天皇記『オトタチバナヒメの入水』
オトタチバナヒメの入水
駿河を平定したヤマトタケルのはさらに東へと進み、相模(神奈川県)に着いた。相模からは、三浦半島が突き出していて、半島の西が相模湾。東が東京湾だ。一行は東京湾側から上総(千葉県木更津市)に渡ろうと船を出すことにした。上総までは、肉眼で確認できる程近い。なんてことない短い船旅になるはずだった。
しかし、海の中ほどまで来ると、急に雲行きが変わってしまう。波が荒れ出し、嵐のように大粒の雨が振り出す。海神が怒り出したのだ。船はおもちゃみたいにクルクルと回され、雨と飛沫で視界も遮られた。もう自分たちが今どこにいるのかも分からない。前にも後にも進むことができず、船は今にも沈没しそうだ。
オトタチバナヒメはこの激しい雨に打たれながら、ヤマトタケルの腕を掴んで叫んだ。
オトタチバナヒメ
タケル!私が入水して、海神に命を捧げるっ!!
ヤマトタケル
・ ・ ・ ・ ・ はぁ!?何言ってんの。意味分かんない!!
オトタチバナヒメ
神の怒りを沈めるにはそれしか無いでしょ??このままじゃみんな沈んじゃう!!!
ヤマトタケル
でもっ ・ ・ ・ ・ ・ ・
オトタチバナヒメ
早くっ!!船が沈む前に!!!!
ヤマトタケル
え ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 嫌だ ・ ・ ・ ・
オトタチバナヒメ
嫌だじゃないっ!!タケルは東征を果たして景行陛下に報告するんでしょ??
オトタチバナヒメ
そのために私の命が役立てるなら私は幸せなの!!!だから早く!!!
ヤマトタケル
タチバナ ・ ・ ・ ・ ・ ・
オトタチバナヒメ
だから、タケルは絶対に東征を成功させて?
オトタチバナヒメ
・ ・ ・ ね?
オトタチバナヒメは覚悟を決めた顔で微笑んだ。
ヤマトタケル
・ ・ ・ ・ ・ ・
ヤマトタケルは彼女の目を見れずに頷くと、海の上に8枚蔓で編んだ敷物を重ね、8枚獣の皮を重ね、8枚絹の敷物を重ねた。激しく揺れる船から彼女がその上に飛び乗り座る。すると、さっきまで大荒れだった波が急に鎮まった。
彼女が最期にと、歌を詠う。
オトタチバナヒメ
あの燃え盛る炎の中、タケルが私の名前を呼んで抱き寄せてくれて ・ ・ ・ ・ ・ ・ すごく嬉しかったよ。
ヤマトタケル
タチバナっ!雨止んだよ、戻って!!
ヤマトタケルは、思わず手を伸ばす。
オトタチバナヒメ
・ ・ ・ ・ ・ ・
しかし彼女の方は手を伸ばしてくれなかった。涙を流しながら笑顔を浮かべたタチバナヒメと目が合うと、彼女は一瞬で大きな波に飲み込まれ、海の中へと消えてしまう。
それと同時に、厚い雲のかかっていた空が開けるように晴れていき、船員たちは奇跡だと言って空を見上げた。青空の映る穏やかな波の上にはヤマトタケルの伸ばした手だけが残った。
こうして海神の怒りは鎮まり、一行は無事に海を渡る事ができた。
しかし、ヤマトタケルはこの展開に頭がついて行けていなかった。まだ彼女に掴まれた感覚が腕に残っている。海岸にたどり着いたものの、何も考える事ができずに上総から海を見つめた。
それからあっという間に1週間が経った。
ヤマトタケル
・ ・ ・ ・ ・ ・
ヤマトタケルはこの海岸からまだ一歩も外に出ていない。今日も彼は海を眺めていた。
ヤマトタケル
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ !
