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皇祖・天照大御神と御杖代の物語~元伊勢を訪ねて~②

投稿日:2023/02/28 最終編集日:2023/12/16

倭姫命の物語


御杖代交代 豊鋤入姫命から倭姫命へ
御杖代交代 豊鋤入姫命から倭姫命へ

前回の記事の最後で、豊鋤入姫命から倭姫命へと、天照大御神の鎮座地を求める「御杖代」の役目が受け継がれた事を書きました。

https://kojiki.co/fun/article/motoise-amaterasu1/

倭姫命は豊鋤入姫命の姪に当たります。第十一代・垂仁天皇の第四皇女で、母は丹波道主王の娘・日葉酢媛命です。

垂仁天皇
垂仁天皇

日葉酢媛命
日葉酢媛命

今回の記事からはこの倭姫命を新たな御杖代として元伊勢伝承の足跡を辿っていきたいと思います。

また、神道五部書の一つである中世の経典・倭姫命世記(歴史書ではない)、及びその研究書「倭姫命世記注釈」、そして海部やおとめさん著・「倭姫の命さまの物語」という倭姫命世記の伝承を元に執筆された物語を参考に進めていきたいと思います。

(前回の記事と同じ様に、記紀に記載してある年号や時期と異なる部分がありますが、それを踏まえた上で、是非古代・中世で共有された倭姫命と天照大御神の物語を一緒に堪能出来たらと思いますのでよろしくお願いします…!)

ぜひお付き合いください。

アマテラスちゃんと倭姫命 新たなタッグで!
アマテラスちゃんと倭姫命 新たなタッグで!

宇多秋宮


倭姫命世記より

六十年癸未、大和の国の宇多秋宮に遷りたまひ、四年間の間を積て斎き奉りたまふ。時に倭の国造、采女香刀比売と地口の御田を進る。

倭姫命の御夢に、「高天原に、坐して吾が見し国に、吾を坐え奉れ」と悟し教へ給ひき。


崇神天皇60年(BC38年)倭姫命は大和国の宇多秋宮にお遷りになり、天照大御神を4年間お祀りになりました。

また、倭国造は、倭姫命に采女として香刀比売を、さらに稲田を進上しました。

倭国造と采女の香刀比売
倭国造と采女の香刀比売

この宇多秋宮の伝承地は、奈良県宇陀市大宇陀迫間に鎮座する阿紀神社付近が有力とされています。

阿紀神社
阿紀神社 鳥居

天照大御神を主祭神とし、瓊瓊杵尊、天之手力男命、八意思兼命、秋田比売神を配祀しています。

神代に神楽岡と言う地に創建され、崇神天皇の勅名で「神戸大明神」の号を賜るとされています。

先ほど倭国造が「稲田」を進上したと言いましたが、原文には「地口の御田」とあります。この語句について神宮の文書「大神宮諸雑事紀」、そして当社の境内に掲示してあった説明書きにもっと分かりやすく記されていました。

倭姫命が阿貴野の地に行幸された時、大和国造が神戸を奉り、その時以来阿騎野の地には神戸が十五戸と神田があったと。

この神戸とは神様のお供え物を作ったりお世話をする為に特別に選ばれた家の事です。神田とはその作物を作る神聖な田畑の事です。

伊勢周辺には二千戸余りの神戸と神田がありますが、伊勢以外にはただ一箇所神宮直轄の神戸が阿騎野に存在したとあります。

それ以来阿紀神社は神戸大神宮と呼ばれ、伊勢神宮にとっても元伊勢一番の宮として特別視されていたという事ですね。

また、「大和志」には神戸明神、「皇太神宮儀式帳」には宇太阿貴宮、「倭姫命世紀考」には神戸大神宮と記載されています。

安土桃山時代(天正年間)に現在の地に遷され、現在の社名へと改められたみたいですね。

阿紀神社
阿紀神社 社殿 唯一神明造 伊勢神宮内宮と全く同じ造りです。

因みに…この阿紀神社は神武天皇必勝祈願の地ともされています。

日向を出発された神武天皇は、浪速の戦いで賊軍に敗れ熊野へ迂回、陸路熊野の難所を北上、ここ阿騎野の地を前進基地と定め、天照大御神をお祀りになられ、必勝祈願をされ朝陽を背に国中へ進攻、ついに大和王権を樹立、初代天皇に即位されました。

また、ご祭神の一柱・秋田比売神とは大国主のお孫さんで、阿騎野の荒れた土地を開拓され、稲作を教え、天照大御神をお祀りしたのが神社の創始であるとも伝わっています。

神武天皇が天照大御神をお祀りした、大国主の御孫姫が天照大御神をお祀りした(大国主じゃないんだ…)

同じ神社で同じご祭神でもそれぞれに祀った人物が違う伝承が伝わっているのが面白いです!

