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ゆかりの地巡り
投稿日:2025/01/19 最終編集日:2025/01/20
▼もくじ
はじめに
こんにちは!神武天皇最推し、古代史大好き、げぴこです。
日本の初代天皇・神武天皇の足跡を辿って行くシリーズ第2弾です。よろしければお付き合い下さい。
前回の記事では九州に複数ある神武天皇御生誕の候補地の一つ、鹿児島肝属郡肝付町(きもつきぐんきもつきちょう)にある伝承地と、その周辺にある神武天皇ゆかりの地を紹介しました。
(前回の記事です!未読でしたらぜひ!)
今回は神武天皇が天下を治める為に高千穂宮を出発して東征に向かう際に立ち寄った伝承地を紹介します。
高千穂宮とは
古事記 現代語訳より引用
カムヤマトイワレビコノ命(神武天皇)は、その同母兄のイツセノ命と二柱で、高千穂宮におられて御相談になって、「どこの地にいたならば、安らかに天下の政を執り行なうことができるだろう。やはり東の方に都の地を求めて行こうと思う」と仰せられて、ただちに日向から出発して筑紫国においでになった。
日本書紀にはどこを出発地として東征に向かったという具体的な記述はありませんが、古事記では高千穂宮で兄の五瀬命と相談をして東征に向かったとあります。
古事記ではこの後、豊国の宇佐→筑紫の岡田宮→安芸国の多祁理宮(たけりのみや)→吉備の高島宮→速吸門→…と続きます。
日本書紀でも多少ルートが前後したりしますが、速吸之門(はやすいなと)→筑紫国の宇佐→筑紫国の岡水門(おかのみなと)→安芸国の埃宮(えのみや)→吉備国の高島宮→…と言う風に、記紀共にほぼほぼ同じ様な東征ルートが記述されています。
(※速吸門は日本書紀では豊予海峡、古事記では明石海峡の古称だと言われています)
前回の記事で神武天皇の御生誕地の候補地は宮崎県・鹿児島県内で複数ある事に触れましたが、東征の出発地も天孫降臨の比定地とあわせて宮崎県・鹿児島県内に複数の伝承地があったりします。
神武天皇の故郷だけあって、九州には記紀には載っていない貴重な逸話が豊富にあるんですよね。
神武天皇の東征出発地点と言えば一般的に宮崎県日向市にある美々津港が有名では無いかと思うのですが、美々津以南にも出発地の伝承が数多く存在しています。
まずは宮崎県霧島市に伝わる高千穂宮伝承地をこの記事の1番最初の東征スタート地点として、その周辺にある神武天皇の足跡を辿って行きたいと思います。
東征スタート地点・高千穂宮伝承地
古事記には神武天皇が高千穂宮にて東征の相談をしたとありますが、天皇の祖父・彦火火出見尊も高千穂宮に五百八十年おいでになったと記述があります。
その伝承地がこの石體神社だと言われています。
当神社の位置は、御祭神の彦火火出見尊と妃の豊玉姫が都として高千穂宮を経営された正殿のあった場所で、そのまま社殿として祀ったのが鹿児島神宮です。その創始は神代とも、あるいは神武天皇の御代であったとも言われています。
和銅元年(708年)現在の鹿児島神宮の位置に遷り、その跡地に社殿を造ったのがこの石體神社です。
御祭神は彦火火出見尊と豊玉姫です。
また聖地古日向(昭和15年発行の皇祖発祥の古日向に於ける神代以来景行天皇に至るまでの聖蹟並びに伝説地を記したもの)によると、この地が彦火火出見尊の聖蹟である事、尊の御陵である高屋山上陵が近くにある事等から考えて、神武天皇が軍議を謀った高千穂宮伝承地であるとしています。
また、垂水市史にも神武天皇は国分石体神社(石體神社)辺りから神武天皇が東征に向けて出発したとあります。
古事記の文面からは彦火火出見尊のいた高千穂宮と神武天皇の高千穂宮が同一の宮居であったかは判断出来ませんが、この地が神武天皇にとって縁深い場所である事が分かりますね。
また、石體神社は古くより安産成就の神様として崇敬を集めており、境内に積まれた丸石を1つお守りとして持ち帰ると安産にご利益があると言われています。お産後は河原の清浄な小石を2個にしてお返しすると言う風習があります。
