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レポート
投稿日:2024/03/13 最終編集日:2024/03/15
いつもならまだまだ寒い時期に夏日の気温になったり、そろそろ温かくなる時期に関東で雪が降ったり、5年経つけどまだ温度調節の塩梅上手くいかないのかな?令和ちゃん大丈夫??と訊きたくなるような気候が続きますが、そんな令和ちゃんが6年を名乗る初日にPandaが住む地域は揺れに揺れました。
▼もくじ
令和6年能登半島地震
令和6年元日(1月1日)16時10分、能登半島の石川県鳳珠郡穴水町北東42㎞を震央とするマグニチュード7.6の地震が発生しました。最大震度は石川県の輪島市門前町と羽咋郡志賀町で観測された震度7で、Pandaが住んでいるエリアも震度5強を観測しました。
元々能登半島では何度かマグニチュード6.5以上の地震が起きており、Pandaも平成19年3月25日の能登半島地震では当時の職場で震度5弱、令和5年5月5日の奥能登地震では当時の自宅で震度4の揺れを経験していたのですが、今回の震度5強の揺れには大きな恐怖を覚えました。
被害も甚大で、家屋倒壊や土砂崩れが各地で起こり、津波や火災も発生し、200人を超える方々が亡くなられました…心よりご冥福をお祈りします。
能登半島にはその日から2ヵ月以上経った今も震災の爪痕が深く残り、人々はまだまだ多くの苦しみと哀しみを抱え、先の不安が拭えない状況が続いていながらも、復興と再建に向かって一生懸命進んでいます。
石川県のその他の地域や富山県、福井県や新潟県で被害を受けた人達も、不安や悩みを抱えながら前に進もうとしているのではないかと思います。今回は復興と再建の祈りも込めて、そんな「能登」と、その近隣の古事記や我が国の神話についてご紹介したいと思います。
はじまりは高志
「能登半島」という半島名が示す通り、今回の地震で甚大な被害を受けた地域は明治の廃藩置県以前には「能登国」となっていましたが、古事記の時代は現在の福井県敦賀市の東側から、山形県の庄内地方の一部までに相当する巨大な一帯が「高志」と呼ばれていました。
それが地方行政区分としての「国」に引き継がれ、西暦8世紀以降「越国」と書かれはじめます、こちらも「敦賀」の港から船出し日本海を北上したら、能登半島を超え東に向かい、新潟県の「弥彦山」を右手にみるまでの広大な範囲だったそうです。
大宝4(西暦704)年に公式文書では「越国」と統一され、「越国」は「越前国」・「加賀国」・「能登国」・「越中国」・「越後国」に分割されました。令和の現在では「越前国」は福井県の一部、「加賀国」と「能登国」は石川県、「越中国」は富山県、「越後国」は新潟県の一部となっています。
そんな「能登」と「加賀」と「越」の国の古事記と神話のエトセトラ、まずは当時の都に近い「越前国」からいってみましょう。
敦賀の渚にまつわるエトセトラ!
北陸地方の西の端・福井県は、古代律令制では「若狭国」と「越前国」に該当し、その境辺りは「敦賀」と呼ばれ、交通の要所として発展、更には天然の良港を有し、ユーラシア大陸との交易が盛んでした。その「敦賀」に「越前国」一宮の氣比神宮が御鎮座されています。朱塗りの鳥居も眩しい氣比神宮の主祭神は伊奢沙別命、食物神とも海神とも伝えられます。
古事記中巻の我らがヒロイン(ヒーロー?)こと神功皇后は、朝鮮半島の新羅遠征から戻られる時に、遠征前に突然崩御された仲哀天皇との皇子・品陀和氣命を御生みになられました。
しかし品陀和氣命は、仲哀天皇の第一皇子で異母兄の香坂王と、同じく異母兄の第二皇子・忍熊王に命を狙われるようになり、神功皇后(品陀和氣命)軍と香坂王&忍熊王軍の戦となります。
神功皇后軍は品陀和氣命が薨去されたとフェイクニュースを流し、棺を乗せた喪船を浮かべ、その喪船を狙ってきた香坂王&忍熊王軍に、突如喪船に隠れていた兵を襲い掛かからせます。
更にその戦の最中に、神功皇后が矢にあたり崩御されたとまたフェイクニュースを叫び、降伏の印として弓の弦をオーバーリアクションで切り、香坂王&忍熊王軍が勝利したと過信し、同じく弓の弦を切り武器を納めた瞬間に、すかさず攻撃に転じ香坂王&忍熊王軍を撃退しました。