倭姫命はなぜ弥和乃御室峰上宮を出て最初に天照大御神の鎮座地をこの地に決められたのか…神武東征の際に必勝祈願をされた場所だからか?また、どうして大国主命の御孫姫が天照大御神を祀ったのか?

もしかしたら…何か政治的な事情もあったのかもしれません。

本当はどうだったかは知る術もありません。しかしそんな事よりも、地元の方にとって、この地が倭姫命巡行の地である事はきっと喜ばしい事であろうな…と感じますね。

阿紀神社
阿紀神社 境内社 第一殿には日臣命(道臣命・大伴氏の祖)・月夜見命・大国主命、第二殿には事代主命・品陀別命・和多津見命、第三殿には須勢理比売命

佐佐波多宮


倭姫命世記より
此より東に向ひて、乞ひ宇気比て詔はく、「我が思刺して住く処、吉からむならば、未だ夫に嫁はざる童女相へ」と祈禱して幸行したまふ。

時に佐佐波多が門に、童女参り相へり。則ち問ひて給はく、「汝は誰そ」とのたまふ。答へて曰はく、「奴吾は天見通命の孫に、八佐加支刀部〈一名は伊己呂比命〉が児宇太の大祢奈」と白しき。

また詔して曰はく、「御共に従ひ仕へ奉らむや」とのたまふ。

答へて曰さく、「仕へ奉らむ」とまをしき。則ち御共に従ひて仕へ奉る。件の童女を大物忌と定め給ひて、天磐戸の鑰領かり賜はりて、墨心を無くして、丹心を以て、清潔く斎き慎み、左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を左にし、右を右にし、左に帰り右に廻る事も、万事違ふ事なくして、太神に仕へ奉る。

元を元にし、本を本にする故なり。

また弟大荒命、同じく仕へ奉る。宇多秋宮より幸行して、佐佐波多宮に坐します。


次なる元伊勢は佐佐波多宮です。

佐佐波多宮の伝承地の候補地の一つが篠畑神社です。奈良県宇陀市榛原山辺三に鎮座しています。

篠畑神社
篠畑神社 鳥居の色がふんわりピンク色なのが特徴的 倭姫命ゆかりの神社にぴったり!?

なぜ倭姫命がこの地を選ばれたか、その経緯を説明しますと…

ある時、倭姫命は大和の宇多秋宮にて夢を見ます。その夢に天照大御神が現れてこう告げられます。「高天原にあって私が見た国に、私を鎮座申し上げよ」と言われます。そこで倭姫命はこの地から東に向かて誓約をします(出ましたね誓約!古事記や日本書紀に数多く出てくるあの誓約!)

「私が思い目指して行く処がもし天照大御神の御心にかなう地であれば、まだ夫に嫁がない童女よ、私に出会え」と祈願されて幸行されます。


その時佐佐波多の入り口で参上する童女に出会います。

「汝は誰か」と名前を尋ねると、その童女は答えます。

「天見通命の孫、八佐加支刀部(やさかきとめ)の子・宇太の大祢奈(おおねな)と言います」

そして倭姫命に自分のお供として仕えるか聞かれ、お仕え申し上げる旨を伝え、倭姫命の旅に付いていく事になったのです。仲間が一人増えましたね!

倭姫命は、大祢奈を天照大御神の身近に仕える大物忌と定められます。

大物忌とは伊勢神宮にお仕えした未婚の童女の事であり、天照大御神に朝夕の大御饌をお供えし、正殿の扉の開閉などの神事を司る重要な役割を担っていました。

大祢奈
大祢奈

大祢奈命、自身の系図を説明する
荒木田氏系図 大祢奈ちゃん、自身の系図を説明する

また弟の大荒命も姉の大祢奈と同じく倭姫命にお仕えします。更に仲間が増えましたね!

