古事記FUN!! ロゴ

そもそも古事記とは
ラノベ古事記 月間約50万PVを記録!

日本の神話・古事記の情報発信サイト

宮崎県の高原町に残る神武天皇御誕生地とその周辺に残るゆかりの地~神武東征シリーズ⑤~

ゆかりの地紹介

宮崎県の高原町に残る神武天皇御誕生地とその周辺に残るゆかりの地~神武東征シリーズ⑤~

投稿日:2026/08/30 最終編集日:2026/08/30

はじめに

こんにちは!神武天皇最推し、古代史大好き、げぴこです。

日本の初代天皇・神武天皇の足跡を辿って行くシリーズ第5弾です。よろしければお付き合い下さい。

前回の記事では、鹿児島県肝属郡肝付町の波見港から御発航された神武天皇の足跡を、志布志湾沿いに残る伝承地を中心に紹介しました。

(前回の記事です!未読でしたらぜひ!)

これまで4回に渡って鹿児島県内に残る神武天皇の御生誕地、御発航地、ゆかりの地などを紹介して来ましたが、今回からいよいよ宮崎県に入ります。

宮崎県にも神武天皇にまつわる史跡や伝承地が沢山残されています。

その中でも特に神武天皇との結びつきが深い場所の一つが、霧島連山・高千穂峰の麓に位置する宮崎県西諸県郡高原町(にしもろかたぐんたかはるちょう)です。

実は神武東征シリーズ第1回の記事でも、

「個人的に宮崎県にある高原町が神武天皇の御生誕地として一般的に広く認知されている印象があります」

と少しだけ触れていました。

今回は満を持して、その高原町に伝わる神武天皇御生誕の伝承と、幼少期を過ごされたと伝わる場所、更には高原町から宮崎へ向かわれたとされる御東遷の足跡まで辿ってみたいと思います。

神武天皇御生誕の地・皇子原

皇子原神社
皇子原神社の本殿
皇子原神社の本殿

こちらは高原町の皇子原公園内に鎮座する皇子原神社(おうじばるじんじゃ)です。

御祭神は神武天皇。

神武天皇がこの地で御生誕されたと伝えられており、幼少期の御名である狭野尊(さののみこと)にまつわる伝承が周辺一帯に残されています。

皇子原神社は、第5代孝昭天皇(懿徳天皇5年/BC506年~孝昭天皇83年/BC393年)の御代に神武天皇御生誕の地に創建されたと伝わる狭野神社の元宮とされている場所です。

皇子原神社
皇子原神社

現在は狭野神社の末社として祀られています。この一帯には皇子原神社だけではなく、皇子滝、皇子川原、御池の皇子港など、「皇子」の名が付く場所がいくつも残っています。

一つ一つの伝承を辿って行くと、後に大和を平定して初代天皇となられる神武天皇が、この霧島の山々に囲まれた土地で生まれ、遊び、成長されていった姿が浮かんで来てとても感慨深いです。

