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ゆかりの地紹介
投稿日:2026/09/27 最終編集日:2026/09/27
はじめに
こんにちは!神武天皇最推し、古代史大好き、げぴこです。
神武天皇の足跡を辿って行く「神武東征シリーズ」も今回で第6回となりました。
前回は宮崎県の高原町に残る神武天皇御生誕の伝承と、幼少期を過ごされたとされる場所、そして高原町から宮崎へ向かわれた「もう一つの御東遷」の足跡を紹介しました。

(前回の記事です!未読でしたらぜひ!)
今回はそこから少し時代を進めて、宮崎県日南市に残る神武天皇と最初の妃・吾平津姫(あひらつひめ)の伝承を辿って行きたいと思います。
神武天皇と言えば、日向を出発して大和を目指した「神武東征」の物語が有名です。
しかし、その壮大な旅の陰には日向に残った妻と皇子達がいました。
神武天皇が東征へ向かわれた後、吾平津姫はどの様な思いで夫を見送ったのでしょうか。
日南市には吾平津姫を祀る神社だけではなく、神武天皇と吾平津姫の間に生まれた皇子、さらには姫の祖先とされる神にまつわる神社まで残されています。
それでは一つずつ紹介して行きましょう。
神武天皇の最初の妻・吾平津姫とは
吾平津姫は、神武天皇がまだ日向におられた頃に迎えられた妃です。
『古事記』では「阿比良比売(あひらひめ)」と記され、阿多之小椅君(あたのおばしのきみ)の妹とされています。
一方、『日本書紀』では「吾平津媛(あひらつひめ)」と記され、日向国吾田邑(あたのむら)の出身とされています。
『古事記』の阿多之小椅君と、『日本書紀』に登場する吾田君小橋(あたのきみおばし)は、同じ人物であると考えられています。
また『日本書紀』には、海幸彦として知られる火闌降命(ほのすそりのみこと)が吾田君小橋らの遠い祖先であると記されています。
『古事記』でも火照命(ほでりのみこと/海幸彦)の子孫として「隼人阿多君」の名が見える事から、吾平津姫やその兄は、南九州に勢力を持っていた隼人と関係する一族であったと考えられているんですね。
隼人とは、主に大隅・薩摩地方に住んでいた人々の事です。後には宮門の警護や歌舞などにも従事しました。
神武天皇は、天照大御神へとつながる日向三代の系譜を受け継ぐ人物です。
その神武天皇が、南九州の有力な一族の女性であった吾平津姫を妃に迎えられたと考えると、この結婚には単なる男女の物語だけではなく、土地の人々との結び付きもあったのかもしれません。
神話の中の結婚から、当時の南九州に暮らしていた人々の姿まで少し見えて来る様で興味深いですよね。

神武天皇と吾平津姫の皇子達
『古事記』によると、神武天皇と吾平津姫の間には多芸志美美命(たぎしみみのみこと)と岐須美美命(きすみみのみこと)という二人の皇子が生まれました。
『日本書紀』では手研耳命(たぎしみみのみこと)一人の名が記されています。
古事記と日本書紀で皇子の人数に違いがあるんですね。
神武天皇の東征に吾平津姫は同行せず、日向に残ったと一般に伝えられています。
ただし長男の手研耳命は父と共に東征へ向かったとも伝わり、大和まで付き従いました。
そして神武天皇は大和を平定した後、事代主神の娘・媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を皇后に迎えられます。(古事記では大物主の娘・比売多多良伊須気余理比売/ヒメタタライスケヨリヒメ)
手研耳命は神武天皇崩御後、その異母弟である神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと/後の綏靖天皇)を害そうとしますが、反対に討たれてしまいました。
父と共に東征を戦い抜いた皇子の最期としては、あまりにも悲しいものです。
日向に残った吾平津姫は、遠く離れた大和で起こった息子の悲劇を知る事があったのでしょうか。
記紀には吾平津姫のその後は詳しく描かれていません。
しかし日南市には、記紀が語らなかった吾平津姫と皇子達の物語が伝承として残されています。

