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ゆかりの地巡り
投稿日:2023/02/16 最終編集日:2023/02/16
大分八幡宮由緒記
当宮は、神功皇后御征韓後粕屋の宇美邑にて応神天皇御出産遊ばされ、翌年の春、京にお上りの際軍隊を引率され粕屋、嘉穂の郡境にある験しい山「ショウケ越え」を経られ、当宮に至り坐して暫しお止りになり筑紫の行政をお執り遊ばされ、此地にて軍隊を解隊せられし由縁の地なり。
▼もくじ
子連れエピソード
神功皇后が応神天皇を、ショウケ(竹で編んだザルの一種である笊笥(そうけ)が訛ったもの)の籠に入れて峠を越えた事から、峠の名前は「ショウケ越え」または「ショウケ峠」と呼ばれています。
産湯、というと生まれたばかりの赤ん坊が使うもののイメージなのですが、出産(十二月十四日)の翌年の春なので、応神天皇は三ヶ月前後ですね。
凱旋エピソード
神功皇后は、三韓征伐から戻るときに三本のクスノキを持ち帰り、香椎宮・宇美八幡宮・大分八幡宮の三社にそれぞれ植えたと伝えられています。
香椎宮はクスノキよりも杉(綾杉)が有名ですし、ご神木としてのクスノキはありません。
参道にはクスノキ並木が続いていますが、これは大正15年(1926)に植栽されたものだということです。
宇美八幡宮には国指定天然記念物のクスノキが二本あるので、三本のうち二本は宇美八幡宮かも、なんて考えてみたりして。
大分八幡宮のクスノキは福岡県指定天然記念物。
樹齢2000年以上と考えられている宇美八幡宮のクスノキと比べるとずっと若い木なのですが、それでも推定樹齢が約700~800年。
神功皇后が持ち帰ったクスノキの子孫と考えられています。
神功皇后は、飯塚市大分(だいぶ)にて、引率していた軍士を解隊し、物資を大いに分ち与えられその労を労い、それぞれの故郷に返します。
その事から、「大分(おおわけ)の里」と称され、今は大分(だいぶ)と言います。
…「大分」は読み方が色々あって、どう読んだものかと悩みますね〜。
県名である「大分(おおいた)」の方が特殊な読み方ではありますが、なんせ県名なのでつられそうになります。
駅の名前は「筑前大分(ちくぜんだいぶ)」となっておりますよ。
JR筑前大分駅の近くにある高さ10m程の丘は、大分八幡宮の飛地境内となっている鶯塚です。
神功皇后が兵を解散した場所と伝えられています。
その他
随身門に、阿吽の仁王像。
仁王像の裏に、随神と狛犬が並んでいます。
神亀2年(725)、現在の地に宇佐神宮が造営されました。
その翌年の神亀3年(726)、豊前地方と穂波地方、太宰府を行き来する拠点であり、大分(おおわかれ)の由緒ある地に鎮西第一といわれる壮麗な社殿、穂浪宮(=大分八幡宮)が造営されたのが大分八幡宮の創始とされています。
そして筥崎宮は、平安時代の中頃である延喜21年(921)、箱崎の地に社殿を建立し、延長元年(923)穂波宮より遷座した(ご神体を移した)ことになっております。
遷座した後も大分八幡宮は存在し続け、焼亡を受けての治暦3年(1071)の再建では筥崎宮と同等の規模の本殿であった記録されています。
応仁の乱以降衰微しますが、天正5年(1577)に秋月種実によって再建。
この再建の時、現社殿の後方、丘の頂上の嶽宮から現在地に遷座しました。
現社殿の後方にあり、元々社殿があったというこの丘。これ自体が80m級の前方後円墳と考えられています。
しかもなんと、仲哀天皇御陵だと言われているそうです‼︎
え、仲哀天皇、いつのタイミングでここに埋葬されたの⁉︎
地図で確認すると、仲哀天皇が敵の毒矢に当たったとされる御勢大霊石神社から見てちょうど、忌宮神社(日本書紀で殯をしたと書かれている豊浦宮のあった場所)方面にあります。
なので、豊浦宮に向かう途中に一時的に埋葬した場所なのかも?とも考えましたが、御勢大霊石神社から一旦香椎宮に行ったと考えると……?よく分かりません。
仲哀天皇は戦の最中に亡くなっており死を伏せられていたことから、当時の人達でさえはっきりと、いつ亡くなってどこに埋葬されたのかを知っている人はごく僅かだったことでしょう。
悟られないようにあらゆる偽造もしたでしょうし、正式な埋葬まで様々移動しているでしょうから、埋葬地・仮埋葬地とされる場所がたくさんあんだろうなと思います。
関連情報
●大分八幡宮
福岡県飯塚市大分1272
公式サイト:http://www.daibu-hachiman.com
● 天皇・人物 一覧
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