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天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命とは
天孫降臨神話の主人公で、アマテラスの孫。やたら長い名前の持ち主。以下、ニニギ。
父のオシホミミが「地上世界に降りるのは嫌」と拒んだため、アマテラスの命を受け、鏡・勾玉・剣の3種の神器と稲穂を持って高天原から高千穂峰に降臨します。
降りてきた土地で、美女のコノハナサクヤヒメに一目ぼれ。
ニニギは、コノハナサクヤヒメと結婚をします。
その時に、コノハナサクヤヒメの父であるオオヤマヅミが気を利かせて姉のイワナガヒメも一緒にお嫁さんに贈りますが、イワナガヒメは容姿が醜かったため、ニニギは断ってしまいます。
また、妻が一晩で妊娠すると「本当に僕の子なの?」と疑うなど、なんだか微妙~な行動も。
名前の由来
アメニギシ クニニギシ アマツヒコヒコ ホノニニギノミコト
アメ・・天。空を意味し、天の国のこと。
クニ・・国。地上世界のこと。
ニギシ・・『饒(じょう)』。饒は、豊富な空と大地の栄える様子を表しています。
アマツ・・天津神のこと。高天原に住む神様という意味。
ヒコ・・日の子。日の神をあらわした名前。『ヒコヒコ』は日の神の御子が空高く照り輝くという意味。
ホノ・・穂の。稲穂の。
ニニギ・・賑々しい(にぎにぎしい)とっても賑やかなこと。
ミコト・・『~さま』神様や高貴な方を敬意をもって呼ぶこと。
ニニギにつけられた長~い名前には・・
天からやって来た日の神の御子によって地上世界に神聖な稲の種がもたらされた。
その稲の種が立派な稲穂に成長して、とっても賑やかな位に稲穂が豊かに稔る。
・・という意味が込められています。
意味もややこし~いので、
『天から降った神聖な稲穂が地上世界に実る』という意味
でいいと思います。
ニニギの別名
天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命/アメニギシク クニニギシ アマツヒコヒコ ホノニニギノミコト
日子番能邇邇芸命/ヒコ ホノニニギノミコト
能邇邇芸命/ニニギノミコト
天津彦彦火瓊々杵尊/アマツヒコヒコ ホノニニギノミコト
天津彦国光彦火瓊々杵尊/アマツヒコ クニテルヒコ ホノニニギノミコト
天津彦根火瓊々杵根尊/アマツヒコネ ホノニニギノネノミコト
天孫/テンソン
天神/アマツカミ
天津彦根火瓊瓊杵根尊/アマツヒコネホノ ニニギネノミコト
天国饒石彦火瓊瓊杵尊/アメノクニニギシヒコ ホノニニギノミコト
皇孫/コウソン
彦火瓊瓊杵尊/ヒコホノニニギノミコト
天孫/テンソン
天津日高彦火瓊々杵尊/アマツ ヒダカヒコ ホノニニギノミコト
天津日高日子番能邇邇芸能命/アマツヒコヒコ ホノニニギノミコト
天津日子番能邇邇芸命/アマツヒコ ホノニニギノミコト
日子番能邇邇芸命/ヒコ ホノニニギノミコト
天饒石国饒石天津彦火瓊々杵尊/アメニギシク ニニギシ ヒコ ホノニニギノミコト
天国饒石彦火瓊々杵尊/アメクニ ニニギシ ヒコ ホノニニギノミコト
彦火瓊々杵尊/ヒコ ホノニニギノミコト
天之杵火火置瀬尊/アマノ キホホ オキセノミコト
天杵瀬尊/アマノキセノミコト
火瓊々杵尊/ホノニニギノミコト
瓊々杵尊/ニニギノミコト
裒能忍耆命/ホノニニギノミコト
天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊/アメニギシク ニニギシ アマツヒコ ホノニニギノミコト
