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ゆかりの地紹介
投稿日:2026/10/31 最終編集日:2026/10/31
はじめに
こんにちは!神武天皇最推し、古代史大好き、げぴこです。
神武天皇の足跡を辿って行く「神武東征シリーズ」も今回で第7回となりました。
前回は宮崎県日南市に残る、神武天皇の最初の妃・吾平津姫と、その家族にまつわる伝承を紹介しました。

(前回の記事です。未読でしたらぜひ!)
今回は引き続き日南市を舞台に、神武天皇ご自身が若い頃を過ごされたと伝わる場所を辿って行きたいと思います。
神武天皇と言えば、軍勢を率いて大和を目指し、数々の苦難を乗り越えた初代天皇です。
しかし日南に伝わるのは、それよりも前のお話。
今回は駒宮神社、鵜戸神宮、宮浦神社の三社を中心に、神武天皇とご家族の物語を紹介します。
神武天皇が過ごした少宮跡・駒宮神社
最初に紹介するのは、日南市平山に鎮座する駒宮神社(こまみやじんじゃ)です。
御祭神は神武天皇。
この場所は神武天皇が幼少期を過ごされた「少宮趾(しょうぐうし)」と伝えられています。

『宮崎県神社誌』には、かつて駒宮大明神と称され、神武天皇の幼少時の少宮跡として伝わって来た事が記されています。
昭和9年(1934年)の神武天皇御東遷二千六百年には少宮趾として顕彰され、境内の拡張整備などが行われました。
以前紹介した高原町には御生誕や幼少期の伝承が数多くありましたが、日南にも若き神武天皇の生活の場が伝わっているんですね。
ここで暮らしながら、海へ出たり、父や吾平津姫のもとを訪ねたりされたのでしょうか。
そう思って周辺の伝承を見て行くと、「少宮跡」という言葉から日々の暮らしが少しずつ見えて来ます。

駒宮神社には、その名の通り馬にまつわる興味深い伝承があります。
神武天皇の愛馬「龍石(たついし)」のお話です。

『日向国神祇史料』には、神武天皇が舟釣りをされていた時、龍神から龍石という龍馬を賜ったと記されています。
また、駒宮神社の『祭神及び由来記』では、神武天皇はそれまで舟で鵜戸の父のもとへ通っておられたとされています。
ある日、舟で釣りをしていると、白髪の老人の姿をした龍神から一頭の龍馬を与えられました。
神武天皇はその馬を龍石と名付け、馬術の稽古に励まれ、それからは龍石に乗って父のもとへ通われたと言います。

海で釣りをしていた若者の前に龍神が現れ、不思議な馬を授ける。
まるで冒険物語の始まりの様ですよね。
また、神武天皇の母は海神の娘・玉依姫です。更に神武天皇の父・ウガヤフキアズノミコトの母も海神の娘であり伯母である豊玉姫です。二代続けて海の神の血脈を受け継いでいる事になります。今回の伝承からも皇室と海の神との深い繋がりを感じますね。

けれども、その馬に乗って向かう先が戦場ではなく「お父さんの所」というのが、何とも微笑ましいです。
高原町の龍駒道にも、幼い神武天皇が馬の稽古をされたという伝承がありました。
記紀にはこうした乗馬の場面はありませんが、南九州では神武天皇と馬を結び付ける物語が各地に残されています。
土地の人々にとって、若き神武天皇と馬の姿は、それだけ親しみ深いものだったのかもしれませんね。

神武天皇がこの駒宮の地より宮崎の宮に向かわれる時に、天下泰平を願い、ご愛用の御鉾を納められた洞窟の跡と伝えられています。
また、天皇が巨岩の前にて神事を行われた祭場跡とも考えられています。
駒宮神社の周辺には、龍石にまつわる古跡も伝えられています。
神武天皇が愛馬の龍石の足を洗った場所とされる「駒形石」。そして神武天皇が少宮へ上がる際に足を洗われたという「草履石」です。




当神社境内より歩いて2分、神川と呼ばれる小川のほとりにある古蹟です。
神武天皇が御足を洗われたり、愛馬をよく洗われ手入れされ、天皇の草履の跡と龍石の足跡が小川沿いの岩に残ったと伝えられています。

舟つなぎの松跡ともいわれていて、 当時この付近は入江で、鵜戸にいる父のウガヤフキアエズノミコトに会いに行かれる為にご使用になられた舟や、愛馬龍石を繋がれた松跡と伝えられるています。
昭和9年(神武天皇御東遷2600年)完成当時の荘厳な姿に戻すべく、平成25年6月に氏子崇敬者の浄財によって復元されたそうです。
馬をつなぎ、足を洗い、宮へ戻るという暮らしの場面が伝えられている点が面白いですね。



