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ゆかりの地巡り

戦わずして勝つ、敵国降伏を祈る筥崎宮

投稿日:2022/12/31 最終編集日:2022/12/31

筥崎宮(筥崎八幡宮)は、大分の宇佐神宮(宇佐八幡宮)、京都の石清水八幡宮と 並んで日本三大八幡宮と呼ばれる神社です。

筥崎宮の代わりに神奈川の鶴岡八幡宮を数える場合もありますが……。

四社の中で唯一、生前の応神天皇のエピソードのある神社です。

筥松

応神天応が宇美で生まれた後、その御胞衣を筥に納めて埋め、標しの松を植えました。
それがこの場所で、この地を箱崎と称えこの松を「標の松」又は「筥松」といい御神木としています。

あれ?応神天皇の胞衣って、宇美八幡宮の胞衣ヶ浦に埋まっているんじゃないの?
まあ、二分割位なら全然、出来ないこともないでしょう。

千早振る神代に植えし箱崎の松は久しき標しなりけり

法印行清(『続古今集』) 

博多曲物

胞衣を「筥」に納めて埋めた、というのが、この箱崎の地では案外重要。

博多馬出の曲物の縁起は、神功皇后の朝鮮出兵まで遡る。

身重の身をおして西下した皇后は、帰国の途中、筑紫国蚊田(現在の福岡県宇美町)で後に応神天皇となる皇子をお産みになり、胞衣(臍の緒)を木筥に収めて、箱崎の松林に埋められた。その筥が曲物だったという。
「筥」は元々、米などを入れる竹製の丸いハコを意味し、四角いハコである「筐」や、荷車につける「箱」と区別されていた。そこから後にこの地に建立された社に「筥崎」という名がついたとも

 

引用:博多曲物玉樹HP『曲物の歴史』(https://magemono.com/history)

地名の方には「筥」でなく「箱」の漢字を使っているのは、同じ漢字を使うのは恐れ多いということで使わなかったとかなんとか。

柴田徳商店の外観

柴田徳商店は、筥崎宮の神具として奉納されてきた博多曲物の、歴史と技術を継承する博多曲物のお店です。
筥崎宮から歩いて5分ほどの場所にあります。

杉やヒノキの薄い板材を曲げその端を桜の樹皮で綴じ合わせて作る曲物容器は、現在では弁当箱や飯櫃として人気の商品です。

御胞衣祭と三元祭

大晦日には同社(筥崎宮)で胞衣祭という祭典があり、この祭の終了後、 箱崎町の漁業者が裸体になって海水で身を浄め、そのまま神饌所に走り入り、 ターラゴ餅を搗き、 これを神饌とする。

なお、 大晦日の夜、 社前の神木筥松(この下に御胞衣を埋めたという)の前に丸い金器に赤飯を盛って供える。(『年中行事辞典』)

三元祭

正月元日に行われる祭、 年の始月の始日の始というところから三元と名付けたもので、 この祭には、古風な搗杵で搗いたターラゴ餅と称する海鼠形の鏡餅を神供とする。

そのいわれは、 昔、 応神天皇が十二月十四日に降誕され、 御胞衣を大晦日に至って筥崎の地に納められた。

その夜は、徹宵、埋蔵の儀に混雑を極めたため、鏡餅を搗くことができなかったために神功皇后は筥崎浦の漁夫が献じた海鼠を餅の代わりに召し上がったという故事に基づくものだという。(『年中行事辞典』)

応神天皇の胞衣を埋めるのに忙しくて鏡餅をつくことが出来なかったので、ナマコを餅の代わりに食べたと伝わっているそうな。

それだけ忙しいスケジュールの中ここに胞衣を埋めたんですね。

そこまでしてどうしてこの場所に胞衣を埋めたのかという理由については何も残っていません。

ただ私は、ここが外国から攻められもしやすい海上交通の要となる場所だったから、三韓討伐を成し遂げた際に神功皇后のお腹にあった胞衣を、お守り代わりに埋めたのかな、なんてことを思っています。