皇孫命/スメミマノミコト
など
ニニギの神話
天孫降臨(てんそんこうりん) >>
生まれたばかりのニニギが、地上世界へ降りることになったお話。
猿女君(さるめのきみ) >>
地上世界に降りたニニギ はアメノウズメに「サルタヒコを送っていってね。あと、結婚したらどう?」と言ったお話。
木花佐久夜比売(コノハナサクヤビメ) >>
「ブスは無理」「本当に僕の子なの?」耳を疑うような発言を連発したニニギのお話。
天孫降臨神話は天皇家の始祖神話であり、記紀における最重要神話とされています。
古事記ではアマテラスに命を受け、五伴緒(イツトモノオ)神と共に降りてきます。
それに対し日本書紀では、タカミムスビが命令を出します。
ニニギは、生まれたばかりで真床迫衾(まとこおうふすま)という布団に包まれて、天磐座(あまのいわくら)から降りて来ます。天孫降臨の地については、『日向襲之高千穗峯』または『筑紫日向高千穗』と記されています。
ニニギの陵についてですが、『筑紫日向可愛山之山陵(つくしのひゅうがえのみささぎ)』と記されています。
コノハナサクヤビメが一夜で妊娠した時のお話もあります。
ニニギが「本当に僕の子供なの?」と聞いた理由ですが
・コノハナサクヤビメが僕の子を宿していると思っていた。
・みんなに疑って欲しくなかった。
・僕が一夜で妊娠させることが出来ると知って欲しかった。
・コノハナサクヤビメには不思議なパワーがあるから、僕たちの子は凄いんだぞってことを証明したかったんだよ。
だから『本当に僕の子?』っていう言葉を述べたんだ
とニニギが話しています。
また、ニニギがコノハナサクヤビメの妊娠を疑います。
疑われたコノハナサクヤビメは出産後、ニニギを恨んで話してくれなくなりました。その事を悲しんだニニギは「2人一緒にいる浜千鳥が羨ましい」と歌を詠んだと記されています。
静岡県熱海市
日金山に、ニニギの荒御魂を祀っていると記されています。
また、伊豆山神社の雷電社(若宮)には伊豆大神の荒御魂と雷電童子(ニニギ)をお祀りしています。
比定地は宮崎県西臼杵郡高千穂町
ニニギが高天原から高千穂の二上(ふたがみ)の峰に降りた時のお話。
空は暗くて昼夜の区別がなく、人であろうが何であろうが、道を失って物の区別がつきませんでした。
真っ暗な世界でニニギは、途方に暮れてしまいます。
その時、大鉗(オオハシ)・小鉗(ヲハシ)という2人の土蜘蛛がいました。
「ニニギが、その尊い御手で稲の千穂(ちほ、数多くの稲穂)を抜いて籾(もみ)とし、四方に投げ散らせば、きっと明るくなります」と彼らは言いました。
そこでニニギは、言われた通りに多くの稲の穂を揉んで籾にして、投げ散らしました。すると、空が晴れ、日も月も照り輝きました。
そういうお話があって、この地を『高千穂の二上の峰』というようになったそうです。後世の人が改めて智鋪(ちほ)と言うようになりました。
ニニギが、日向国噌於郡(ひゅうがこく そお)にある高千穂の槵生(くしふ)の峰に降りました。
ここから薩摩国の阿多郡(あた)の竹屋村に移り住み、土地の人・竹屋守の娘と結婚して、二人の男子を授かりました。その時に、その所の竹を刀に作って臍の緒(へそのお)を切りました。その竹は今もあると伝わります。
日向国噌於郡とは・・?
鹿児島県大隅半島北部一帯(鹿島市・曽於市・霧島市一帯)を指す古い呼び名。
霧島連山の高千穂峰もこの郡に属することから、『霧島高千穂説』の有力な根拠とされるそうです。
土地の人・竹屋守の娘って・・?