この戦の後、品陀和氣命は禊を斎行される為に、忠臣・武内宿禰と「近江」に向かわれるのですが、その帰路で皇子の夢枕に氣比の神・伊奢沙別命が御立ちになられ、皇子からの御名前を御所望されます。皇子は御承知になられ、氣比の神がそれではとお伝えになられた通り、翌日の朝に浦へ出てみられると、辺り一面が伊奢沙別命が献じられた入鹿魚で埋まっていました。それにより、品陀和氣命は伊奢沙別命に御食津大神の御名を奉じられました。
入鹿魚の血で真っ赤に染まった浦は「血浦」と呼ばれるようになり、それが「都奴賀」となり、やがて「敦賀」となったということです。
品陀和氣命は、御即位されて応神天皇となられ、更に崩御された後に八幡神の御一柱となられるのですが、伊奢沙別命はその古事記中巻における超重要登場人物と深い係わりがある神様なのです。
「敦賀」の地名の基になった「つぬが」ですが、古代朝鮮半島「加羅国」の王族・都怒我阿羅斯等からきているとも言われます。古事記と並ぶ古代日本の公文書・日本書紀の垂仁天皇の条で、「御間城天皇(=先代の崇神天皇)の世に、額に角のある人が一つの船に乗って、越国の笥飯の浦に着いた。故に、そこを名づけて角鹿という」と記されていて、その人にどこの国の人か?と尋ねると、大加羅の国の王の子、名は都怒我阿羅斯等と応えられたそうです。
額に角のある人とは、被っていた牛頭の兜が角に見えたとも、当時の日本に住む人々には大柄で、自分達とは全然違う顔立ちの人には角があるように見えたとも言われていますが、果たしてどうだったのでしょうか?
敦賀港はその後もユーラシア大陸からの玄関口として栄え、第二次世界大戦時には、多くのユダヤ人の方が、当時リトアニア領事官に赴任していた杉原千畝氏の発給したビザでリトアニアを抜け、ソ連の極東から海を渡り辿り着きました。
そんな「敦賀」に令和6年3月16日、遂に北陸新幹線が辿り着きます。そう、北陸新幹線・金沢敦賀間開業です!この北陸新幹線延伸により、鉄道での東からのアクセスが、より早くより便利になりそうな、福井そして北陸へ、西からも東からも多くの人が訪れてくれるよう願います。
加賀はトップ・オブ・白山比咩
「越前国」のお隣「加賀国」は、その「越前国」を分割し、古代律令制の最後にできた国で、現在では石川県の一部です。一宮は白山比咩神社、全国に2,000社以上ある白山神社の総本社で、白山比咩大神と伊邪那岐尊・伊弉冉尊を主祭神とし、「越前国」・「加賀国」・そして現在の岐阜県の一部である「美濃国」にまたがる霊峰白山を御神体とする、白山信仰の総本宮です。
伊邪那岐尊と伊弉冉尊が、我が国と我が国の神々を御生みになられた御夫婦神なのは、多くの方がご存じでしょう。もう御一柱の白山比咩大神は、霊峰白山の水神や農業神として、人々の信仰を集めながら、菊理媛神と同一視されていく神様です。
菊理媛神は古事記には登場せず、日本書紀の正伝ではなく異伝(いわゆる別の一説)に、伊邪那岐尊と伊弉冉尊の人間を軽く1,000人以上巻き込む、「あの」夫婦喧嘩を仲裁された神様として登場されます。その御出自も仲裁された時に何と仰られたかも不明とされる謎多き媛神ですが、お陰で一応「あの」夫婦喧嘩が治まったのなら、人間はこの媛神に深く深く感謝して然るべきでしょう。
白山比咩大神と菊理媛神が同一視された理由はわからないそうですが、白山信仰は全国に広がり、また養老元(西暦717)年に泰澄聖人により白山が開山、白山比咩大神は神仏習合により、白山権現として信仰されていきます。
明治時代の神仏分離令により、白山比咩神社は現在の形となりましたが、今でも厚く崇敬され、毎年多くの人が参拝に訪れる、文句なしのぶっちぎり「加賀国」一宮です。ちなみにお隣「越中国」一宮は、メジャーどころだけで四社あります。
越中大戦争!舟倉山と石動今昔
「加賀国」を東に向かえば「越中国」で現在の富山県、北に向かえば「能登国」で現在では「加賀国」と同じ石川県となりますが、「能登国」と「越中国」も地続きで、その境辺りに「石動山」という山があります。この山は、かつては石の動く山という意味で「いするぎやま」や「ゆするぎやま」と呼ばれており、その山頂には、「能登国」二宮(一宮に次いで社格の高い神社)の伊須流岐比古神社が御鎮座されています。
古くは漁民や農民の信仰を集めた神社で、やがて仏教の広まりと共に、神仏習合による山岳信仰の拠点となっていくのですが、この「石動山」の男神・伊須流岐比古命が原因で、「能登」vs.「越中」の大戦争が起こってしまいます。
