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ゆかりの地巡り
投稿日:2022/06/04 最終編集日:2022/06/04
はじめまして!
福岡在住、筑前ゆきと申します。
私はある時、地元の地名が神功皇后ゆかりと知り、福岡県内にたくさんの神功皇后の伝承があることを知りました。
古事記と、その地その地の伝承とを比較しながら巡るのがとっても楽しいので、それを皆様にもお伝え出来たらと思います♪
普段は主に福岡県内を巡っていますが、今回はそこを飛び出し、穴門の豊浦宮の跡地とされる忌宮神社に行って来ました。
▼もくじ
穴門の豊浦宮(とよらのみや)
『古事記』や『日本書紀』に登場する、14代仲哀天皇の皇居の名前。
現在の山口県下関市にあったとされます。
天皇は九州の熊襲を平定する為に、皇居豊浦宮を興して、7年間政治を行われました。
帯中日子天皇、坐穴門之豊浦宮、及筑紫訶志比宮、治天下也。(『古事記』)
≪現代語訳≫
帯中日子天皇(仲哀天皇)、穴門の豊浦宮と筑紫の訶志比宮で政治を行った。
※「豊浦宮」は他に、奈良県明日香村豊浦にあったとされる33代推古天皇の皇居もあります。
『古事記』『日本書紀』等に登場する、現在の九州南部に本拠地を構え、大和王権に抵抗したとされる人々。
12代景行天皇の時代には、小碓命(後のヤマトタケル)が熊襲を鎮圧しています。(『日本書紀』では小碓命に先立ち景行天皇自身が鎮圧しています。)
隼人と呼ばれた人々と同じとする説もあり、その場合は海幸彦が始祖となりますし、「薩摩隼人」というように薩摩の人々と繋がっていきます。
安土桃山時代や幕末の薩摩勢を考えると、中央政権と九州南部の人々との対立は古代から続いていたのかなーと、私は思っております。
忌宮(いみのみや)神社
豊浦宮に附属して斎宮を建て神祇を祭られたのが忌宮の起こりと伝えられています。
また、仲哀天皇が崩御された際に御遺体を忌宮神社より南方の土肥山に仮埋葬しましたが、その神霊を鎮祭し豊浦宮と称した後、聖武天皇の時代に訶志比宮から神功皇后の神霊を勧請して忌宮と称し、さらに応神天皇をお祀りして豊明宮と称した三殿別立の古社でしたが、中世における火災の際中殿忌宮に合祀して一殿となり、 忌宮をもって総称するようになりました。
私は「忌」という字を見て「忌まわしい」とか「忌み子」とか、悪いイメージを持ってしまったのですが、ここでの「忌」は「斎」と同じ意味であって、特にネガティブな意味はないようです。
新羅国の塵輪の首、鬼石
社殿より前の広場に、何か書いてあります。
ここで、衝撃の事実!!
第十四代仲哀天皇は九州の熊襲の叛乱を平定のためご西下、ここ穴門豊浦に仮の皇居を興されたが仲哀天皇七年旧暦の七月七日に朝鮮半島の新羅国の塵輪(翼のある鬼のような人々)が熊襲を煽動し豊浦宮に攻め寄せた。
なんと、新羅が熊襲に仲哀天皇の皇居を襲うよう仕向けたとのことです!
重大事件です!!これが、後の神功皇后の朝鮮出兵へと繋がってくるわけですね⁉
古代の朝鮮半島南東部にあった国家。
朝鮮半島には他に、南西部に百済、北部に高句麗などがありました。
『古事記』『日本書紀』では11代垂仁天皇の時代にアメノヒボコという新羅の王子が渡来してきたとあり、神功皇后はその血を引いているとされます。
阿部(藤之)高麿は勝村大神、阿部(藤之)助麿は勝頼大神といい、宮地嶽神社に祭神として祀られています。
勝村大神・勝頼大神は「神功皇后の三韓征伐に随従した神」と説明されている場合もありますが、どうやら、日本国内で新羅と戦って討ち死にした兄弟のようです。
蚕種渡来の地
いまから約千八百年のむかし中国より秦の始皇十一世の子孫功満王が来朝帰化しここ豊浦宮にご滞在の仲哀天皇に蚕種(カイコの卵)を 献上したのが、わが国養蚕の始まりと伝えられる。
なんとこちらは、中国からの献上品として蚕種がもたらされたよという話。
あらあら、豊浦宮はなんて国際交流が盛んなところなんでしょう!
神功皇后という新羅の王族の血が入った女性を正妻としたのも、そもそも外交の為だったのかもしれません。
もっというと、外交を得意としていた女性が、皇后の座を手に入れたのかもしれませんね。
豊浦宮で政治を行っていた仲哀天皇でしたが、新羅に襲われたことをきっかけにでしょうか。
翌年1月、筑紫(福岡県)に向かうこととなります。
関連情報
● 長門二宮・旧国幣社 忌宮神社
住所:山口県下関市長府宮の内町1-18
公式サイト:http://iminomiya-jinjya.com/
● 『神功皇后の神がかり』 (原文)
● 天皇・人物 一覧
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