神武天皇御生誕の霊跡・産場石
産婆石
産婆石 大小2つの石が並んでいる

皇子原神社の拝殿後方には、神武天皇御生誕にまつわる産場石(うべいし)と呼ばれる二つの石があります。

『高原町史』によると、この場所に産屋を建てて神武天皇が御生誕されたと伝えられており、その跡に二つの石が並べて建てられたと言います。

また非常に興味深い伝承も残っています。

霧島山は古来より幾度となく噴火を繰り返して来ました。

その噴火によって周辺の岩石は失われたり色が変化したりしたにも関わらず、この二つの産場石だけは少しも色が変わらなかったと言い伝えられているそうです。

火山の麓に伝わる御生誕伝説らしい、不思議なお話ですよね。

また皇子原神社の由緒によると、この産場石は古くから「安産」の神様として崇敬され、石の表面を撫でると安産が出来ると伝えられて来たそうです。

皇子原神社由緒
皇子原神社由緒
皇子原神社
皇子原神社

神武天皇がお生まれになった場所が、後世には新しい命の誕生を守る場所として信仰される様になったのですね。

「初代天皇が生まれた場所」という伝承だけで終わらず、現在まで安産信仰として人々の暮らしの中に受け継がれている所が素敵だなと思います。

生まれたばかりの狭野尊を抱く玉依姫
生まれたばかりの狭野尊を抱く玉依姫

御生誕にまつわる地名

皇子原神社周辺には、神武天皇御生誕に関係するとされる地名が数多く残っています。

祓原・祓川
祓原・祓川
祓原・祓川 標識
祓川のせせらぎ
祓川のせせらぎ

狭野尊(神武天皇)が御生誕された際に、穢れを祓われた場所と伝えられているのが祓原(はらいばる)です。

また、その祓原から湧き出る清水を祓川(はらいがわ)と言い、狭野尊の御祓いの際にこの水を汲まれたと伝えられています。

神武天皇御生誕という一つの出来事を中心に、産屋だけでは無く、御祓いをした場所や水を汲んだ川まで地名として残されているんですね。

赤池・血捨木
赤池 標識
赤池 標識
血捨之木 標識
血捨之木 標識

赤池・血捨木(ちしゃのき)も神武天皇御生誕に関係する伝承地です。

狭野尊御生誕の際の穢れを捨てられた場所であると言い伝えられています。

「血捨木」と聞くと少し物々しい名前に感じますが、出産という出来事に関係した地名と知ったら安心しますね。

こうした御生誕に関係する地名が皇子原周辺に集中して残っている事からも、この土地の人々が長い年月に渡って神武天皇の誕生を非常に大切な出来事として語り継いで来た事が伝わって来ます。

神武天皇の幼少期の伝承

高原町が面白いのは、神武天皇の御生誕地だけではありません。

「ここで生まれた」という伝説だけではなく、幼少期の神武天皇がどの様に過ごされたのかを伝える場所まで残されています。

後に日本の初代天皇となられる人物にも、当然ながら子ども時代がありました。

高原町の伝承を辿っていくと、「神武天皇」という遠い神話時代の人物が、一人の少年として少し身近に感じられて来ます。

神武天皇が腰を掛けられた御腰掛石
御腰掛石
御腰掛石

皇子原神社へ向かう参道途中、石段の横には御腰掛石があります。

幼少期の狭野尊が腰を掛けられたと伝えられている石です。

神武天皇の腰掛石はこれまでの記事でも鹿児島県霧島市の篠田などで紹介して来ましたが、高原町にもこうした伝承が残っているんですね。

後に大和へ向かわれる勇ましい神武天皇では無く、この頃はまだ地元の山野を歩き回っていた一人の少年だったのでしょうか。

そんな事を想像しながら見ると、ただの石が急に特別なものに見えて来ますね。

皇子権現
皇子権現 標識
皇子権現 標識

神武天皇の兄弟の宮居の跡が皇子権現と伝えられ、現在では皇子原神社に移転されています。

皇子河原
皇子河原 標識
皇子河原 標識

幼少期の狭野尊がこの一帯の山野を駆け巡って遊んでおられたと伝えられています。

皇子滝
皇子滝 提供 宮崎県
皇子滝 提供 宮崎県

皇子原公園からたかはる清流ランド方面へ向かう途中には、皇子滝(おうじたき)があります。

たかはる清流ランド
たかはる清流ランド

この滝では幼少期の狭野尊が遊ばれたと伝えられています。

初代天皇・神武天皇と言うと、どうしても東征の際に弓や剣を携えて軍勢を率いている勇ましい姿を思い浮かべてしまいます。

しかし、ここに伝わるのはその遥か以前。

滝の流れる山の中で遊ぶ、一人の少年としての神武天皇です。

大自然の中で兄弟達と一緒に遊んだり、時にはいたずらをしたりする事もあったのかな…などと想像すると何だか微笑ましいですよね。

こういう「英雄になる前」の伝承が残っているのが、神武天皇の故郷ならではだと思います。

御池(皇子港)
御池(皇子港)
御池(皇子港)