神武天皇一家が最後の時を過ごした場所・吾田神社



こちらは日南市戸高に鎮座する吾田神社(あがたじんじゃ)です。
御祭神は吾平津媛命、手研耳命、天穂日命(あめのほひのみこと)。
吾平津姫と、その長男である手研耳命が一緒に祀られている神社です。
吾田神社は約1300年前、和銅年間に創建されたと伝えられています。
天正17年(1589年)には飫肥藩初代藩主・伊東祐兵によって再興され、社領十二石五斗が寄進されました。飫肥藩十一社の一つとして、歴代藩主から篤い崇敬を受けて来た神社です。
また『日向地名録』によると、かつて本社の東北にある田の中には「田ノ口大明神」、別名「火焼ノ宮」と呼ばれる社があり、明治5年(1872年)に吾田神社へ合祀されたと伝えられています。
吾田神社には、神武天皇御東遷以前の大切な伝承が残されています。
昭和15年(1940年)、紀元二千六百年を記念して宮崎県奉賛会より「神武天皇巡幸伝説地吾田」と刻まれた石碑が献納されました。
碑文には、神武天皇が御東遷に先立ち、宮崎の宮から妃の吾平津姫と皇子達を伴って、妃の出生地であるこの地を訪れ、しばらく滞在されたと伝わる事が記されています。
神武天皇は、東征へ出発する前に吾平津姫の故郷を訪れ、家族で最後の時を過ごされたという事なんですね。

前回の高原町の記事では、生まれ育った故郷を離れ、土地の人々に見送られる神武天皇の姿を紹介しました。
そして日南市に残る伝承では、いよいよ日向そのものを離れる前に、妻と子ども達との最後の団欒が語られています。
東征と言うと、どうしても軍勢を率いる勇ましい神武天皇の姿を思い浮かべます。
しかしその旅立ちの前には、夫として、そして父として家族と別れなければならない時間もあったんですよね。
これから海を渡り、いつ終わるとも分からない遠征へ向かう夫。
その無事を願いながら、故郷に残る妻。
そして父と共に旅立つ皇子と、母のそばに残る皇子。
この伝承を知ってから吾田神社を訪れると、神武東征の出発が単なる英雄の旅立ちではなく、一つの家族の別れでもあった事を感じさせられます。
吾田神社に伝わるお話では、最後の家族団欒の後、神武天皇は長男の手研耳命だけを伴って日向を発たれたと言います。
吾平津姫はこの地に残って夫の無事を祈り、次男の岐須美美命は土地の人々と共に耕作に従事したと伝えられています。
記紀ではほとんど語られない、日向に残った母と息子のその後がここにはあるんですね。
次男の岐須美美命は、東征に加わるのではなく、人々と一緒に土地を耕して生きたとされています。
天下を治める事を目指して東へ進む父と兄。
一方で、生まれ育った土地に残り、母を支えながら民と共に暮らす息子。
どちらも違った形で自分の役割を果たそうとしたのかもしれません。
資料には、吾平津姫と岐須美美命の自ら身を引く様な生き方が、穏やかな日南の土地柄を思わせるとも記されています。
確かに、争いの中心へ向かうのではなく、故郷に残って夫の成功を祈り、人々と共に土地を耕す二人の姿には、静かな強さを感じますね。

吾田神社の本殿裏には稲荷の祠があり、その横から小山へ続く階段があります。

その階段を少し登った所に、吾平津姫と手研耳命の御陵と伝えられる場所があります。




『神武天皇鳳蹟志』によると、吾田神社には、田ノ口大明神として祀られていた吾平津姫の木造神像と、「縣大明神」と呼ばれた手研耳命の木造神像が御神体として奉斎されていたと言います。