唐船塔

ここは、「唐船」という能のゆかりの地でもあると伝わっています。

「唐船」

祖慶官人(そけいかんにん)は唐の人で、明州に住んでいました。ある時、日本と中国の間で船争いがあり、祖慶官人は捕らわれの身となり、九州の筑前国箱崎の浦で、箱崎某という人に牛飼いとして使われるようになりました。彼はその地で妻を娶り、二人の子を儲けて十三年の時を過ごしていました。

 

祖慶官人は、明州に二人の子を残していたのですが、その子らは、父を帰国させようと、唐船に身代金となる財宝を積み込んで、箱崎まで遥々とやって来ました。中国の子どもたちと再会した祖慶官人は、大いに喜び、箱崎某も、その子らの親を思う気持ちに感心し、帰国を許しました。

 

さて、祖慶官人が船に乗ろうとすると、日本の子どもたちも同行したいといいました。しかし箱崎某は、牛飼いとして跡を継がせようと思っており、それを許しません。帰国を急ぐ中国の子、引きとどめようとする日本の子の板挟みとなり、祖慶官人は、進退を決められないと、岩から身を投げようとします。中国の子、日本の子は、互いに祖慶官人の袂にすがりつき、それを止めました。

箱崎某は、そうした親子の情にさらに感動して、日本の子の同行も許しました。祖慶官人は喜んで、子どもたち皆と一緒に船に乗り、船出します。喜びのあまり、官人は船中で楽を舞いました。やがて船は岸辺を離れて沖へ進み、さらに中国へと急いで行くのでした。

 

引用:the能ドットコム(https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_084.html)

物語では日本人妻のことについては全く触れていませんが、筥崎宮には、祖慶が腰を下ろして妻との別れを惜しんだという夫婦石もあります。
つまり、妻だけは1人で日本に残ったということで……切ない。

夫婦石の後ろにある大ぶりの塔が唐船塔で、唐から来た子供が、もし父が死んでいたら墓にしようと運んできた石塔だと伝えられています。

平安時代末、箱崎一帯には、かなりの規模の中国人の居留街が出来ており、さかんな対外交流が行われていたそうです。

「箱崎のいそべの千鳥親と子となきにし声をのこす唐船」
聖福寺の画僧 仙厓和尚

元寇

そして鎌倉時代中期には、当時モンゴル高原及び中国大陸を中心領域として東アジアと北アジアを支配していたモンゴル帝国(元朝)およびその属国である高麗が、日本に侵攻して来ました。

蒙古軍船碇石

少弐景資

蒙古襲来の際に活躍した少弐景資(しょうにかずすけ)の像が、飾られています。

亀山上皇

亀山上皇は、第九十代として即位された鎌倉時代の天皇です。
元寇に際して「身を以て国難に代わらん」と、全国の社寺に国家の安泰を祈願されました。
筥崎宮にある木彫ご尊像は、亀山上皇の御姿を彫刻として表したもので、博多区の東公園に立つ銅像の原型として明治時代に制作されたものです。

敵国降伏

筥崎宮楼門に掲げられる敵国降伏とは、亀山上皇が納められた御宸筆(天皇の自筆)を模写拡大したものです。
その意味は、武力によって相手を降伏させるではなく、徳の力をもって導き、相手が自ずから靡き降伏するという国のあり方を説いています。

新羅や他の国々を戦わずして降伏させたという神功皇后の生き様が、ここに息づいているように感じます。

筥松の周りには沢山の絵馬。
ひときわ大きく、福岡ソフトバンクホークスとアビスパ福岡の優勝・必勝祈願の絵馬があります。
このような平和な戦いだけが続くと良いなと私は思います。

関連情報

ゆかりの地

●筥崎宮

福岡県福岡市東区箱崎1-22-1

公式サイト:https://www.hakozakigu.or.jp/

●柴田徳商店

福岡県福岡市東区馬出2-22-22

公式サイト:https://www.shibatatokushouten.com

対応するラノベ古事記

●『朝鮮出兵』(原文)

● 天皇・人物 一覧

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Writer 筑前 ゆき

着物を着たり着なかったりして、主に福岡県内をウロウロ。マイブームは神功皇后ゆかりの地巡りとお遍路。参拝の為に山に登ったりもしています。

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