高千穂峰の麓には、火山活動によって形成された美しい火口湖・御池(みいけ)があります。

その湖畔にある皇子港(おうじこう)も神武天皇ゆかりの場所です。

皇子港という名前は、幼少期の神武天皇がこの水辺で遊んでいた事に由来すると伝えられています。

高原町に伝わる伝承の中の神武天皇は、本当に自然の中で伸び伸びと育っていた少年という印象を受けますね。

霧島の雄大な山々を眺めながら、滝や川や湖で遊び回る。

後に天下を治める人物としての素養を身につけていく前には、こんな少年時代があったのかもしれません。

神武天皇と馬・龍駒道
龍駒道から見た風景
龍駒道から見た風景

高原町には神武天皇と馬にまつわる伝承も残っています。

龍駒道(りゅうこまどう)と呼ばれる場所では、幼少期の神武天皇が馬の稽古をされたと伝えられています。

以前、鹿児島県霧島市の記事でも神武天皇の東征に際して軍馬を出したと伝わる「春山牧」を紹介しました。

またこの後紹介する高原町の「馬登」にも神武天皇と馬の伝承が残っています。

南九州には本当に神武天皇と馬を結び付けた伝説が多いですね。

記紀そのものには神武天皇が幼少期に乗馬をしていたという記述はありません。考古学的にも馬が日本に入って来るのはずっと後の時代の事です。

しかし、後世の人々にとって馬は武人や支配者を象徴する大切な存在でした。

後に軍勢を率いて大和へ向かわれる神武天皇の姿から、「きっと幼い頃から馬を操る訓練をしていたのだろう」と人々が想像し、この様な伝承が生まれていったのかもしれませんね。

都街道
都街道 標識
都街道 標識

高原町には都街道と呼ばれる道も残っています。

高千穂と皇子原を結んでいた道であると伝えられています。

皇子原で生活する狭野尊やその一族が、高千穂周辺を行き来する際に利用した道だったのでしょうか。

こうした「道」の伝承が残っていると、点として存在する史跡が線でつながって行く様で面白いですよね。

高原町に伝わる高千穂宮・宮ノ宇都
高千穂宮(宮ノ宇都 )
高千穂宮(宮ノ宇都)
高千穂宮(宮ノ宇都 )
高千穂宮(宮ノ宇都)

湯之元温泉のすぐそばには、宮ノ宇都(みやのうと)と呼ばれる場所があります。

『高原町史』に記された伝説によれば、天孫・瓊瓊杵尊が高千穂峰へ降臨された際、この地を大変良い場所であると考えられ、宮居を建てて「高千穂宮」とされたと言います。

その後、神武天皇の父・彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊もこの地に帰って来られ、高殿を設けて国土経営にあたられたと伝えられています。

神武東征シリーズでは、鹿児島県霧島市の石體神社も高千穂宮伝承地として紹介しました。

そして宮崎県高原町にもまた、高千穂宮に結び付く伝承が存在しています。

古代の事ですので「高千穂宮」が一体どこにあったのかを現在の私達が断定する事は出来ません。

しかし、高千穂峰を中心として宮崎県・鹿児島県双方に、日向三代や神武天皇にまつわる高千穂宮伝承が数多く残されているという事自体が非常に興味深いと思います。

霧島連山一帯が古くから神聖な土地として意識されて来た事が伝わって来ますね。

狭野神社

狭野神社
狭野神社

高原町の神武天皇ゆかりの神社と言えば、やはり外せないのが狭野神社(さのじんじゃ)です。

御祭神は神武天皇。

社伝によれば、第5代孝昭天皇の御代に神武天皇御降誕の地に創建されたと伝えられています。

現在の狭野神社から西方約1kmの場所には、先ほど紹介した末社・皇子原神社が鎮座しています。

そこに産場石が祀られ、神武天皇御生誕の霊跡として現在まで大切に守られているんですね。

狭野神社
狭野神社

狭野神社の由緒では、神武天皇は御年十五歳を迎えるまでこの地で過ごされたと伝えられています。

そしてこの地で、天下を広く治める為の心を培われたとされています。

御生誕の産場石。

遊ばれた皇子滝や御池。

馬の稽古をされた龍駒道。

こうして周辺の伝承を一つずつ見て来ると、「十五歳までこの地で育った」という伝承にも、一つの大きな物語として繋がりを感じますね。

後に国を建てる人物が幼少期を過ごした土地として、高原町の人々がこの土地を大切にして来たのでしょう。

霧島連山の麓に位置する狭野神社
霧島連山の麓に位置する狭野神社

高千穂峰をはじめとする霧島連山の麓に鎮座する狭野神社は、長い歴史の中で幾度となく火山噴火の災禍にも見舞われて来ました。

延暦7年(788年)の霧島山噴火以降も度々被害を受け、文暦元年(1234年)の噴火では社殿が焼失したと伝えられています。

その後、一時別の場所へ遷されましたが、霧島山の噴火が治まった後に再び狭野の地へ戻られました。

また平成23年(2011年)の新燃岳噴火の際にも、小林市の霧島岑神社へ一時遷御されています。

神武天皇御生誕の伝承地を守る神社が、長い年月に渡って霧島の火山活動と共に歴史を歩んで来たんですね。

幾度災害に遭っても再建され、神武天皇を祀り続けて来たという所にも、この地域における信仰の強さを感じます。

狭野神社
狭野神社

狭野神社の境内には、鬱蒼とした杉並木が続いています。

文禄年間、島津義弘が朝鮮出兵に際して狭野神社で戦勝祈願を行い、帰国後の慶長5年(1600年)、その祈願奉賽として重臣の新納武蔵守忠元を遣わして境内に杉を植栽したと伝えられています。