駒宮神社の伝承の中で、私が特に心惹かれるのが「煮花(あぜばな)」のお話です。
煮花とは、餅籾を煎って作る、ポンポン菓子の様な食べ物だそうです。
神社の由来記によると、神武天皇が初めて少宮に来られた時、地元の人々は歓迎の茶菓子代わりに煮花を差し上げました。
すると神武天皇は大変喜ばれ、その後、少宮に滞在された数年間、鵜戸の父や油津の吾平津姫に会いに行く際には、必ず煮花を持参されたと伝えられています。
前回紹介した吾平津姫との物語に、こんな可愛らしい一場面が残っていたんですね。
土地の人からいただいて気に入ったお菓子を、大切な人にも食べてもらいたい。
そんな気持ちだったのかな…と想像すると、神武天皇が急に身近に感じられて来ます。
もちろん、どの様な言葉を交わしたのかまでは伝わっていません。
けれども煮花を手土産に会いに行く姿には、後の建国の英雄とはまた違う、穏やかで温かな表情が浮かんで来る様です。
「神武天皇が青春を過ごした場所」という今回の題名には、この伝承から感じた思いも込めています。
この故事を受け継ぐのが駒宮神社の煮花祭です。
『宮崎県神社誌』では旧暦2月9日の神事として紹介され、煮花を神前に供えると共に、家内安全を願って家族でいただく習わしが記されています。
祭りには、又木を鍬の代わりにして地割をし、草を苗に見立てて植えるなど、五穀豊穣を願う所作もあります。
神武天皇へのおもてなしが、家族の無事や田畑の実りを願う神事につながっているんですね。


駒宮神社は「日向シャンシャン馬発祥の地」としても紹介されています。
シャンシャン馬とは、江戸時代の中期から明治の終わり頃まで行われていた、結婚した二人が鵜戸街道を通って鵜戸神宮に参詣する風習です。
三泊四日ほどの旅は、歩きやすい単衣の着物と言う軽装で出発し、鵜戸神宮の参拝を済ませると折生迫(おりゅうざこ)や内海あたりで最後の宿をとり、そこに兄弟親戚が揃って祝宴を開きました。
翌日、正装した花嫁を馬に乗せ、花婿は手綱を取って家路をめざしました。馬につけた鈴がシャンシャンとなる様子から「シャンシャン馬」と呼ばれ、「鵜戸さん参りは春三月からよ〜」(シャンシャン馬道中唄)と唄われました。
「ミスシャンシャン馬」は、花嫁を馬に乗せて日南市の鵜戸神宮に参拝するかつての様子を再現したもので、神武さまの「行列の華」とも呼ばれています。
現在この風習は無くなりましたが、花嫁を馬に乗せて日南市の鵜戸神宮に参拝するかつての風習を再現した「ミスシャンシャン馬」が宮崎神宮の御神幸祭(神武さま)にて再現されています。
神武天皇と吾平津姫の物語が伝わる土地で、後世には新しい夫婦の門出を祝う馬の風習が育まれた。
それぞれの時代の物語が重なっている様で、とても素敵だと思います。
伝承によると、神武天皇は宮崎へ向かわれる際、愛馬龍石を近くの牧に放たれました。
その場所は「立石の牧」と呼ばれ、牧場の始まりと伝えられ、立石の地名も龍石に由来すると言われています。

藩政時代には牧奉行が置かれ、馬を山から下ろす駒追の際には、馬を連れて駒宮へ参る習わしがあったそうです。
また、例祭には着飾った馬が集まり、馬踊りも奉納されたそうです。
父を祀る鵜戸神宮
続いては、日南海岸の岩窟に本殿が鎮座する鵜戸神宮(うどじんぐう)です。
御主祭神は、神武天皇の父・彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)。以下、ウガヤフキアズノミコトと表記します。


鵜戸神宮の創建は、第10代崇神天皇の御代と伝えられています。

その後、第50代桓武天皇の御代、延暦元年(782年)には、天台宗の僧と伝わる光喜坊快久(こうきぼうかいきゅう)が勅命によって初代別当となりました。別当とは、神社とお寺が結び付いていた時代に、神社の管理などにあたった僧の事です。
快久は神殿を再興すると共に寺院を建立し、「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」という勅号を賜ったと言います。
現在の「鵜戸神宮」という名前からは少し想像しにくいですが、かつては仏教とも深く結び付いた信仰の場所だったんですね。