また、神社の西北の丘には吾平津姫の御陵伝説地があり、明治初年頃までは周囲一丈余りもある大木が立っていたものの、その後枯れてしまったと記されています。
『聖地古日向』にも、神社西北の丘に吾平津姫の御陵墓伝説地がある事が記されています。
さらに大字戸高字札垣には吾平津姫の宮跡、同じく青木山には手研耳命の宮跡と伝えられる場所があるそうです。
遠く大和で最期を迎えたと記紀に語られる手研耳命が、ここでは母・吾平津姫と並んで静かに祀られています。
実際に手研耳命がこの地に葬られたのかは分かりません。
けれども、悲しい最期を迎えた皇子を母の故郷へ帰し、親子一緒に眠らせてあげたいという人々の思いから、この様な伝承が生まれたのかな…とも想像してしまいます。
記紀の中では反逆者として討たれてしまう手研耳命ですが、日南の地では吾平津姫の息子として、今も母と共に大切に祀られているんですね。

吾平津姫を主祭神として祀る吾平津神社
続いて紹介するのは、日南市材木町に鎮座する吾平津神社(あひらつじんじゃ)です。


御祭神は吾平津媛命(あひらつひめのみこと)。
神武天皇の妃・吾平津姫を主祭神として祀る神社です。
吾平津神社は元明天皇の御代、和銅2年(709年)の創建と伝えられています。
古くは「乙姫大明神」と称し、江戸時代には先ほどの吾田神社と同じく飫肥十一社の一つとして、歴代飫肥藩主から篤く崇敬されました。
明治維新の際、伊東祐帰知事の意向により吾平津神社へと改称され、昭和8年(1933年)には郷社となりました。
境内には櫛磐間戸命(くしいわまどのみこと)と豊磐間戸命(とよいわまどのみこと)を祀る二社の御門神社があります。
そのほか祖霊社と、豊漁・商売繁盛の御神徳で信仰される乙姫稲荷神社も鎮座しています。
吾平津神社の由緒によると、神武天皇が皇子や群臣を率いて日向から大和へ向かわれた時、吾平津姫は同行せず、この油津の地に残られました。
そして神武天皇の御東遷の成功と、道中の安全を祈られたと伝えられています。
この故事から、吾平津神社は交通安全、航海安全、商売繁昌、諸祈願成就の神様として篤く信仰されています。
日向を船で出発し、幾度も海を渡って大和へ向かう神武天皇一行。
その船旅を思えば、吾平津姫が願った「道中の安全」は、そのまま航海の安全を願う信仰にもつながって行ったのでしょう。
現在では、旅立つ人を見送る側の願いと、旅をする本人の願い。そのどちらも受け止めて下さる神社なのかもしれませんね。
吾平津姫の名と、神社が鎮座する油津(あぶらつ)という土地の名にも興味深い説があります。

『日向纂記』では安井息軒の説を引用し、油津より北から鵜戸山までを昔は「吾平」と呼び、鵜戸山を吾平山と称するのもそのためで、現在の油津は元々「吾平津」であったのではないかとしています。
また『日本開闢史』では、吾平津姫は阿多君小椅の妹で、火闌降命の子孫であるとしています。
北郷町には火闌降命の遺跡があり、隣接する吾田には神武天皇と吾平津姫の皇子・手研耳命を祀る神社がある事から、吾平津姫の出生地は油津であったと考えたそうです。
吾平津姫という名前が先にあったのか、それとも吾平津という土地の姫という意味だったのか。
はっきりとした事は分かりませんが、人の名前と土地の名前が重なり合って伝わっている所が面白いですよね。
日南市一帯が吾平津姫の故郷として長く意識されて来た事が伝わって来ます。
吾平津姫の祖先・海幸彦を祀る潮嶽神社
吾平津姫の物語を辿る上でもう一社紹介したいのが、日南市北郷町に鎮座する潮嶽神社(うしおだけじんじゃ)です。