記紀神話に当てはめると、娘はアタツヒメ(コノハナサクヤビメ)にあたり、土人竹屋守は、オオヤマツミノカミにあたります。
ニニギ の伝承の地
ニニギは『日向の高千穂の峰に降臨した』と天孫降臨神話の中で記されています。ニニギが地上に降り立った地は、各地に伝承として残っています。
宮崎県高原町
ニニギの降臨神話の残る標高1,574mの山。山頂には青銅製の『天の逆鉾』が立てられています。
天の逆鉾については諸説ありますが、ニニギが地上に降り立つ場所を雲の上から探すために使った後、この峰の山頂に逆さに立てたものと伝えられています。
また、坂本龍馬が妻のお龍とこの地を訪れ、天逆鉾を抜いたことが姉の乙女宛の書簡に残されています。これが『日本初の新婚旅行』とも言われています。
宮崎県高千穂町大字押方(山附 小谷内地区)
田井の槵触神社(くしふるじんじゃ)の背後の山。二上山はニニギが地上に降り立った地として、昔は山全体をご神体として祀る数少ない山岳信仰の場所でした。現在では高千穂町に二上神社、五ヶ瀬町に三ヶ所神社がそれぞれ建立されています。
宮崎県高千穂町大字三田井字狭山
槵触峰の中腹にある神社。
古事記に『日向の高千穂のくしふる峰に天降(あも)りまし…』と記される、ニニギの降臨の地と伝えられています。
最初は社殿もなく山そのものをご神体として祀っていましたが、300年程前に延岡藩主や村人の厚い信仰によって社殿が建てられました。
宮崎県高千穂町大字三田井字狭山
神代川のほとりにある天然の湧水。
ニニギが地上に降りた際に、この地に水がなかったため、アメノムラクモノミコトに命じて高天原の水の種を移した場所と伝えられ、ご神水として信仰されています。
春の高千穂神社、秋の槵触神社の例祭では、お旅所となり、神楽が奉納されます。
宮崎県西都市大字三宅
ニニギの一行が高天原から地上に降り立った後、舟に乗って着いた所で、その時の舟が祀られていると伝えられています。
御舟塚のある一帯は、神話の時代は奥深い海の入り江であったと伝えられ、古事記に記されている『笠沙碕(かささのみさき)』はこの地であるともいわれています。
宮崎県西都市大字三宅
児湯の池から流れ出る小川で、ニニギがこの川に水を汲みにきたコノハナサクヤビメと初めて出会い、一目ぼれした場所と伝えられています。
高千穂町にも同じ伝説の『逢初川』があります。
高千穂町大字三田井字御塩井
種をまかなくても稲が生えてくる『不蒔田(まかずのた)』ともいわれ、ニニギが高千穂の地に降り立った際に、蒔いた稲穂の籾の名残とも伝えられています。
この田に稲が実った年は、豊作であったともいわれています。
高千穂町大字三田井(浅ヶ部 猿伏地区)
ニニギが高天原の榊の木をこの山に植えたと伝えられ、今でも高千穂神社や槵触(くしふる)神社の例祭では、この山の榊を神事に使う風習が残っています。
西都市大字三宅
結婚したニニギと、コノハナサクヤビメの新婚生活のために建てられた御殿の跡といわれています。
『尋(ひろ)』は大人が両手を広げたときの長さを表すこと。なので八尋殿は、8人が手を広げて繋いだくらいの大きさの建物だったということになります。
宮崎県高原町大字蒲牟田
高千穂峰の麓にある御池を一望できる高台にある神社。
ニニギが地上に降りた際に初めて祖先の神々を祀った所と伝えられ、高千穂峰山頂にある『天の逆鉾あまのさかぼこ』はご神宝として崇められています。
毎年12月には不浄を祓うため、真剣を使って舞う祓川(はらいがわ)神楽が奉納されます。
宮崎県宮崎市大字熊野
コノハナサクヤビメとニニギを祀っています。
『木花』はコノハナ(木の花)に由来していると伝えられています。
境内には、コノハナサクヤビメが生んだ3皇子の産湯に使ったとされる『霊泉桜川』や、産屋(うぶや)があったとされる『無戸室(うつむろ)の跡』があります。
