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レポート
投稿日:2024/03/15 最終編集日:2024/03/16
今回の前編では、「越前国」の「敦賀」からはじまる「越国」を主にご紹介してみました。
→前編:越今昔物語
後編は「能登国」です。
奈良時代を代表する歌人で、万葉集の編纂者でもある、大伴家持をご存じの方は多いと思います。
彼は天平18年(西暦746年)に「越中国」国司として「越中国」に着任し、天平20年(西暦748年)の春に、出挙という国司の務めで種もみを貸付る業務の為、当時「越中国」に属していた「能登国」を視察しました。その際に詠んだ歌から辿ってみます。
▼もくじ
あの御方の弟が治めた地・羽咋
大伴家持は、之乎路と呼ばれた峠道を越え「能登国」に入り、まずは気多神宮を参拝しました。
気多神宮は現在の「能登国」一宮・氣多大社、主祭神は越中大戦争で「出雲」より軍を率いて来られた大己貴命(=大国主命)です。
その歴史は古く、2000年以上前から信仰されてきたとも伝わりますが、気多神社文書の気多社祭儀録では、崇神天皇の時代に勧請されたと記載されています。
「之乎路から 直越え来れば 羽咋の海 朝凪したり 船梶もがも」
(之乎路の山道をまっすぐに越えてくると、羽咋の海は今まさに朝凪している、船の櫂でもあったらよいのに)
大伴家持は氣多大社参詣の後、羽咋の海辺を進んでいる時に、この歌を詠んだと伝えられています。
その氣多大社が創建されたと伝わる崇神天皇の御代の次・垂仁天皇の御代に、羽咋の地を治められたのは、垂仁天皇の第10皇子・磐衝別命でした。垂仁天皇の御代では、この辺り一帯に疫病が流行り、盗賊も横行し、更には毒の羽を持つ怪鳥が出現して人々を苦しめました。それらを鎮めるよう都から派遣された石衝別命は、3匹の犬と共に怪鳥退治に向かいます。怪鳥を退治した時、その犬が怪鳥の羽を喰べた事から、この一帯は「羽咋:はくい」と呼ばれるようになったそうです。
また、この地の農業を奨励する等、民が安心して生活できるように最善を尽くされた磐衝別命は、羽咋の人々から厚い崇敬を受け、命が薨去された後、人々は立派な墓を築いて埋葬しました。その磐衝別命を主祭神とする神社が現在の羽咋神社で、そこに磐衝別命の御霊をお祀りする、御陵山古墳があります。
磐衝別命が垂仁天皇の皇子ということは…そう、磐衝別命はこちらの五十瓊敷入彦命の伊奈波神社と伊奈波神社の浪漫と稽古照今でご紹介した、五十瓊敷入彦命の異母弟君にあたられます。
我が古事記最推しの御弟君が羽咋を治めておられたとは!そして同時に磐衝別命は、前編でご紹介した継体天皇にも繋がります。
磐衝別命の5代先の来孫・乎波智君の御娘・振媛と、応神天皇の玄孫の彦主人王の御子が、継体天皇なのです。
こうしてみると継体天皇は「越前」と「能登」、すなわち北陸に縁の深い御方だったということがわかりますね。
能登織姫伝説
前編でご紹介した「越中」と「能登」の大戦争では、伊須流岐比古命と通じ、一緒により重く罰せられたとされる能登比咩ですが、「能登」ではこの地に織物を広められた織姫として崇敬されています。
戦争を起こした罰として織物を織り、「越中」に機織りを広めた姉倉比売、「能登」の織姫としてこの地方に織物を広めた能登比咩、この2つの伝説を合わせるとなんだか不思議な織糸が結びついてくるような気もしますが、すべて今は昔、遠い時代の物語です。
そんな能登比咩がある日山賊に襲われた時に、海に放り投げられた機織機が、機具岩という岩になったと伝えられ、やがて能登二見とも呼ばれる夫婦岩になりました。
ちなみに能登二見は、伊勢志摩の二見浦の夫婦岩とは逆に、夕日がその奥に沈んでいくのですが、もうひとつ逆なのが岩の大きさ、向かって左の大きな岩が妻岩です。
さて、第10代崇神天皇の皇女・沼名木之入日売命が、能登半島の内陸部・現在の石川県鹿島郡中能登町に御滞在された伝説も残っています。そこに群生していた茉麻で糸をつくり、この地の女性に機織りをお教えになられたそうで、沼名木之入日売命も能登比咩と共に、「能登」の織姫として厚く崇敬されています。
御陣乗太鼓と能登切籠
機具岩から能登半島を北上すると、朝市で有名な輪島市があります。この輪島市の名舟町には、海藻の髪をつけた鬼や亡霊の面を被り、陣太鼓を打鳴らして勇壮に舞う、御陣乗太鼓が伝わります。
戦国時代、「越後」の上杉謙信が、「能登」の「名舟村」を攻撃してきましたが、村人は鍬や鎌といった農機具以外の武器を持っていなかった為、樹皮のお面と海藻の頭髪で仮装し、太鼓を打ち鳴らして夜襲をかけ、上杉軍を退散させたのが御陣乗太鼓の始まりと言われています。