主祭神は火闌降命。
「海幸彦」の名で知られる神様であり、『日本書紀』では吾平津姫の兄・吾田君小橋らの遠祖とされています。
つまり潮嶽神社は、吾平津姫の祖先につながる神を祀る神社とも言えるんですね。
火闌降命を主祭神として祀る神社は大変珍しく、潮嶽神社は海幸彦を主祭神とする全国唯一の神社とも言われています。
火闌降命は海幸・山幸の物語で弟の彦火火出見尊(山幸彦)に敗れ、その後は弟を昼夜守ると誓います。
記紀ではどうしても「弟に敗れた兄」という印象が強い神様です。
しかしこの日南の地では、海幸彦は決して脇役ではありません。
隼人の祖、そして地域を守る産土神として、現在まで篤く信仰されて来たんですね。
潮嶽神社の由緒によると、海幸彦は山幸彦との争いの際、満潮に乗り、磐船(いわふね)という頑丈な船でこの地へ到着されたと伝えられています。
そのためこの土地は「潮嶽の里」と呼ばれる様になり、海幸彦はここに宮居を建て、長い年月に渡って国を治められたと言います。
御鎮座は口碑によれば神武天皇の御代と伝えられています。
歴代の領主や地頭、藩主、そして地域の人々から広く崇敬され、藩政時代には社禄が与えられました。毎年の大祭には太刀一口と幣帛が供えられたそうです。
潮嶽神社は、鵜戸神宮、榎原神社と共に「日向三権現」の一つに数えられています。
海幸・山幸の神、農耕の神、開運・諸願成就の神、そして郷土の産土神として信仰されています。
海の幸を得る力を持っていた海幸彦が、山あいの北郷の地で農耕の神としても祀られているのが興味深いですね。
吾平津姫の系譜を遡ると、こうして日南の土地に根付いた海幸彦の物語へとつながって行きます。

日南市の神武天皇ゆかりの神社を巡っていると、ある一つの共通点に気付きます。
吾平津神社に祀られている吾平津姫は、夫の東征には同行せず、日向に残った女性です。
吾田神社に祀られている手研耳命は、神武天皇崩御後に異母弟に討たれ、皇位を継ぐ事が出来なかった皇子です。
そして潮嶽神社に祀られている海幸彦は、海幸・山幸の物語で弟に敗れた兄です。
記紀の大きな物語だけを読めば、三柱はいずれも歴史の中心から外れて行った存在に見えるかもしれません。
しかし日南では、決して忘れられた存在ではなかったのです。
吾平津姫は旅の安全を守る神として。
手研耳命は母と共に祀られる皇子として。
海幸彦は地域を守る産土神として。
それぞれが今も土地の人々から大切に祀られています。
勝者や国を建てた人物だけではなく、その物語の陰にいた人々にも居場所を作り、長く祀り続けて来た。
そこに日南という土地の優しさを感じるのは私だけでしょうか。
まとめ
以上、宮崎県日南市に残る神武天皇と妻・吾平津姫の伝承を紹介しました。

これまでの神武東征シリーズでは、神武天皇の御生誕地や幼少期の伝承、そして東征へ向かうまでの足跡を辿って来ました。
今回の日南市で見えて来たのは、その旅立ちを見送った妻と、神武天皇の出発によって別々の道を歩む事になった家族の物語です。
記紀では吾平津姫について多くは語られていません。
けれども日南市に残る神社や伝承を一つずつ辿ると、夫の大きな使命を受け入れて故郷に残り、その無事を祈り続けた一人の女性の姿が浮かんで来ます。
神武天皇の東征は、神武天皇一人だけの物語ではありません。
共に旅立った人々がいた一方で、日向に残り、その旅を見送った人々もいました。
東征する神武天皇の背中を、吾平津姫はどの様な思いで見送ったのでしょうか。
日南の穏やかな海を眺めながら、そんな事を考えずにはいられませんでした。
次回も引き続き、宮崎県に残る神武天皇の足跡を辿って行きたいと思います。
ここまでご覧頂きありがとうございました!

『日本書紀 現代語訳』宇治谷孟 (講談社学術文庫 1988年)
『古事記(上)全訳注』次田真幸 (講談社学術文庫 1977年)
『古事記(中)全訳注』次田真幸 (講談社学術文庫 1980年)
『聖地古日向』鉄道省 編 (博文館 1940年)
『宮崎県神社誌』宮崎県神社庁 編 (宮崎県神社庁 1988年)
『神武天皇鳳蹟志』国府犀東 (春秋社 1940年)
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