この杉並木は大正13年(1924年)に「狭野の杉並木」として国の天然記念物に指定されました。

現在この参道を歩いていると、周囲から外界が切り離されて行く様な独特の雰囲気があります。

神武天皇がこの杉並木そのものを歩いた訳ではありませんが、その御生誕の地として何百年にも渡って人々が崇敬して来た歴史を感じる場所だと思います。

十歳の狭野尊と不思議な猿の伝説

高原町には、幼少期の神武天皇にまつわるちょっと不思議で面白いお話も残っています。

狭野尊御年拾にして霊感あり。即ち霧島山の絶巓に御登仙、神霊来りて祖宗より日本国統治の印鎰を受けられたり。尊神璽を奉じて下山、璽を山中の岩頭に託し御みそぎあるに、樹上猿公神璽を取りて樹間に遁入す。尊即ち偽りて、石礫を取りて投じ給えば猿公又斯くの如くしたり。尊璽を取りて還幸されたり。」とある。

狭野神社伝より引用

『狭野神社伝』によると、狭野尊は御年十歳の時に霊感を受け、霧島山の頂へ登られました。

そこで神霊より、祖先から伝わる日本国統治の印を授けられたとされています。

尊はその神璽を奉じて山を下り、途中で禊をする為に神璽を岩の上へ置きました。

すると――

木の上にいた猿が、その神璽を取って逃げてしまったと言うのです。

神璽を持って木へ逃げる猿と幼少期の神武天皇
神璽を持って木へ逃げる猿と幼少期の神武天皇

狭野尊は猿を追いかけるのではなく、石を手に取り、投げるふりをしました。

すると猿も尊の真似をして、持っていた神璽を投げる動作をした為、その隙に神璽を取り戻されたと伝えられています。

何とも可愛らしく、それでいて知恵比べの様な伝説ですよね。

後に大和の豪族達を相手に知略を駆使しながら東征を進めて行かれる神武天皇ですが、十歳の時から既に力任せではなく知恵を使って問題を解決していたというお話になっているのが非常に面白いです。

英雄の幼少期の逸話として語り継がれて来たのでしょうか。

個人的に今回の高原町の伝承の中でも凄くお気に入りのお話です。

「狭野」という名前と神武天皇

江戸時代に薩摩藩が編纂した『三国名勝図会』にも、狭野と神武天皇の関係について触れられています。

そこでは「狭野」は地名であり、上古には土地の名前をその人物の名前として用いる事があったと述べ、神武天皇がこの地で御生誕された事を『日本書紀』の記述から考証しています。