昔々、「越中」の「舟倉山」に姉倉比売という美しい女神がおられ、「越中」と「能登」の境にある「石動山」の男神・伊須流伎比古命と御夫婦でしたが、命は「能登」の「杣木山」の女神・能登比咩と通じてしまいます。姉倉比売は「杣木山」から戻らない伊須流伎比古命の様子を、御自分の山鳩に文を持たせ見に行かせましたが、その山鳩が血を流しながら戻り、命は比売からの文を読むどころか、怒って矢を射かけてきましたと伝えて死んでしまったので比売は嘆き悲しみます。その嘆きは怒りと憎しみに変わり、「舟倉山」と「石動山・杣木山」連合の戦になりました。姉倉比売に同情した「舟倉山」の隣の「布倉山」の女神・布倉姫も姉倉比売に加勢し、戦は益々激しくなります。そんな「越中」の天地がひっくり返るような戦いの有様をみて、高天原の高皇産霊神は、「出雲」の大国主命にこの戦を治めるよう命じました。大国主命は軍を率いて「越中」に出陣、結果姉倉比売と布倉比売は降伏し、姉倉比売は「舟倉山」から少し離れた「呉羽」に配流となり、そこで機を織り戦を起こした罪を償ぐよう大国主命に命じられ、布倉比売もその機織りを助けるように言われます。続いて大国主命は「能登」を攻め、伊須流伎比古命と能登比咩を降伏させ、より重く罰しました。姉倉比売は大国主命に命じられた通り「呉羽」で機を織り、布倉姫も姉倉姫を助けました。姉倉姫はその後許されて「舟倉山」に戻りましたが、そこでも機織りを広めながら静かに暮らしたという事です。
「越中」では姉倉比売を主祭神とする姉倉比賣神社が、本居地の「舟倉」(富山県富山市舟倉)と配流地の「呉羽」(富山県富山市呉羽町)に御鎮座されています。
「石動山」の山頂には、養老元(西暦717)年に泰澄聖人が開山したとも、霊亀2(西暦716)年に役行者がに登拝したのがきっかけとも伝わる石動寺が創建され、やがて石動山天平時と称されるようになります。
石動山天平時は、神仏習合により伊須流岐比古神社の別当寺として信仰を集めるようになり、山岳信仰の拠点として、最盛期には白山と並ぶ一大山岳霊場となりました。室町時代には南北朝の動乱に巻きこまれ、足利尊氏の命により焼打ちにあいますが、同じく尊氏が再建し、畠山氏が庇護します。しかしその畠山氏滅亡と、織田信長の「能登」制圧後は様々な苦境に立たされ、多くの領地を失いました。
やがて天正10(西暦1582)年に、織田信長が本能寺の変で亡くなると、畠山氏の遺臣と天平寺衆徒が「石動山」に立籠もり、旧領を回復するよう求めますが、新領主の前田利家をはじめ、柴田勝家や佐久間盛政らの天平寺攻めにより陥落、神社の御本尊である本地仏の虚空蔵菩薩像は召上げられ、「加賀国」と「越中国」の国境にある「白馬山」に築かれた前田家の山城の守護尊として、その地の愛宕神社に祀られます。
やがて山城と愛宕神社の一帯は新しい「石動」、すなわち「今石動」と呼ばれ、虚空蔵菩薩像は明治時代の神仏分離令により、愛宕神社近くの聖泉寺に安置されました。「石動」を「いするぎ」と呼ぶ地名は、この「今石動」エリアの富山県小矢部市に残り、毎年4月29日に斎行される愛宕神社の例大祭・石動曳山祭では、豪華絢爛な曳山が街を練り廻ります。
Long, Long Ago Koshi そして越後は長い
さて、姉倉比売と共に戦われた布倉比売ですが、この比売に発音が少し似た御名前を古事記でみかけます、「高志沼河」の沼河比売です、その類まれなる美しさの噂は「出雲」まで広まり、「能登」と「越中」の戦を治めた、間違いなく日本神話界№1のスケ…いえ、プレー…えーっと恋多き雄神・大国主命が目をつ…いえ、求婚しようと「高志」まで訪ねて来られました。なんとか、いえ、無事に御結婚された御二柱の間には、「出雲」の伊耶佐小浜で高天原の建御雷之男神と相撲をとることになる、建御名方神が御生まれになったとも伝わります。
現在の新潟県糸魚川市辺りが「高志沼河」だったとも伝わり、その地の女神・奴奈川姫が古事記の沼河比売で、奴奈川姫はかつて一大産地だった翡翠を以て、糸魚川を治められた祭祀女王だったのではないかとも言われています。
美しい比売をモノいえ、美しい比売と結婚する為なら長い道のりをモノともしなかった大国主命ですが、その大国主命より以前に「出雲」を治めていた神が須佐之男命、その神の一番有名なエピソードはおそらく(色々ありますが)八岐大蛇退治でしょう。八岐大蛇は古事記では八俣遠呂智と書かれる8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物ですが、なんと毎年「高志」から「出雲」に来ていたらしいのです。実際、海を航れば「出雲」と「高志」はそれほど遠くなく、多くの行来があったことが判明しています。その二つの国の歴史が、まだまだまつろわぬ民の多かった「高志」から来る8つの頭と8本の尾、その尾に天叢雲剣を持つ怪物・八岐大蛇や、「高志沼河」まで求婚の為に通い、「越中」と「能登」の戦を鎮めた大国主命の伝承へと繋がっていくのかもしれません。
