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ゆかりの地巡り
投稿日:2022/12/07 最終編集日:2022/12/02
鎮懐石
鎮懐石とは、神功皇后が安産を祈り身に付けられた石の事です。
神功皇后はお腹に赤ちゃん(応神天皇)がいる状態で新羅に向かいました。
その際に、卵型の二個の石を腰に付け、お腹と心を鎮めました。
帰国後、神功皇后がその石を、子負ヶ原の丘上にお手ずから拝納されました。
それを人々は「皇子産石(みこうぶいし)」「子産石(こうぶいし)」「子安石(こやすいし)」と呼び崇拝するようになり、子宝・安産の信仰が受け継がれてきました。
新羅征討の政務がまだ終わっていないうちに、皇后の身籠った御子が生まれそうになった。
そこで皇后はお腹を鎮めようとして、石を腰に付けて出産を抑えた。帰国して筑紫国に渡ってから、その御子は生まれた。
それで、その御子が生まれた地を名づけて宇美という。
またその裳に付けた石は、筑紫国の伊斗村にある。(『古事記』現代語訳)
鎮懐石八幡宮
古事記にある「筑紫国の伊斗村」。
これは現在の糸島市だとされています。
奈良時代にも、神功皇后の鎮懐石のことはよく知られていたようで、万葉集では山上憶良の歌が載っています。
萬葉集第五
筑前守山上臣憶良詠併序文
《以下、読み下し文》
筑前國怡土郡深江村子負原 海に臨める丘の上に二石あり 大きなるは長さ一尺二寸六分 圍一尺八寸六分 重さ十八斤五両 小さきなるは長さ一尺一寸 圍一尺八寸 重さ十六斤十両 並に皆楕圓にして状鶏の子の如し 其の美好しきこと論ふに勝ふべからず 所謂径尺の璧是なり
深江の駅家を去ること二十許里 近く路頭にあり 公私の往来に馬より下りて跪拝まずということ莫し
古老相伝へて曰く 往者 息長足日女命 新羅國を征討ましし時 茲の両の石を用ちて御袖の中にさし挿み箸けて以ちて鎮懐と為したまひき 所以行人此石を敬拝すといへり 乃ち歌を作りて曰く
<長歌>
懸けまくは あやに畏し 足日女 神の命 韓国を 向け平らげて 御心を 鎮めたまふと い取らして 斎ひたまひし 真玉なす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代に 言い継ぐがねと 海の底 沖つ深江の 海上の 子負の原に み手づから 置かしたまひて 神ながら 神さびいます 奇魂 今の現に 尊きろかむ
<反歌>
天地の 共に久しく 言ひ継げと
この奇魂 敷かしけらしも
御神体を見る事は出来ませんが、卵型の石2つと伝わっています。
昔の鎮懐石八幡宮本社は今の展望台にありました。
しかし祭事を行う際に狭いことから、昭和11年(1936年) に、今の場所に移動しました。
かつての場所には、現在は陰陽石と塞三柱大神がお祀りされています。
※実際の写真は鎮懐石八幡宮の公式ホームページ「陰陽石・塞の神」から見ることができます。
蚊里田八幡宮
八幡太郎こと源義家は、陸奥征伐に陣中の守護神として、九州福岡県怡土郡(いとぐん)蚊田(かだ)の里から、現在の長野県長野市に鎮懐石を運んできたと伝わっています。
神功皇后の鎮懐石伝説は北九州地方にも伝えられております。古事記、日本書紀、万葉集、筑前国風土記等にも鎮懐石に関する記述が認められますが、その姿形についてはいずれもはっきりとはしていません。しかしながら当社(蚊里田八幡宮)の鎮懐石は男根石と伝えられています。(『蚊里田八幡宮』公式HPより)
糸島市の鎮懐石八幡宮には卵型の石と伝わるのに、蚊里田八幡宮では男根型と伝わるとなると、「蚊里田八幡宮は間違いだ!」と言いたくなるところですが。
もしかしたら源義家が来た時にも、本社の場所に陰陽石があったのではないでしょうか。
御神体そのものを持っていくのは憚られて、あえて別の、似た効果を持つ石として陰陽石を鎮懐石として持っていったんだと考えると楽しいので、私はそう解釈する事にしています^_^
関連情報
●鎮懐石八幡宮
福岡県糸島市二丈深江2143-1
公式サイト:https://www.chinkaiseki.com/
●蚊里田八幡宮
長野県長野市若槻東条字蚊里田1313
公式サイト:https://www.karitahachiman.com
● 天皇・人物 一覧
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