大荒命
大荒命

そして、倭姫命は宇多秋宮より行幸されて、大和国の佐佐波多宮にお遷りになり、天照大御神をお祀りになりました。

篠畑神社
篠畑神社 本殿


ご祭神は天照大御神 境内社には佐佐波多姫(篠畑姫神とも)が祀られています。

篠畑神社由緒書き看板より

「日本書紀」の垂仁天皇25年3月丙申の条に倭姫命が天照大神を祭祀するにふさわしい土地を求めて菟田篠幡に至り、更に還って近江国から東美濃を廻って伊勢国に入り伊勢神宮を創祀されたという話が採録せられている。

のち、この頓宮の置かれた篠幡の地に天照大神を主祭神と崇めて鎮祭したのが本社の創祀であると伝えられている。「皇大神宮儀式帳」には、「佐佐波多宮」と出されており、平安初期にはこの社の原形になるようなものが成立していた可能性はある。

日本書紀にも垂仁天皇25年(BC5年)姫命が「宇陀の篠幡」に巡行したとの記述があります。

しかし、倭姫命世記では、崇神天皇の御代にこの巡行があったという風に記されています。垂仁天皇の御代の話を、崇神天皇の御代にまで遡らせたのかもしれませんね。但し、伝承を更に昔に遡らせたからと言って、そこにある伝承全てが机上の創作とは安易に判断出来ないでしょう。

篠畑神社 境内社
篠畑神社 境内社 佐佐波多姫を祀る

境内社には倭姫命が天照大御神の神霊を遷座する際に援助したと伝わる当地の佐佐波多姫が祀られています。

この境内社に祀られている佐佐波多姫は、大祢奈の事であると言われています。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年

当社は、宇陀郡榛原町大字山辺三に鎮座しており、天照皇大神、市杵島姫命をお祀りしている。国史現在社とし明治6年4月村社に昭和10年県社に列せられる。
創立 垂仁天皇25年春3月倭姫命、鎮座の処を求め、菟田の篠畑に至るとあり、他 類聚国史3倭姫世記、日本書記通證10、日本紀標註巻7、造伊勢二所大神宮宝基本紀、大和誌(篠畑神祠)倭漢三才図会、神器考證等古文書に篠畑の記載あり、往古は栄えしも明治24年頃氏子27にて氏神となす。秋の例祭に倭姫命に供奉せる童女に因み、稚児7人の奉仕あり、鱠(えそ)を供える事から「鱠祭り」とも言う。

倭姫命に仕えた童女・大祢奈に因むお祭りが毎年10月体育の日に執り行われるそうです。

倭姫命と大祢奈
倭姫命と大祢奈

隠市守宮

倭姫命世記より

六十四年丁亥、伊賀の国の隠の市守宮に遷幸なりまして、二年斎き奉る〈伊賀の国は、天武天皇庚辰歳七月、伊勢の国の四群を割きて、かの国を立つ〉。

崇神天皇64年(BC34年)、倭姫命は伊賀国の隠市守宮にお遷りになり、天照大御神を2年間お祀りになりました。

隠市守宮の伝承地の候補地の一つが、宇流冨志禰神社です。三重県名張市平尾に鎮座しています。

宇流冨志禰神社HPより

由緒として、当社は天正伊賀の乱(1580年)で、社殿はもちろんの事、宝物や古文書など、すべて焼き討ちにあい消失された。

 したがって、記録的なものは残されていないが、本殿の境内地に元久2年丑(1205年)の銘が入っている石燈篭があり、元和2年12月20日の棟札があり、この年に再建されたものと思われる。
崇神天皇の時、「倭姫世紀・神宮後鎮座記」に伊賀陰志守宮二年奉斎とあり、これによって当社にも倭姫の巡行があったことが記されている。

 また、「三代実録」によれば、清和天皇、貞観15年(873年)9月27日に宇奈根神、従五位上とあり、その後徐々に位を上げ、円融天皇、永徳元年辛酉2月24日(1387年)従一位を授かる。

天武天皇のとき、圭田42束、四箇所の神田をもって祭祀し放正会を行われ、官幣の奉幣を受けること11回に及ぶ。

また後に、伊賀の領主である筒井定次の重臣の松倉豊後守勝重が名張に着任し、新領を寄進され、また寛永13年に藤堂宮内少輔高吉により更に神領を寄進された。

 その後、祭祀には乗馬が出され、累代尊崇の社のして以来、名張の氏神として崇拝され現在に至っている。

当神社は延喜式内で、伊賀二十五社の内の一社であり、明治14年11月に県社に認定される。

ここの神社だけの事では無いのですが、戦乱のせいで神社に伝わる書物や宝物が失われるって本当に痛ましいですよね。神代から伝わっていた伝承を書き記した貴重な書物だったかもしれないのに…と思うと残念。