宗派が真言宗に移った時期もあり、洞窟内の本宮のほか、本堂には六観音が安置されていました。一時は「西の高野」とも呼ばれ、神と仏を共に祀る神仏習合の霊場として大いに栄えたそうです。
しかし明治維新を迎えると、権現号と寺院は廃され、鵜戸神社へと改称されました。その後、官幣大社鵜戸神宮となり、現在へとつながっています。
長い歴史の中で祀り方や呼び名が変わっても、この地を神聖な場所として大切にする人々の思いは受け継がれて来たのでしょう。

鵜戸神宮には、ウガヤフキアズノミコトの母・豊玉姫が御子の為に乳房を岩に付けて残されたという「お乳岩」の伝承があります。


乳房を岩に貼り付けて…ちょっとびっくりする言い伝えですよね!
しかし、夫にお産を覗かれてしまった豊玉姫は我が子を置いて海の国に帰らなければなりません。苦渋の決断だったでしょう。
子を不憫に思い、自分がいなくても立派に育つ様に両乳房を置いて行かれたのでしょうね。
お乳岩から滴り落ちる清水で作る「おちちあめ」を母乳代わりにしてウガヤフキアズノミコトは育ったと伝えられています。
鵜戸神宮は、こうした物語から安産や育児の信仰を集め、漁業や航海の守護神としても崇敬されて来ました。
華やかな海辺の景色の奥には、家族の別れと子育ての物語が息づいているんですね。
母・玉依姫の住まいを伝える宮浦神社
最後に紹介するのは、神武天皇の母・玉依姫を祀る宮浦神社(みやうらじんじゃ)です。
社伝によれば、玉依姫のお住まいの跡に社殿が建てられたと伝えられています。
創建の年月は明らかではありませんが、桓武天皇の延暦年間に再興されたとされています。


その後も伊東氏による社殿の造営や修繕が行われ、かつては玉依姫大明神と呼ばれていました。
明治維新に際して玉依姫神社となり、一度は鵜戸神社に合祀されたものの、明治7年(1874年)に復社し、宮浦神社となりました。
玉依姫は、姉に代わって鸕鶿草葺不合尊を育て、後には神武天皇らの母となられた神様です。
神武天皇の物語を辿って来ると、その母の暮らした場所まで伝わっている事が嬉しくなりますね。

宮浦神社の南方、川沿いに約800m進んだ場所には、玉依姫の御陵と伝えられる古墳があり、石碑が建てられています。



また、宮浦神社の境内末社に五瀬命と稲飯命が祀られています。

いずれも神武天皇の兄に当たる神様です。
東征の物語では、兄弟はやがてそれぞれの運命を辿る事になります。
けれども日南の伝承を見ていると、遠い旅や別れより前の、一つの家族としての姿に思いが向かいます。
父のもとへ通った神武天皇。
その父を育て、神武天皇の母ともなった玉依姫。
そして母と共に祀られる兄たち。
一社ずつ辿る事で、英雄一人の足跡が、家族の暮らした土地の物語へと広がって行くんですね。
まとめ
以上、宮崎県日南市に残る、神武天皇が若い日々を過ごされたと伝わる場所を紹介しました。

駒宮神社に伝わる愛馬・龍石と煮花。鵜戸神宮に伝わる父の誕生と子育て。そして宮浦神社に伝わる母の住まい。
三社を通して見えて来たのは、神武天皇を取り巻く温かな家族と、土地の人々の姿でした。
神武天皇にも、父に会いに行き、大切な人への手土産を用意する日々があったのかもしれません。
そう想像出来る所が、故郷に伝わる物語の魅力だと思います。
日南の海辺に残る伝承は、「初代天皇」という大きな存在の向こう側に、一人の若者の表情を見せてくれる様です。
次回も引き続き、神武天皇の足跡を辿って行きたいと思います。
ここまでご覧頂きありがとうございました!

参考文献
『日本書紀 現代語訳』宇治谷孟 (講談社学術文庫 1988年)
『古事記(上)全訳注』次田真幸 (講談社学術文庫 1977年)
『古事記(中)全訳注』次田真幸 (講談社学術文庫 1980年)
『新みやざきの謎』三又喬(西日本新聞社、1992年)
『宮崎県神社誌』宮崎県神社庁編(宮崎県神社庁、1988年)