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ゆかりの地巡り
投稿日:2022/06/21 最終編集日:2022/06/14
▼もくじ
訶志比宮(かしひのみや)
『古事記』に登場する、第14代仲哀天皇の皇居の名前。
現在の福岡県福岡市東区香椎にあったとされ、『日本書紀』では「橿日宮」と表記します。
仲哀天皇は大和には都を置かず、穴門の豊浦宮に皇居を置いた後、筑紫の訶志比宮に皇居を構えました。
帯中日子天皇、坐穴門之豊浦宮、及筑紫訶志比宮、治天下也。(『古事記』)
≪現代語訳≫
帯中日子天皇(仲哀天皇)、穴門の豊浦宮と筑紫の訶志比宮で政治を行った。
「訶志比宮」の跡地があるのが、香椎宮(かしいぐう)のすぐ側、「香椎宮起源の地 古宮」です。
熊襲討伐と三韓討伐の為に陣を張った、その軍事拠点だという事を表しています。
仲哀天皇の大偉業
天皇の大偉業は実に廣大にして其の一端が神功皇后の三韓征伐である。此の宮が策源地であったために大本営趾として記念碑が建って居る。
今日我国が世界の独立国として平和にして文化国として雄飛し居るは実に其の基を開かれた天皇の大偉業による。
此故に此宮は平和にして文化国日本の発祥地なり。
ここ香椎には、神功皇后の三韓征伐は仲哀天皇の意志であったと伝わっており、『古事記』や『日本書紀』で受ける印象とは随分異なります。
ちなみにここは「沙庭斎場」発祥の地でもあったりします。
沙庭(さにわ)は審神者とも書くアレですね。
神の信託を受けてその意を伝える人のことを指しますが、『古事記』では神の信託を受ける場所のことを指します。
初めて国史に現れた沙庭がここ、というわけです。
同一敷地内にある御神木、香椎。
「棺かけの椎」と書かれており、仲哀天皇の棺桶を立てかけたと言われています。(が、それにしては木が若いので、当時の木の子孫と考えられています。)
神功皇后達は椎の木に仲哀天皇の棺桶を立てかけ、あたかも仲哀天皇がそこに立っているかのような状態で御前会議を開きました。
その光景を思い浮かべると、なかなかにすごい状況です。
その際に特別な香りがしたから、香る椎、「香椎」という地名になったという事なのですが、そこに立っているのは遺体ですよ遺体。
その点を踏まえて考えると、この香りって死臭では?と気付いてギョッとしてしまいます。
具体的な方法などは記録に残っていませんが、古代日本では、死者を埋葬するまでの長い期間、遺体を棺に納めて仮安置し、死者との別れを惜しんだり、死者の復活を願ったりしつつ、遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認していたと考えられています。
ちなみに、イザナギが死んだイザナミに会いに行った場所が、『古事記』では「黄泉国」となっていますが、『日本書紀』の一書の九では「殯斂之處」(かりもがりをする場所)と書かれています。
竊收天皇之屍、付武內宿禰、以從海路遷穴門、而殯于豐浦宮、爲无火殯(『日本書紀』)
≪現代語訳≫
天皇の御屍を密やかに収めると、武内宿禰に預けて海路で穴門に遷し、豐浦宮で火を灯さずに殯を行いました。
仲哀天皇の殯が行われた場所について、『古事記』には書かれていませんが、『日本書紀』には豊浦宮と書かれています。
そもそも何を殯と呼ぶかはっきりしていないので何を持って殯と定義付けるかという問題はありますが、
棺かけの椎の話(前述)や、後に香椎廟が建てられた(後述)ことからしても、訶志比宮は仲哀天皇の殯が行われた場所の一つであろうと考えられます。
また、仲哀天皇は「殯斂地」と伝わる場所が数多くあります。
どれが本当でどれかが嘘というのではなく、死を隠されながら、移動しながら殯をしていっていたことを意味していると捉えると矛盾がないように思われます。
香椎廟から香椎宮へ
香椎宮に伝わる話によると、神功皇后によって訶志比宮の地に仲哀天皇が祀られました。
そして時代は下って奈良時代、神功皇后自身のご神託があり社殿が造設されることになり、神功皇后も一緒に祀ることとなったのが、今現在香椎宮のある場所です。当時は香椎廟でした。
香椎廟は、廟の名を持つ施設として最古のものだとも言われています。
明治以来には官幣大社香椎宮、戦後は香椎宮と称されるようになりました。
墓・陵墓・廟は、死者を祀るもの、
神社は、神様を祀るもの。
墓は、「墓石」、
陵墓は、天皇・皇后・皇太后・太皇太后を葬った「古墳」、
廟や神社は、「建造物」を指します。
関連情報
香椎宮(かしいぐう)
住所:福岡県福岡市東区香椎4-16-1
公式サイト:https://kashiigu.com/
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