そんな大きな「越国」ですが、西から向かうとその最終辺りの「弥彦山」が御神体で、その山麓に本社が御鎮座される「越後国」一宮・彌彦神社の主祭神は天香山命、古事記では建御雷之男神が、自分の屋敷の倉に降ろされた剣を、東征中の神武天皇に献上した高倉下として登場します。
彌彦神社社伝によれば、天香山命は「越後国」の「野積浜」(現・新潟県長岡市)に上陸され、地元民に様々な産業をお伝えになられた、「弥彦山」の「伊夜比古大神」として崇敬されたそうです。
「弥彦山」には彌彦神社本社近くの乗り場から、ロープウェーで山頂に上がっていくのですが、そこには天香山命とその妃神・熟穂屋姫命の御神廟として、彌彦神社・奥の宮が御鎮座されています。
また戻って越前
さて、ラストの「越後」から戻ってまたスタートの「越前」です。古事記ではさらっと触れているだけですが、我が国には過去に何度か皇位継承の危機がありました、その中でも諸々の事情により、「これはマジでヤバいんじゃないか?」となった時に皇位を継承されたのが第26代・継体天皇です。
継体天皇は古事記では「近江国」、日本書紀では「越前国」を治めておられたとされ、「敦賀」の氣比の神・伊奢沙別命に御名を奉じられた品陀和氣命(後の応神天皇)の5代後の御子孫・来孫に当たる方です。
第25代天皇・武烈天皇が崩御された時、皇位を継ぐ資格のある御方がおられず、群臣達は手を尽くして皇位継承者を探し出そうとしました。そこで遠方の地を治めておられた、応神天皇の御子孫の袁本杼命をお迎えしようとしましたが、命は御承知になられませんでした。しかし袁本杼命は皇位を継ぐのに相応しい御方で、群臣達が何度も説得を繰り返し続けたので、命は遂に御承知になられ、現・大阪府枚方市の「河内国」樟葉宮において御即位され、武烈天皇の御姉上で仁賢天皇の皇女・手白香皇女を皇后とされました。
福井県福井市足羽の「足羽山」に継体天皇を主祭神とする足羽神社があります。継体天皇が袁本杼命として越前におられた時に、後に宮中の守護神・座摩神として祀られる、生井神・福井神・綱長井神・波比祇神・阿須波神の御五柱の神を大宮地霊として祀られた地に、御即位され越前国を発たれる時に御自分の生御霊も祀られ、その後を馬来田皇女に託されたそうです。
足羽神社は代々馬来田皇女の御子孫が祭祀を継承され、現在も社家の馬来田家が宮司を務められています。
さて、ここまで「越国」をざっくりご紹介してきました、あまり古事記に登場しないようでいて、生まれてから(学生時代に少し離れてる期間を除き)ずっとこの「越国」に存在していた筈のPandaも改めて驚くぐらい、実は「出雲」や当時の日本の中心「倭」と深い繋がりがあった事が分かりますが、次の後編では「能登国」について更にご紹介していきたいと思います。
もっと能登と越の国
氣比神宮
・住所:〒914-0075 福井県敦賀市曙町11−68
・公式サイト:氣比神宮
白山比咩神社
・住所:〒920-2114 石川県白山市三宮町 二105−1
・公式サイト:白山比咩神社
伊須流岐比古神社
・住所:〒929-1812 石川県鹿島郡中能登町石動山1−2
姉倉比賣神社(舟倉)
・住所:〒939-2212 富山県富山市船倉2360
姉倉比賣神社(呉羽)
・住所:〒930-0138 富山県富山市呉羽町1813
・公式サイト:姉倉比賣神社
愛宕神社
・住所:〒932-0048 富山県小矢部市八和町6
彌彦神社
・住所:〒959-0323 新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2887−2
・公式サイト:彌彦神社
足羽神社
・住所:〒918-8007 福井県福井市足羽1丁目8−25
・公式サイト:足羽神社
さて、次回後編ではもう少し「能登国」についてご紹介したいと思います。
→後編:あえの風の吹く能登
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