神武天皇の幼少期の御名として伝えられる「狭野尊」。

その名前自体が、この「狭野」という土地と結びついていると考えられて来たのですね。

史跡だけでなく、人名と地名の結びつきまで考えると非常に興味深いです。

高原町から宮崎へ――もう一つの「御東遷」

ここから神武天皇は、いよいよ生まれ育った高原町を離れて行きます。

一般的に「神武東遷」「神武東征」と言えば、宮崎から大和の橿原へ向かわれた一連の物語を指します。

しかし『高原町史』では、それ以前にも高原町から宮崎へ向かわれたもう一つの御東遷が伝えられています。

伝承によると、神武天皇は高千穂宮で御年15歳の時に皇太子となられ、その後宮崎へ向かわれたと言います。

その道順もかなり具体的に残されています。

宮ノ宇都→ 狭野渡→迎→ 馬登→鳥居原→宮崎

という流れです。

こういう具体的な移動経路が残っていると、本当に神武天皇の後ろを付いて歩いている様な気持ちになりますね。

一つずつ辿ってみましょう。

狭野渡
狭野渡
狭野渡

狭野渡(さのわたり)は、神武天皇が宮崎へ向かわれた際に渡られた場所と伝えられています。

松八重川(一名・花堂川)の下流にあるとされています。

幼い頃から慣れ親しんだ高原の地を離れ、東へ向かう。

神武天皇にとって、この川を渡るという行為は一つの大きな節目だったのかもしれません。

人々が神武天皇を迎えた「迎」
迎 標識
迎 標識

蒲牟田には、現在も迎(むかえ)という地名が残っています。

神武天皇が御東遷される際、土地の人々がこの場所まで出迎えた事に由来すると伝えられています。

神武天皇一人が旅立って行くのでは無く、道中にはこうして土地の人々の姿が伝承として残されているんですね。

この地で育った若き皇子がいよいよ故郷を離れる。

地元の人々にとっても、大きな出来事だったという形で語り継がれて来たのでしょう。

馬登
馬登碑
馬登碑

馬登(まのぼり)は、神武天皇が宮崎へ向かわれる際、土地の人々から馬を献上された場所と伝えられています。

『高原町史』では、この場所で神武天皇が初めて馬に乗られたとも記されています。

幼少期に龍駒道で馬の稽古をされたという伝承と合わせて考えると面白いですよね。

龍駒道で馬を習い、成長して故郷を旅立つ時には馬を献上される。

高原町に伝わる神武天皇と馬の物語が一つにつながっている様に感じます。

故郷との最後のお別れ・鳥居原
鳥居原 標識
鳥居原 標識

そして神武天皇を見送った最後の場所と伝えられているのが鳥居原(とりいばる)です。

神武天皇が御東遷の途に就かれた際、土地の人々が鳥居を立てて御歓送申し上げた場所であると言われています。

ここまで一連の流れを追いかけて来ると、この鳥居原の伝承はかなり胸に来るものがありますね。

神武天皇本人にとっても、生まれ育った高原の地を見る最後の瞬間だったのでしょうか。

この後さらに宮崎へ進み、やがて美々津から九州を離れ、数々の苦難を乗り越えて大和の橿原へ辿り着く事になります。

そう考えると、この鳥居原は壮大な神武東征物語の「故郷との別れ」の場所と言えるのかもしれません。

まとめ

以上、宮崎県高原町に残る神武天皇御生誕地と、その周辺に残るゆかりの地を紹介しました。

高原町の地図
高原町の地図

前回の記事では鹿児島県に伝わる神武天皇の足跡を辿って来ましたが、高原町に来るとまた違った神武天皇の姿を見る事が出来ました。

高原町には、「神武天皇が生まれた」という一点だけではなく、一人の少年が成長して故郷を旅立つまでの物語が地名や史跡として残されているんですよね。

記紀に描かれる神武天皇は、既に東征を決意して軍勢を率いる成人した姿が中心です。

しかし地方に伝わる伝承には、記紀には描かれていない幼少期の神武天皇があります。

滝で遊んだり、湖で遊んだり、馬の稽古をしたり、猿と知恵比べをしたり…。

遠い神話の中にいる「初代天皇」という存在が、少し身近な人物に感じられる様な気がします。

次回も引き続き、宮崎県に残る神武天皇の足跡を辿って行きたいと思います。

ここまでご覧頂きありがとうございました!

小さい頃遊んだ御池でふと昔を懐かしむ神武天皇
小さい頃遊んだ御池でふと昔を懐かしむ神武天皇

『日本書紀 現代語訳』宇治谷孟 (講談社学術文庫 1988年)

『古事記(上)全訳注』次田真幸 (講談社学術文庫 1977年)

『古事記(中)全訳注』次田真幸 (講談社学術文庫 1980年)

『高原町史』高原町編さん委員会編 (高原町 1984年)

『三国名勝図会 下巻』五代秀尭、橋口兼柄 共編 (南日本出版文化協会 1966年)

狭野神社由緒・狭野神社公式HP

皇子原神社由緒

高原町観光協会HP

~神話のふるさとみやざき~みやざきの神話・伝説・伝承 宮崎県観光推進課記紀編さん記念事業推進室

写真提供 宮崎県

ゆかりの地紹介一覧へ
ライター画像
Writer げぴこ@らくがき日本の歴史

古事記や日本書紀、神社の伝承を調べたりするのと、絵を描くのが好きなアラサー女子です。神武天皇と五瀬命が控えめに言って大好き。宇摩志麻遅命も好き。

Homepage

ラノベ古事記ラノベ古事記

当サイト代表が運営する古事記をキャラ萌えしながら楽しめる読み物コンテンツです。月間約50万PVを記録した人気サイト!ぜひご覧ください!