宇流冨志禰神社 鳥居
宇流冨志禰神社 鳥居

丁度訪れた時、婦人会の催しの為に多くの人が来られてましたね。

お祭りや御祈祷以外でもこうして地域の方達が集まれるのって良いですね。

各地の神社でも地元の人達がもっと気軽に集まる機会が増えたら良いなあ…。

宇流冨志禰神社 本殿
宇流冨志禰神社 本殿

主祭神は宇奈根命(うなねのみこと)祀られています。

他にも、武甕槌命、經津主命、天児屋根命、姫大神など…多数祀られています。

特にこの四柱は春日神ですね。武甕槌命・經津主命は藤原氏の守護神、天児屋根命・姫大神は中臣氏の祖先神として厚く崇敬を集めている有名な神様ですね。

この周辺に荘園を持っていた藤原氏が、同じく名張市にある積田神社より勧請したと言われているそうです。

一方でこの主祭神である宇奈根命はあまり聞きなれない神様ですね。どんな神様かというと水神・穀物神であると言われています。

名前の由来は元々の御神体である赤石が置かれた場所が名張川のうねりの側にあった事からうねる→うなね→宇奈根になったと言います。

この土地固有の神様なんですね。

またこの由来により、宇流冨志禰神社の名前も『潤うふし水』という語源を元に出来たと伝えられています。

宇流冨志禰神社 境内
宇流冨志禰神社 境内

とても雰囲気の良い神社でした。

穴穂宮

六十六年己丑、同じ国の穴穂宮に遷りたまひ、四年を積て斎き奉る。その時、伊賀の国造、篦山・葛山の戸、並びに地口の御田、細鱗魚取る淵、梁作す瀬等を進る。朝の御気、夕の御気に共え進る。

崇神天皇66年(BC32年)、倭姫命は同じ伊賀国の穴穂宮にお遷りになり、天照大御神を4年間お祀りしました。

穴穂宮の伝承地の候補地の一つが、神戸神社です。三重県伊賀市上神戸に鎮座しています。

御祭神は大日孁貴命(天照大御神の別名)

明治時代より以前は穴太宮と呼ばれていましたが、明治時代になると周辺の神社三十数社を合祀して、新たに神戸神社と称する様になったそうです。

明治時代って神社の合祀が盛んに行われたんですよね。現代人には分からない事情というものも多分にあると思いますが、各地にあった小さい神社が無くなっていくという事がなんとも寂しいものでありますね。

神戸神社 水田と一緒に
神戸神社 水田と一緒に

神社と水田の組み合わせって凄く合いますよね。古来より日本の風景にあったものだからでしょうか、水田の水面に反射する神社が綺麗です。

神戸神社
神戸神社 本殿

倭姫命がこの地を訪れた際、伊賀の国造が、天照大御神の朝夕の御饌にお供えする為に、篦山(みふじやま)、葛山の家と稲田を進上しました。

伊賀の国造
伊賀の国造

また、鮎が採れる淵と簗が仕掛けてある瀬などを進上しました。

現在でも、伊勢神宮への鮎の献納や神宮神田での御田植えの奉仕が行われているそうです。

社殿は伊勢神宮の式年遷宮で内宮別宮の風日祈宮から下賜された古材を使用し、20年毎に新しく建て替えられています。

境内 「さざれ石」
天皇陛下御即位三十年奉祝 記念碑
境内 「さざれ石」 天皇陛下御即位三十年奉祝 記念碑

敢都美恵宮

倭姫命世記より

活目入彦五十狭茅天皇の即位二年癸巳、伊賀の国の敢都美恵宮に遷りたまひ、二年斎き奉る。

垂仁天皇2年(BC28年)、倭姫命は同じ伊賀国の敢都美恵宮にお遷りになり、天照大御神を2年間お祀りしました。

敢都美恵宮の伝承地の一つが、敢國神社です。三重県伊賀市一之宮に鎮座しています。

敢國神社 本殿に続く大階段
敢國神社 本殿に続く大階段

創建は斉明天皇4年(658年)。主祭神は大彦命です。第八代孝元天皇の第一皇子です。四道将軍の一人として北陸道に派遣されたという伝承が有名な英雄ですね。配祀に少彦名命、金山比咩命。