その後、名舟沖「舳倉島」の奥津比咩神社の大祭で、御陣乗太鼓の舞いを奉納するようになり、今では毎年7月31日と8月1日斎行の、白山系奥津比咩神社の例大祭・名舟大祭の一部となっています。
名舟大祭では、初日の午後9時頃に、巡航を行う為、奥津比咩神社の遥拝所である白山神社に各地区の切籠が参集し、御神輿と共に名舟海岸へ向かい、御神輿を船に乗せ海に立つ鳥居まで運び、「舳倉島」の奥津比咩神社の御祭神をお迎えします。
御祭神が乗られた御神輿が海岸に戻ると御陣乗太鼓を奉納し、午後11時頃から御神輿と切籠が町内を巡行します。
2日目の本祭の午後2時に、御祭神が乗られている御神輿を船に乗せ、海に建つ鳥居まで御祭神をお送りし、再び海岸の広場で御陣乗太鼓の奉納が行われます。
このような神様が市街地、祭によっては海上を御神輿で渡御され、水辺や広場の御旅所(御明かし)や渡御神社に戻るという祭は、元は疫病退散や大漁・豊作を願って始まったそうです。
御祭神が渡御される時、同時に切籠または奉燈と呼ばれる切子灯籠を担ぎ、市街地を練り歩く切籠巡行がある祭は、能登キリコ祭と言われ、能登半島では約200ヶ所で行われていて、輪島市が舞台になった、平成27年度上半期NHK朝の連続テレビ小説・まれにも登場しました。
空海の見つけた島
輪島市を更に北上すると、能登半島の先端・珠洲市に辿り着きますが、この珠洲市には多くの空海伝説が残されています。真言宗の開祖である、空海こと弘法大師は、今も高野山奥の院で御存命との事ですが、平安時代に我が国を行脚されたと伝わり、津々浦々に大師にまつわる伝説が残っているのです。
珠洲市宝立町鵜飼にある石川県天然記念物・「見附島」もその一つで、弘法大師が「越後」の「佐渡島」から「能登」に渡った時に、最初に見付けた島であることに由来するそうです。
「見附島」はその形が似ていることから、「軍艦島」とも言われていたのですが、実はたびたび起こる地震で、島の一部が崩壊し続けていて、今回の能登半島地震では、島の南東側が大きく破壊され、「軍艦島」と呼ばれた景観が失われてしまいました。
狼vs.猿の死闘と青柏祭
能登半島の先端から半島の東側を南下すると、港町七尾市に辿り着きます。毎年5月1日から5月5日まで、この港町では大地主神社の例大祭・青柏祭が斎行されます。
青柏祭の由来は、祭で御神饌を青柏の葉に盛って供える事からきたと言われており、平安時代の天元4年(西暦981)年に、当時の「能登国」国守・源順が「能登国」の祭と定めたと言われていますが、起源は明確ではありません。
この青柏祭では、上段に歌舞伎の名場面をしつらえた、でか山と呼ばれる山車(曳山)が3台、街を練り廻ります。
この青柏祭、古くは卯月(4月)の申の日に開催されていて、実は申の日の開催には意味がありました。
その昔、「七尾」の山王神社に、毎年一人の美しい娘を人身御供として差出す習慣がありました。ある年、人身御供に決まった娘の父親が、娘の命が助からないかと深夜に神社の社殿に忍び込んでみました。すると1匹の大猿がいて、そこで「娘を喰う祭の日が近づいたが、「越後」のしゅけんは俺がここにいることを何も知るまい。」と呟いていたので、父親はしゅけんを探し出し、しゅけんのいる「越後」へ向かい助けを求めました。しゅけんは全身真っ白い毛の、人の言葉を話す狼で、昔3匹の大猿が他国から「越後」に来て、人々に害を与えたため、自分が2匹まで噛み殺したが、1匹は逃がしてしまい、行方知れずになったと話しました。その1匹が「能登」に隠れていたと知ったしゅけんは、娘の父親を背中に乗せ、海の上を鳥のように飛び「七尾」に到着し、祭の日に娘に代わり唐櫃に入り、神社に供えられます。その夜、「七尾」は暴風雨で大荒れでしたが、両者の格闘する壮絶な物音が聞こえたそうです。翌朝、しゅけんと大猿は相打ちにより、冷たい骸となって倒れていました。人々はしゅけんに感謝して手厚く葬り、また大猿の祟りを恐れて3台の山車を奉納し、これが1000年以上続く青柏祭となりました。
昭和58年(西暦1983年)1月11日、青柏祭は青柏祭の曳山行事という名称で、国の重要無形民俗文化財に指定され、平成28年(西暦2016年)12月1日には、我が国18府県33件の山・鉾・屋台行事の中の1件として、ユネスコの無形文化遺産に登録されました。
残念ながら令和2年(西暦2020年)と令和3年は、新型コロナウイルス感染症の影響により、でか山巡行は中止、令和4年に復活しましたが、今年は令和6年能登半島地震の影響で、再び中止が決定しました。
来年以降、再び勇壮なでか山が、港町を勢いよく練り廻る事を願ってやみません。