御祭神の豊玉姫は、御子神の彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)を、産屋の屋根の頭頂部分を鵜の羽でふき合わせない内にお産みになった程お産の軽かった方なので、その故事より安産の女神様として信仰を集めているそうです。
記紀を読んでいる時はそう感じなかったのですが、確かに豊玉姫はそのお産を見られた事で夫の彦火火出見尊と離別した印象が強く残ったのですが、お産が早く済んで安産だったと捉える事が出来ますね。
また、神社の由緒には「御祭神の彦火火出見尊と妃の豊玉姫が都として高千穂宮を経営された」とあります。ここの神社に伝わる伝承では離別せずに夫婦仲良く高千穂宮を運営していたのでしょうかね。
こちらは現在の鹿児島神宮です。大隅国の一宮で、主祭神はもちろん彦火火出見尊と豊玉姫です。
彦火火出見尊の御陵です。
日本書紀には彦火火出見尊は崩御されて日向の高屋山上陵に葬られたとあります。また古事記には高千穂宮に580年間おいでになり、御陵は高千穂の山の西にあるとだけ記述があります。
現在は明治7年(1874年)に宮内省によって治定された鹿児島県霧島市溝辺町麓菅口にある皇族陵が彦火火出見尊の御陵であるとされています。
鹿児島空港から北西へ2km、国道沿いに200余りの石段を登って行く標高390mの山頂にあります。
杉並木に囲まれた静寂漂う落ち着いた空間でした。空港からそれ程遠く無い場所にこんな落ち着いた場所があるのですね。
直接的には神武天皇の東征に関わりのある場所では無いですが、神武天皇の祖父である彦火火出見尊にゆかりのある史跡が霧島市には点在しています。
この土地が古くから神武天皇の東征出発地と語り継がれて来ても不思議ではないなあと思いました。
神武天皇と軍馬
霧島市国分重久春山原に東征の際に軍馬を出したとの伝説があり、春山牧と言われています。
この春山牧の他にも宮崎県高原町に残る「馬登(まのぼり)」や「鳥井原(ばる)」、同県日南市に鎮座する神武天皇の愛馬伝説が残る駒宮神社などがあり、南九州には神武天皇と馬を結びつける伝承が数多く存在します。
しかし、例えば日本書記の東征出発の時の移動の記述に「天皇は自ら諸王皇子・舟軍を率いて、東征に向かわれた。」とあったり、あくまでも移動手段は船か徒歩で、馬の利用は語られていません。
また大陸から日本列島に馬が伝わったには4世紀の終わり頃といわれています。日向で馬が飼われたのは5世紀位だと推測されています。5世紀頃と言うと第16代・仁徳天皇が政務を執り行っている時代です。神武天皇の時代とは大分時間の隔たりがありますね。
でな何故神武天皇と馬を結びつける伝説が存在するのでしょう?
南九州は放牧地に適した土地が多く、馬が非常に身近な存在でした。また、馬は権威の象徴とされる事が多いですから、後世の人が馬と神武天皇を結びつけて語り継いでいったのかもしれませんね。
また、古代から馬を神様の乗り物として神聖視して来ました。外来の馬を神話に取り入れる位、日本人の生活に溶け込んで無くてはならない存在になっていったのでは無いでしょうか。
矢竹とお腰掛岩
三国名勝図に篠田と言う地名があり、その地に神武天皇が東征の際に立ち寄られ、矢竹にこの山の篠竹を切らせたと言う伝説が残っています。
篠田
當寺境内にして、日吉社華表の近邊にあり、上古神武帝日向の國に在て東征したまふ時、御矢の箆出し所といひ傳ふ、今に篠竹の林藪なり、當寺は笛竹のみならず、太古より名産の竹あるを見るべし、
三国名勝図より引用
また、その近くに神武天皇が腰掛けられたと言う腰掛け岩があります。
向かって左側の大きな巨石が神武天皇お腰掛け岩です。腰掛けと言う位なので普通の椅子位の高さの岩を想像していたのですが、非常に大きな物でしたね。
腰かけると言うよりも岩の上に乗って国見をしていたいうニュアンスの方が合っているかもしれません。
神武天皇も大昔、ここに行幸に来られてこの巨石の上で大空を仰見て東征に想いを馳せていたのかなと想像するとワクワクしますね。