大彦命
当神社の主祭神である大彦命

大彦命は崇神天皇の勅令により、子・建沼河別命と共に北陸・東海を平定し、立派に四道将軍の使命を果たされました。

平定後は大彦命率いる一族は伊賀の国に住まわれ、その子孫は伊賀の国中に広がり、特に阿拝(あえ)郡を中心に移住した為、阿拝氏を名乗るようになりました。

「あえ」とは「あべ」の原音であり、あべ姓の総祖神でもあると共に伊賀の人達の祖神でもあるという事らしいです。

敢國神社 御手水
敢國神社 御手水

木漏れ日の中の敢國神社

大彦命に北陸平定の勅令を下したのは第十代・崇神天皇です。

天照大御神を宮中に祀るのは畏れ多いとして、宮中の外で祀る様にしたのはこの方です。元伊勢伝承の始まりの方とも言える訳です。

当神社のご祭神は天照大御神や倭姫命に特別に所縁が深い方という訳ではありませんが、どこかで遠く繋がっているなあと感じますね。

甲可日雲宮

倭姫命世記より

四年乙未、淡海の甲可の日雲宮に遷りたまひ、四年斎き奉る。時に淡海の国造、地口の御田を進る。

垂仁天皇4年(BC26年)、倭姫命は淡海国の甲可日雲宮にお遷りになり、天照大御神を4年間お祀りしました。

甲可日雲宮の伝承地の候補地の一つが、日雲神社です。滋賀県甲賀市信楽町牧に鎮座しています。

特に甲可日雲宮の伝承地は候補地が多いのですが、今回当社を選んだのは、ご祭神が天御中主神様だからです。

古事記で最初に出現した神様ですね!

天御中主神を祀る神社って少ない様に思いますぜひこの機会に古事記の最初の神様にご挨拶したいと思い参拝しました。

日雲神社
日雲神社

神社由緒より

伊勢神道五部書 倭姫命世紀にある甲可日雲宮が即ち本社の起源であるとされ、もとは牧、宮町、黄瀬三村の氏神で、鎮座地が小字上野である所から上野山天神と呼ばれた。 別当寺として天徳寺があったが、明治の神仏分離により廃寺となった。 文政五年宮町、黄瀬は氏子より離れ、現在は牧のみを氏子とする。明治九年十月村社となり、同十八年許可を得て社名を日雲神社と改めた。 現在の本殿は元禄四年の再建とされている。


本殿 は三間社流造檜皮葺で、元禄4年(1691年)に建立されたと伝わっています。中世以来の近江の流造本殿の伝統を伝えるものとして国登録有形文化財建造物に登録されています。

日雲神社 本殿
日雲神社 本殿

拝殿には「修理国固」の文字が入った垂れ幕が。

古事記より 

伊耶那岐命・伊耶那美命二柱の神に、「多陀用弊流国を修理せ」として、沼矛ひて言依し賜ひき。

イザナギ命・イザナミ命二柱の神に、「この漂っている国土をよく整えて、作り固めよ」と仰せられて、神聖な矛を授けて御委任になった。

あの古事記に出てくるあの一文…!全てはここから始まったんですよね。

日雲神社 夕日と一緒に
日雲神社 夕日と一緒に

神社を後にする時にとても綺麗な夕焼けが…。倭姫命もこの地に滞在していた時に同じ夕日を何度も見ていたかもしれません。

坂田宮

倭姫命世記より

八年己亥、同じ国の坂田宮に遷幸なりまして、二年斎き奉る。時に坂田君等、地口の御田を進る。

垂仁天皇8年(22年)、倭姫命は同じ淡海国の坂田宮にお遷りになり、天照大御神を二年お祀りしました。

坂田宮の伝承地が、坂田神明宮です。滋賀県米原市宇賀野に鎮座しています。

ご祭神は天照大御神・豊受大神。

倭姫命がこの地へ来られた日、坂田郡の人々は豪族・坂田公と共に天照大御神を迎え敬ってお祀りし、里人の奉仕によって神殿が設けられたとの事です。

坂田の君
坂田の君

またこの宮所でその年の秋の新嘗祭、そして翌年のお祭りも丁重になされ神楽の祝いも賑やかに行われたと伝わります。

里の人達は倭姫命が次なる地へ出発する時も名残惜しそうに見送り、天照大御神がこの地に2年間奉斎された事を永く記念する為、その宮所とされた神殿をそのまま天照大御神の宮所とされました。これを坂田宮と呼びます。