おまけのモーゼくん
港町七尾市から内陸に向かって南下すると、羽咋市のお隣・羽咋郡宝達志水町にある「宝達山」に辿り着きます。この「宝達山」の山麓には、モーゼパークという謎の伝説の森があるのです。
モーゼとは勿論、海を割ったあのモーゼです。
旧約聖書の出エジプト記に登場する、古代イスラエルの指導者・預言者で、神の啓示を受け、エジプトの多くのヘブライ人を約束の地へ導く使命を与えられ、シナイ山で神より十戒を授かりました。
モーゼは「約束の地」に入ることなく120歳で没したそうですが、実はシナイ山から天浮船に乗り出発し、能登半島の「宝達山」に辿り着き、583歳までの余生を「宝達山」で過ごした後、三ッ子塚に埋葬されたとの説に基づき、その三つ子塚辺りを町おこしとして整備し、平成5年(西暦1993年)にオープンしたのが伝説の森公園・モーゼパークです。
元々は山根キク(本名:山根菊子)という女性が主張したそうですが、本当かどうかはまぁ、その、信じる信じないかはあなた次第なアレです。
ただ「能登」は、「敦賀」同様ユーラシア大陸と近く、当然交易もあり、大陸から海を渡って来た人々も多くいたのは間違いないでしょう。
能登はやさしや土までも
最後に神話ではないのですが、「能登はやさしや土までも」この言葉を御存じですか?一説には江戸時代の旅日記に書かれていたとも言われるのですが、更に「越中泥棒、加賀盗人、能登はやさしや土までも」という言葉も伝わっています。
江戸時代、使った後の後払いのシステム先用後利で、薬を全国津々浦々の家に置いて行った「越中」商人は、口先上手の商売上手でその大胆さは泥棒級、「加賀」は天下の前田家100万石の城下町、お役人のお目付けも厳しく、そこでできる犯罪はこそこそした盗人ぐらい、人馴れしていない能登人は純朴・無垢な口下手で、口では叶はないから揉め事は起こさず、人どころか土までもやさしいぐらいの意味でしょうか?
越国に住むPandaは時折能登までドライブします、そんな車内でふとこの「能登はやさしや土までも」という言葉を思い出した時、納得してしまう風がそこには吹きます。
令和6年1月1日の元日に起こった地震はそんな「能登」に大きな災いをもたらし、その傷は地震から2ヵ月以上経った今も大きく開いています。
でもそこに住みその災いを真正面から受けてしまった人々は、傷つき苦しみ絶望に捕らわれながらも、またそこから立ち上がり、生きていこうとしています。
地震以前既に人口減や高齢化、限界集落の維持等々数多くの困難が露になっていた所に、更に多くの困難が待受ける事になった「能登」、でも人はそこで生きようとする限り、逞しく前を向いて生きていくんだと思います。
どうかそんな「能登」で生きようとする、生きている人達の事を忘れないで下さい。できるなら、落着いた頃にこの地を訪ねてみて下さい。のどかで緑に囲まれる春も、陽光眩しく蒼い海が際立つ夏も、稲穂で金に染まる秋も、すべてが止まりそうな白い冬も、きっと「能登」の自然は優しく迎えてくれます。
「東風 いたく吹くらし 奈呉の海人の 釣りする小舟 漕ぎ隠る見ゆ」
(あゆの風が激しく吹いているらしい、奈呉の海人たちの釣りをする小さな舟が漕ぎ進むのが、高波のあいだから見え隠れしている)
大伴家持が「越中国」の「奈呉」、現在の富山県射水市放生津町の辺りを歩いていて詠んだ歌です。
海上から陸地に向かって吹いてくる東風を、「越中国」ではあゆの風、「能登国」ではあえの風と呼びました。どちらも饗という意味で、海から吹く東風は豊漁という幸せを運んでくれる風だったのかもしれません。
その風に吹かれ、ゆっくり温泉につかり、海の幸を心行くまで食べ、古の時代から、その地その気候に育まれた人々のもてなしに触れてもらった時、「能登はやさしや土までも」を実感して頂けるかもしれません。
どうかまた「能登」、そして「加賀」と「越」の国をよろしくお願いします。
もっと能登と加賀と越の国
氣多大社
・住所:〒925-0003 石川県羽咋市寺家町ク1−1
・公式サイト:氣多大社
羽咋神社
・住所:〒925-0033 石川県羽咋市川原町エ164
機具岩
・住所:〒925-0443 石川県羽咋郡志賀町七海
白山系奥津比咩神社
・住所:〒928-0072 石川県輪島市海士町舳倉島高見2
見附島
・住所:〒927-1222 石川県珠洲市宝立町鵜飼
大地主神社
・住所:〒926-0052 石川県七尾市山王町1−13
モーゼパーク
・住所:〒929-1303 石川県羽咋郡宝達志水町河原130の2番地
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