巨石の横には「神武天皇御駐蹕傳説地篠田」の記念碑が建立してあります。昭和15年12月、清水村と清水教育会が設置したものです。
神武天皇伝承とは直接関連性はありませんが、周辺史蹟として紹介させて下さい。
こちらは篠田にある神武天皇お腰掛け岩の付近にある台明寺日枝神社です。
御祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)です。
昔は日吉山王神社と言われていて、建仁3年(1203年)に台明寺一山を守護する尊社として創建されました。
台明寺は創建は不明で(白鳳元年とも)三十八代・天智天皇の御勅願の地とされていて、将軍家の文書数百通が同寺に格納されていたと伝えられています。
島津氏の崇敬も厚く、牧場増殖を祈願されたと鹿児島県畜産史にも見えます。しかし廃仏毀釈により明治2年(1869年)に廃寺となり、明治18年(1885年)の豪雨で山津波に遭い、残存する建築物等もほとんど無くなってしまったそうです。
本殿の造営は装飾などから見て明治20年(1887年)の改築時と考えられています。本殿は「七間社流造」と言う特殊な構造になっており、鹿児島県では唯一で全国的にも大変希少な神社です。
神社拝殿横には青葉の竹があります。この付近一体を昔から青葉山と称していて、大隈国名所の一つでありました。
天智天皇が九州を巡行された際に、境内の竹を笛竹として献上した所、笛の音が大変素晴らしく、それ以来竹を青葉を付けたまま貢納する様になったと言われています。
また、天智天皇から楠の木坂に笛像を刻して御下賜があった事も伝えられています。
この青葉の竹は今でも自生していて市の文化財になっています(昭和58年8月15日指定)
天智天皇はこの地に巡行される際に、自分の遠い遠い先祖がここから大和へ向けて出発した事にふと想いを馳せた…そんな時があったかもしれませんね。
神武天皇神子落伝説地
国分川内には神子落(かみこおとし)と言う地名があり、神武天皇がここの地域を通過した際に幼児を落としたと言う伝説が残っています。
標柱には神武天皇が通りかかった時、崖下に落ちた子どもを助けた、と詳細に説明書きがしてあります。
神子落と聞くと何だかドキッとする響きの地名ですが、神武天皇が子どもを助けた事に由来する名称だと分かると何だか安心しますね。
まとめ
以上、宮崎県霧島市に伝わる高千穂宮伝承地を東征スタート地点として、その周辺にある神武天皇の足跡を紹介しました。
因みに前回の記事では、九州に複数ある神武天皇御誕生地の候補地の一つとして、鹿児島県肝属郡肝付町の史跡を取り上げました。
神武天皇は幼少期を肝付町で過ごされ、その後祖父が宮を営んだ霧島にある高千穂宮へ拠点を移されたんですね。
因みに、この記事では霧島市にある国分石體神社を東征出発地点として紹介しましたが、史料によって順序や場所が微妙に異なっています。古代の事ですから、各地域によって伝えられる伝承も違って来ますよね。
次の記事では霧島市にある、国分石體神社以外の候補地を交えながら、神武天皇の足跡を紹介して行きたいと思います。
ここまでご覧頂きありがとうございました。
参考文献
『日本書紀 現代語訳』宇治谷孟 (講談社学術文庫 1988年)
『古事記(上)全訳注』次田真幸 (講談社学術文庫 1977年)
『古事記(中)全訳注』次田真幸 (講談社学術文庫 1980年)
『皇祖発祥聖蹟』岩元禧 (鹿児島史談会 1940年)
『高千穂峰 : 歌文集』斎藤茂吉 (改造社 1940年)
『神武天皇聖蹟高千穂宮に関する研究』紀元二千六百年鹿児島県奉祝会 編 (紀元二千六百年鹿児島県奉祝会 1939年)
『国分郷土誌』国分郷土誌編さん委員会 (国分市 1973年)
『三国名勝図会 第4巻』五代秀尭, 橋口兼柄 編纂 (青潮社 1982年)
『垂水市史 上巻』垂水市史編集委員会 編 (垂水市 1974年)
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