すると波打ち際に半月型の黄色いものがチラチラと視界に入る。ヤマトタケルは何かのスイッチが入ったかのように急に立ち上がると、ばしゃばしゃと波をかき分けそれを拾った。
それはオトタチバナヒメのクシだった。
ヤマトタケル
・ ・ ・ ・ ・ ・
そのクシを見ると彼女が本当にいなくなってしまったんだとやっと実感が湧いてくる。クシにはその人の魂が宿ると言われている。
ヤマトタケル
タチバナ ・ ・ ・ ・ ・ ・
ヤマトタケルはクシを彼女の御魂と して、御陵を作って納めた。(千葉県茂原市橘樹神社)他にも彼女の遺品が流れ着いたところに、いくつかの神社が残っている。
オトタチバナヒメを失ったヤマトタケルは無表情のまま平定の旅を続けた。こうしていると父親の景行そっくりだ。とにかく、今は
オトタチバナヒメ
東征を成功させて ・ ・ ・ ・ ・
という彼女の言葉を叶える事で頭がいっぱいだった。ヤマトタケルは何も考えずに足を進め、東を根こそぎ平定していく。
気がつくと景行から頼まれていた最後の12ヶ国目の敵の目の前にいた。
ソレの首を切り落とすと、ヤマトタケルは一時停止でもされたかのようにピタリと止まる。
ヤマトタケル
終わった ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
ヤマトタケル
帰ろ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 父上に報告しなくちゃ。
景行に命令を出されてからかなりの年月が経っていた。大和にはもう何年も帰っていない。
ヤマトタケル
そういえば、尾張で「平定が終わったら迎えに行く」なんて約束をして来た姫がいたけど、彼女はまだ待っていてくれているのかな?
そんな事を考えながら、箱根の足柄山の麓で弁当を食べていると、目の前に白い鹿が現れた。
ヤマトタケル
この山の神様かな? ・ ・ ・ お祓いしとこ。
ヤマトタケルは、野蒜(のびる)という、お祓い効果のある、ちっちゃいニンニクモドキを投げる。
すると、その野蒜は鹿の目にクリティカルヒットし、鹿は死んでしまった。 正直、もう人も神もどれだけ殺したのか分からなくなていたヤマトタケルだったが、久しぶりに罪悪感を覚える。なんだか嫌な気分になりつつ、彼は足柄山を登った。
しばらく登ると道が一気にひらけ、海が一望できるとても美しい場所に出た。
その景色が目に入ると、オトタチバナヒメがいなくなってからずっと頭にかかっていたモヤが、スッーと晴れたような気がした。遠くから流れてくる海風が心地よい。
ヤマトタケルは無意識のうちにポロポロと涙を流していた。拭いても拭いても止まらず、三度もため息をつく。
ヤマトタケル
あづまはや ・ ・ ・ ・ ・ ・
現代語訳にすると、「あぁ、僕の奥さん ・ ・ ・ 」って意味だ。それまでシャットアウトしていた感情が一気に込み上げて来る。
ヤマトタケル
12ヶ国全部平定できたんだ。タチバナの死を無駄にしないで済んだ ・ ・ ・
ヤマトタケル
あとは父上に報告すればいいだけ ・ ・ ・ ・ ・ ・父上に ・ ・ ・
過去のいろいろな出来事が走馬灯のように駆け巡ぐる。
オトタヒバナヒメとの楽しい思い出と一緒に、他の余計な記憶までよみがえり、彼はしばらくその場所から動けなかった。
ヤマトタケル
ほんとは最初から分かってたんだ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
ヤマトタケル
父上の本当の望みが12カ国の平定じゃなかったことくらい。
タマトタケルの目から、またポロポロと涙が流れて来る。
やがてヤマトタケルの先ほどの一言で、関東周辺は「吾妻」と呼ばれるようになり「東」という漢字自体も「あづま」と読まれるようになった。
そのままトボトボと歩き続けていると、やがて甲斐に出た。気づけばもう日が沈みいつの間にか夜になっている。
ヤマトタケル
あれ ・ ・ ・ そういえば新治と筑波を出てからどのくらい経ったっけ ・ ・ ・
ヤマトタケルがポソっと詠うと、たまたま火の番をしていた老人が
老人
日を重ね重ねて九つの夜と十の昼を。
と続けて詠って答えた。
ヤマトタケル
ふふっ!聞いてたの? ・ ・ ・ 答えてくれてありがと。
そう言ってヤマトタケルは微笑むと、彼を東の国造に任命した。