮座している宮下(みやげ)という地区は、屯倉(みやけ)から来ていて、この辺りが古代に皇室の御料地であった事が分かる由緒ある土地です。
また宮下では昔から堅く鵜の鳥を獲る事を戒めて、これを犯した家は滅びると言われていています。
この言い伝えは、産屋の屋根の頭頂部分を鵜の羽でふき合わせない内に誕生されたウガヤフキアエズノミコトに非常に縁深い土地である事を思わせますよね。
肝付氏が日南市にある鵜戸神宮から鵜戸六所権現を勧請(霧島の六所の神を勧請したと言う説も)して来たので、以前は鵜戸六所権現と呼ばれていました。
また、天喜2年(1054年)に書かれた「大隅国神階記」によると大隈宮下大明神という名前で呼ばれていたそうです。
旧高山町最古の神社であるとの説もあり、また肝付氏が高山移城の時に再建されたとも言われています。
古来より崇敬されて来た神社ですが、明治時代に桜迫神社に改称されました。
境内には町の指定文化財の仁王像があります。同じく肝付町にあった新福寺が廃仏毀釈によって壊されました。その際に一緒に壊されて埋められた仁王像を掘り起こして神社に持って来たと言う経緯がある様です。
昭和15年発行「皇祖発祥聖蹟」によると桜迫神社の神職は近間氏が古来から代々世襲されていて、家柄も古く「ハシノヒト」と呼ばれ尊敬を集めていたそうです。この「ハシノヒト」は神武天皇の妃・吾平津姫(あひらつひめ)の兄である吾田小橋君(あたのおばしのきみ)に関連があるのではと言う説も起こったそうです。
あくまでも1つの説としてこの文献では紹介されていますが、吾平津姫の兄としてでしか登場しない吾田小橋君を考える上で貴重な考察…とも言えるのではないでしょうか。
桜迫神社では春の到来・稲の豊作を祈願する春祭が毎年3月17日に行われ、宮下地区から棒踊りが奉納されます。
この棒踊りは、明治時代に宮内愛之心と言う人物が川辺町(南九州市)から伝えたとされていて、長さ六尺(約1.8m)の棒をお互いに打ち合わせながら6人1組で踊ると言う物です。
棒踊りが終わると裏山から大きな二股になった木とかぎになった木の枝を切り出してきて雌かぎと雄かぎを作り、それらを引っ掛けて引っ張り合うかぎ引きという神事が行われます。
豊年豊作や子宝に恵まれる様にと言った願いが込められています。
従来は宮下地区の人が雄かぎ、富山地区の人が雌かぎを掛け合って鳥居の前の道路で引っ張りあっていたらしいのですが、今年は富山地区からの棒踊りが無く人手が足りなかったらしく、宮下地区の人が引き合ったらしいですね。
かぎ引きに使った木の柴を折り、境内を田んぼに見立てて地面を柴で叩いて地の神に目覚めてもらい、春の到来を伝えます。
模型の牛を使って田を耕す所から田植えまでの動作を演じて田の豊作を祈願し、最後に面を被った田の神さぁ(田の神)が降臨して人々に田の豊作を約束すると言う流れです。
このかぎ引きの勝敗で両地区の豊作を占っていましたが、今年は宮下地区だけで引き合った事から、両地区共に豊作と占ったとの事です。
かぎ引きの行事自体が、昔は町内の各神社で行われていたらしいのですが、現在はこの桜迫神社でしか残っていないらしいです。
少子高齢化で担い手がいなくなり祭りが途絶えてしまう事も多々ある中、こうして今でも地元に伝わる貴重な神事を継承されているのが素晴らしいですね。
ウガヤフキアエズノミコトと玉依姫の御陵です。
日本書紀にはウガヤフキアエズノミコトは西洲の宮でおかくれになり、日向の吾平山上陵に葬ったとだけ記述があり、また延喜式にも日向の吾平山上陵に葬られたとあります。
現在は明治7年(1874年)に宮内省により治定された鹿児島県鹿屋市吾平町にある皇族陵がウガヤフキアエズノミコトの御陵とされています。
この御陵は全国でも珍しい岩屋(洞窟)タイプで、岩屋の中には大小2つの御陵があります。夫婦仲良くお鎮まりになっているんですね。
御陵に向かう参道の左側には鵜戸六所権現がありましたが、明治4年(1871年)に災害により、吾平総合支所横に仮宮として遷座され、そのまま元の場所に戻る事は無く、現在は鵜戸神社として鎮座しています。
姶良川が流れる静かな森の中に佇んでいて、伊勢神宮に似ている事から「小伊勢」とも呼ばれています。
因みに桜迫神社の鳥居も吾平山陵の方に向けて建てられています。
神武天皇の御生誕地とゆかりの地
神武天皇の母・玉依姫が宮下川(肝属川中流)の岸にある渡船場(とせんば)で産気づかれたので、村の人達がすぐに川辺の棚を儲けると、その棚でお産をされたと言います。産屋の棚を設けさせたので水神棚と呼ばれているんですね。
また、九州地方は河童の説話が多く語り継がれています。この肝属川周辺にも、神武天皇御生育に絡んで面白い河童の伝承が残っています。
ある時肝属川で1人遊んでいた磐余彦尊(幼少期の神武天皇)が川の中に落ちてしまいます。玉依姫が驚いて見てみると、尊に何かあやしいものが取り付いていていました。姫剣を抜いて川に飛び込みます。尊には沢山の河童達が吸い付いています。姫は斬るのも可哀想だと思い一匹ずつ河童を剥がしていきますがキリがありません。止むを得ず姫は大将株の一匹の手を斬ったら他の河童達は驚いて逃げて行きました。
神武天皇伝説に絡めた河童の説話があるのが九州ならでは!ではないでしょうか。非常にお面白いですね。
我が子を守る為に剣を抜いて川に飛び込む玉依姫も頼もしく格好良いです。また、ただ河童を容赦無く切り捨てるのでは無くてなるべく殺生しない様にする姿に優しさを感じます。神武天皇の母君は頼もしさと慈愛に満ちた2つの姿を併せ持った女神様として当時の人達の間で語り継がれていたのかもしれません。
神武天皇が御生誕された際に胎盤を埋めたとされる場所です。すぐ近くからここに移されて記念碑が建てられたとの事です。
現在そこをイヤ塚と言います。胞衣(ほうい)、小袋の事をこちらの地方では「イヤ」と言うそうです。
またこの辺りで子どもが遊ぶとよくない事が起こると言う言い伝えがあったそうです。
民家の敷地内に石碑が建てられているのですが、地元の方に教えて頂き辿り着く事が出来ました。あの時ここの場所を教えて下さった方、また快く撮影を許可して下さった家主さん、ありがとうございました!