そして神田から採れた御供を捧げました。

更に食物の神・豊受大神の神殿も天照大御神の社と並べて奉斎、倭姫命の社も建立されました。

坂田神明宮 鳥居 つつじの花と一緒に
坂田神明宮 鳥居 つつじの花と一緒に

現在の社殿は伊勢神宮に倣って内宮外宮の御社殿を中心に、境内外社に内宮の七別宮と外宮の四別宮、そして倭姫命の社も祀ってあります。

またこの坂田宮は伊勢神宮の御厨(みくりや)であった坂田御厨が置かれた地でもありました。御厨とは神様への捧げ物を調進する為の領地や場所の事です。

その起源は倭姫命が当地に来られた時に捧げられた神田にあると言われています。

元伊勢の中でも特に重要視されている印象を受けますね。

坂田神明宮 本殿
坂田神明宮 本殿

境内の池がきれい
境内の池がきれい

伊久良河宮

倭姫命世記より

十年辛丑、美濃の国の伊久良河宮に遷幸なりまして、四年年斎き奉る。

垂仁天皇10年(BC20年)、倭姫命は美濃国の伊久良河宮にお遷りになり、天照大御神を4年間お祀りしました。

伊久良河宮の伝承地の候補地の一つが、天神神社です。岐阜県瑞穂市居倉に鎮座しています。

史蹟 伊久浪河宮跡 石碑
史蹟 伊久浪河宮跡 石碑

本殿へと続く道
本殿へと続く道

当神社のご祭神は高皇産霊神・神皇産霊神です。

拝殿
拝殿

長い拝殿
長い拝殿

この奥行きのある拝殿より参拝します。

本殿
本殿

この神社の大きな特徴の一つとして、境内に「御船代石(みふなしろいし)」が安置してあります。神様の宿る石とい意味ですね。

神社由緒によると、この辺りが伊久良河宮として天照大御神がお祀りしてあった場所らしいです。

古い絵図には御船代石の前にも拝殿があり、その事からもずっと大切にお祀りされてきた事が分かりますね。

神殿に神を祀る形式よりも古い神道形式ですね。

社殿が建てられる以前はこの地一帯が禁足地だったらしく、神獣文鏡などの祭祀遺物が出土しています。古くからこの地が人々から崇敬を集めていた事が分かります。そんな場所だからこそ、倭姫命もこの地を選ばれたのではないでしょうか。

御船代石 その奥にある境内社はそれぞれに伊勢神宮の分霊と倭姫命を祀る
御船代石 その奥にある境内社はそれぞれに伊勢神宮の分霊と倭姫命を祀る 御船代石の北側は神明神社、西側は倭姫命神社 

伊勢を目指して

倭姫命
倭姫命

今回の記事では宇多秋宮から伊久良河宮の伝承地を辿ってみました。倭姫命は順調に伊勢を目指している様に思われますね。

元伊勢伝承地を参拝したり調べていく内に思った事は、天照大御神という女神様は王権の中でとても大切にされてきた神様なんだあと再認識した事ですね。皇祖神だから当然と言えば当然なんですけど、物凄く心を割いて当時の祭祀に関わる人達が丁重に祀ってきたんだと思います。これだけ各地に元伊勢と呼ばれる地があると言う事はそういう事かなと…。

古事記の崇神天皇の段で三輪の大物主神が祟りを起こして国内に疫病を流行らせた事は前回の記事でも書きました。

大物主神が初代天皇の皇后を輩出し、王権と非常に近しい外戚であったにも関わらず、崇神天皇の時代にはその後裔をちょっと探さないと行方が分からなくなってしまった程、零落していましたよね…そして祭祀が廃れてしまっていた…だから祟りを起こしたと記されています。

日本の神様は怒る、祟る、ちゃんと丁寧に祀らないととんでもない事が起こる。きっと皇祖神である天照大御神に関してはそういう事が決して起こらない様に、手厚く祀られていたんでしょうね。

そして俗世とは切り離された美しい鎮座地を求めて遥かな旅が始まったんですね。

調べれば調べる程、元伊勢に関する伝承が出てきてこのテーマは本当に沼だなと…改めて思います。

引き続き倭姫命の足跡を追っていきたいと思います。

桜舞い散る中の倭姫命
次なる鎮座地へ…!倭姫命の旅は続く
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Writer げぴこ@らくがき日本の歴史

古事記や日本書紀、神社の伝承を調べたりするのと、絵を描くのが好きなアラサー女子です。神武天皇と五瀬命が控えめに言って大好き。宇摩志麻遅命も好き。

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