鹿児島県川内市宮内町。
空から見ると山が亀の形にそっくりなので別名『神亀山(しんきさん)』とも呼ばれています。
ニニギの陵墓で、鹿児島県内に存在する宮内庁指定の『神代三山陵(かみよさんさんりょう)』のひとつ。
皇室の祖先神であるニニギは、日向の高千穂の峰に降り立ちました。
その後川内へ辿り着き、この地を治めました。死後に可愛山陵へ葬られたとされています。すぐ隣にはニニギを祀る新田神社があります。
宮崎県西都市大字三宅
男狭穂塚はニニギノミコトの御陵、女狭穂塚はコノハナサクヤビメの御陵として、宮内庁が明治28年に御陵墓参考地として指定しています。
男狭穂塚は全長155mの国内最大規模の帆立貝形古墳ともいわれ、女狭穂塚は全長176mの前方後円墳で九州最大規模を誇っています。
鹿児島県南さつま市笠沙町赤生木ニニギの宮跡と伝えられています。女岳、野間岳への登山道の途中に住居跡などの遺跡があります。
吾田の長屋の笠狭の岬(日本書紀より)に上陸後、朝日の直刺す(たださす)国、夕日の日照る国、堪(いと。とても)吉き処(古事記より)
とニニギは言い、ここに住むところを建てたといいます。
天孫降臨後、皇都を立てるのにふさわしい国を求めてニニギは旅をします。
その地で、山の神様の娘であるコノハナサクヤビメと出会い結婚します。その後、3柱の御子が生まれました。
出産時、ニニギは竹刀で子どもたちのへその緒を切りました。その時に捨てられた竹が竹林となるまで繁り、やがて竹屋と呼ばれるようになったという伝承があります。
鹿児島県南さつま市笠沙にある黒瀬海岸。
『ニニギが天孫降臨に船で南に降りていき、辿り着いた地』という伝承があります。
黒瀬海岸にはニニギの上陸地の碑があり、地元の人々からは『神渡海岸』と呼ばれているそうです。
宮崎県宮崎市大字瓜生野
宮崎市瓜生野の竹篠山にある古寺。
ホオリ(山幸彦)がこの地で誕生し、成長した後にここから日向灘を眺めたと伝えられています。
王楽寺の名は、ニニギが「朝日や夕日のさすこの地は、良い地」と言って楽しまれた場所に由来しているといいます。
宮崎県西都市大字南方字鳥巣183-2
アマテラスの命を受けて新しい土地を求めて南へと下って行ったニニギは、お供の1柱である瀬織津姫(セオリツヒメ)を速川の瀬で急流に足を取られ亡くされました。ニニギは深く悲しまれこの地に小さな祠を建立して、セオリツヒメの御霊を慰めたことがに始まるという伝説が残されています。
その他
廃絶した境外末社には、鏡山神社(かがみやまじんじゃ)がありました。
かつては小倉町に鎮座していましたが、後に八尾神社に合祀。
ご祭神は八咫鏡(やたのかがみ)。
伝承ではニニギが当地の国津神(くにつかみ/地上世界に住む神様)の抵抗にあった際に、八咫鏡を隠した場所と伝わっています。
ニニギを主祭神とする神宮。
ニニギが水稲を作ったといういわれに由来し、境内の斎場で『田の神舞』が奉納されます。
境内にある御船磐座は、この地にニニギ一行の船が到着されたという伝承のある場所です。
ニニギが地上に降り立つときにアマテラスから3種の神器を授けられました。
八咫鏡・草薙剣・八咫の勾玉で、皇位継承の重要なシンボルになっています。
アマテラスは「八咫鏡を私の魂と思って大切に祀るように」とニニギに伝えました。
現在は形代が宮中三殿の賢所(かしこどころ)に御神体として、お祀りされています。
御利益(神徳)
五穀豊穣・畜産・国家安泰・家内安全・厄除け・富貴栄達
など
祀られている神社
●霧島神宮
●天津神社
●新田神社
●射水神社
●烏森神社
●築土神社
●真山神社
●富士山本宮浅間神社
●箱根神社
●多久頭魂神社
●木花神社
●竹屋神社
・槵触神社
・常陸国総社宮
など