イヤ塚の近くには「神武天皇御降誕傳說地」記念碑が建てられています。
神武天皇はここで誕生されたとされています。
この記念碑は元々は河川敷にあったのが、堤防が出来てこの場所に移転したとの事です。
移転するまでは窪地になってしまって下の方が埋まってしまい石碑の上の部分しか見えない状態になっていたらしいのですが、地元の方が私費でこの場所に設置し直して、囲いまで付けてくれたそうです。
もしその方がおられなかったら、記念碑が見えなくなっていつしかその場所を知る人がいなくなり神武天皇の誕生地が散逸…と言う事もあったかもしれないですよね。今こうして現地まで来て伝承地に想いを馳せる事が出来る事に感謝です。
宮下地区の富山はその昔「鳥見山」と呼ばれていて、鳥見山がなまって富山になったと言う伝説が伝わっています。
そして神武天皇は肝付で誕生されて幼少時には富山に遊びに行かれていたと言われています。
成人された神武天皇の伝承地
成人された神武天皇は日向国吾田邑の吾平津姫を妃に迎えられ、今の東串良町の山王屋敷の辺りに宮を置かれていたという言い伝えもあります。
成長された神武天皇は軍船を造り、衣料、食料、武器を積み込み、肝付平野の豪族達を従えて乗船された伝えられています。
吾平町に鎮座する大川内神社です。主祭神の一柱・吾平津姫は、神武天皇の東征には付いて行かずに自ら吾平の地に留まり、夫や随伴させた我が子の武運長久をお祈りになられたと言います。
吾平津姫の御出身地は油津では無く、この大川内神社が鎮座する吾平であると言う伝説があります。
また、神社の伝承とは別に土地の伝説によると、吾平津姫は天皇のご東征に従って大和に入られた後離別され、吾平にお帰りになります。
そして天皇の父・ウガヤフキアエズノミコトがお鎮まりになる吾平山上陵の参拝などをして余生を過ごされていたと言う何とも悲しい伝承が伝えられています。
まとめ
以上、鹿児島県に残る神武天皇の御生誕地とそれに関連する史跡を紹介しました。
今回は記事の中で、九州に複数伝わる「神武天皇御生誕地」の一つ「鹿児島県肝属郡肝付町に残る御生誕地」を紹介しました。
御生誕地は他にも伝えられています。またこれからの記事でその他の地域に伝わる御生誕地も紹介出来たらと思います。
ここまでご覧頂きありがとうございます。
ところで皆さん、今回記事で紹介した神武天皇ですが…。自分達の国の初代天皇なのに、例えばですが、徳川家康や織田信長、聖徳太子等に比べてあまり知られていない様な印象がありませんか?
また時折、神武天皇は近代に入るまで忘れ去られていた存在みたいな言い回しをされる事もあります。確かに、幕末辺りから建国神話や神武天皇が再評価されて来た事は否定出来ないと思います。
しかし、それは決して悪い事では無いと思う思うんです。
日本人が戦国時代などの国が乱れた時代を経て、自分達の建国神話を省みる余裕が生まれたのは無いでしょうか?
また、どの時代でも知識階層の間でずっと神武天皇の事は日本の初代天皇として認識されていたと思います。
各地には神武天皇にまつわる豊かな伝承が沢山伝わっています。これから各地に伝わる史跡や伝承地のレポートを通じて、少しでも神武天皇の事を知ってもらえたら良いなあと思います。
次回は神武天皇の東征ルート及びそれに係る伝承地を辿って行きたいと思います。
それではまた次回お会いしましょう!
参考文献
『日本書紀 現代語訳』宇治谷孟 (講談社学術文庫 1988年)
『古事記(上)全訳注』次田真幸 (講談社学術文庫 1977年)
『古事記(中)全訳注』次田真幸 (講談社学術文庫 1980年)
『高山郷土誌』高山郷土誌編纂委員会 編 (高山町 1966年)
『神武天皇聖蹟御降誕地御発航地に関する研究』 紀元二千六百年鹿児島県奉祝会 編 (紀元二千六百年鹿児島県奉祝会 1939年)
『皇祖発祥聖蹟』岩元禧 (鹿児島史談会 1940年)
『高千穂峰 : 歌文集』斎藤茂吉 (改造社 1940年)
『神別系譜』編者中田憲信
『西国御陵墓伝説』青木繁 (青木繁 1952年)
『鹿屋市史 上巻』鹿屋市史編集委員会 (鹿屋市 1967年)
『屁ひり爺その他(昔話叙説)』臼田甚五郎 (桜楓社 1972年)
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